Health and self-therapy information
asa health information 8月号 ④ 汗をかいているのに、身体は冷えていない? ~暑さ・湿度・体温調節の仕組みを知り、夏の身体を守る~
先日、秋山縦走に向けたトレーニングとして、御在所岳から鎌ヶ岳へ歩いてきました。
早朝には小雨。
登山を始めたときから、空気はかなり湿っていました。
御在所岳へ向かう中道登山道では、湿度は約80%以上の蒸し暑さ。
気温そのものが極端に高いというわけではありません。
ところが、歩き始めると汗が止まらない。
衣類は汗で濡れていく。
汗をかいているのに、身体の熱が抜けていかない。
次第に息苦しさも感じるようになり、いつもの登山とは明らかに違う身体の重さがありました。
このとき改めて感じたのが、
「暑さは、気温だけで決まるものではない」
ということです。
そして、もう一つ重要なことがあります。
それは、
「汗をかいているから、身体は冷えている」とは限らない
ということです。
今回の体験をきっかけに、暑さ、湿度、発汗、体温調節について考えてみます。
第1章 汗をかくことと、身体が冷えることは同じではない
暑くなったとき、身体は体温を一定に保とうとします。
その中心的な仕組みの一つが、
発汗です。
運動をすると筋肉から熱が生まれ、体温が上昇します。
すると身体は皮膚への血流を増やし、さらに汗を出します。
そして汗が皮膚表面から蒸発するときに熱を奪う「気化熱」によって、身体が冷却されます。
ここが大切なポイントです。
汗をかくこと
と
汗が蒸発すること
は、同じではありません。
汗が皮膚から流れ落ちているだけでは、十分な冷却効果は得られません。
汗が蒸発して初めて、効率的な身体の冷却につながります。
環境省も、身体は汗や皮膚温度の上昇によって熱を外へ逃がし、体温を調節していると説明しています。(環境省 WBGT情報サイト)
第2章 湿度が高いと、なぜ汗が乾かないのか?
今回の登山で特に印象的だったのが、
湿度約80%
という環境でした。
湿度とは、簡単に言えば空気中にどれくらい水分が含まれているかを表すものです。
湿度が低ければ、皮膚表面の汗は空気中へ蒸発しやすくなります。
ところが湿度が高いと、空気中にはすでに多くの水分が存在します。
そのため、
汗が蒸発しにくくなる。
すると、
汗をかく
↓
汗が乾かない
↓
身体の熱が逃げにくい
↓
さらに汗をかく
↓
水分・塩分が失われる
という循環が起こります。
環境省も、特に湿度が高い日や風が弱い条件では、汗をかいても蒸発しにくく、十分な水分・塩分補給が重要になるとしています。(環境省 WBGT情報サイト)
今回の登山で、
「汗は出ているのに、身体が冷えない」
という感覚があったのは、まさにこの現象です。
第3章 「暑い」より怖いのは、「熱を逃がせない」こと
暑さを考えるとき、多くの場合、
「今日は何℃なのか?」
を気にします。
しかし、身体への負担を考えるなら、それだけでは十分ではありません。
重要なのが、
- 湿度
- 風
- 日射・輻射
- 気温
です。
環境省が熱中症リスクの評価に使用している「暑さ指数(WBGT)」も、単純な気温だけではなく、湿度や日射・輻射などを考慮しています。(環境省 WBGT情報サイト)
つまり、
「気温はそれほど高くないから大丈夫」
とは限りません。
例えば、
気温30℃・湿度40%
と、
気温30℃・湿度80%
では、身体が熱を逃がす条件が大きく違います。
さらに風が弱ければ、皮膚周辺の湿った空気が入れ替わりにくくなります。
その結果、汗の蒸発がさらに進みにくくなります。
だから夏の身体を守るためには、
気温を見るだけではなく、「熱を逃がしやすい環境なのか」を見ることが重要です。
第4章 体温調節は、身体の「自動冷却システム」
人間の身体は、かなり精密な体温調節機能を持っています。
身体の内部で熱が増えると、脳の体温調節機構が働きます。
皮膚への血流を増やす。
⬇
汗を出す。
⬇
そして汗を蒸発させる。
こうして身体の熱を外へ逃がします。
いわば、
人体に備わった自動冷却システム
です。
しかし、このシステムにも限界があります。
- 外気温が高い。
- 湿度が高い。
- 風がない。
- 激しく身体を動かす。
- 大量の汗をかく。
- 水分・塩分が不足する。
こうした条件が重なると、
「熱を作る速度」>「熱を逃がす速度」
となります。
すると身体の内部に熱が蓄積していきます。
環境省は、体温の上昇と体温調節機能のバランスが崩れ、身体に熱がたまった状態が熱中症につながると説明しています。
第5章 汗は「水」だけではない
大量に汗をかくと、身体から失われるのは水分だけではありません。
汗には、
ナトリウムなどの電解質
も含まれています。
そのため、大量に発汗した場合、
「とにかく水だけを大量に飲めばいい」
とは限りません。
日本スポーツ協会は、暑い環境での活動では水分とともに塩分を補給することを勧めています。運動前後の体重変化を確認し、運動による体重減少を2%以内に抑えることも一つの目安としています。(日本スポーツ協会)
ただし、ここでも重要なのは、
一律に「何mL飲めばいい」と考えないこと。
発汗量は、
- 体格
- 運動強度
- 気温
- 湿度
- 風
- 衣類
- 体調
などによって大きく変わります。
だからこそ、自分がどれくらい汗をかくタイプなのかを知っておくことも、暑さ対策になります。
第6章 「喉が渇いてから」では遅いこともある
夏になると、
「喉が渇いたら水を飲む」
という習慣になりがちです。
しかし、暑い環境では、身体から水分が失われ続けています。
厚生労働省も、喉の渇きを感じなくても、こまめに水分・塩分などを補給するよう呼びかけています。(厚生労働省)
特に、
-
屋外で長時間過ごす
-
庭仕事をする
-
買い物などで歩き続ける
-
自転車に乗る
-
入浴する
-
エアコンを使わない室内で過ごす
-
高湿度の場所で作業する
といった場面では注意が必要です。
熱中症は「激しいスポーツをする人だけの問題」ではありません。
厚生労働省も、屋外だけでなく、室内で何もしていないときにも熱中症が起こり得るとしています。(厚生労働省)
第7章 スポーツをしていなくても、身体は熱をつくっている
ここは意外と見落とされやすいところです。
身体は、運動していなくても熱をつくっています。
- 心臓が動く。
- 呼吸をする。
- 脳が働く。
- 消化する。
- 筋肉が活動する。
- 細胞が代謝する。
生命活動そのものが、熱を生み出しています。
そこに、
- 暑い外気。
- 高い湿度。
- 風のない室内。
- 厚着。
- 長時間の家事。
- 入浴。
- 睡眠不足。
- 体調不良。
などが重なると、身体が熱を逃がしにくい環境になります。
つまり、
「運動していないから、熱中症にはならない」
という考え方は正しくありません。
第8章 夏の「だるさ」は、単なる疲労とは限らない
夏になると、
「身体が重い」
「頭がぼんやりする」
「食欲がない」
「何となく疲れている」
という状態になることがあります。
もちろん、睡眠不足や栄養不足など、さまざまな原因が考えられます。
しかし、高温多湿の環境では、体温調節のために身体が働き続けています。
- 汗を出す。
- 皮膚血流を増やす。
- 心拍数を調整する。
- 水分・電解質を失う。
こうした変化が積み重なれば、身体への負担は大きくなります。
だから、
「夏だから仕方がない」
と片付ける前に、
「今日は身体が熱を逃がせる環境なのか?」
と考えてみることも大切です。
第9章 体温を下げるには、「汗を拭く」だけでは足りない
汗をかくと、タオルで汗を拭きます。
もちろん不快感を減らす意味では大切です。
しかし、体温調節という視点では、
汗を拭き取るだけでは冷却効果を高められない場合があります。
重要なのは、
「汗を蒸発させること」です。
- 風を利用する。
- 衣類を調整する。
- 涼しい場所へ移動する。
- 日陰に入る。
- 冷房を使う。
- 首、脇の下、足の付け根などを冷やす。
こうした方法によって身体から熱を逃がしやすくします。
厚生労働省も、熱中症が疑われる場合には、涼しい場所へ移動し、衣服をゆるめ、身体を冷やすことを勧めています。(厚生労働省)
第10章 「冷やす」という発想を持つ
暑い季節には、
「水分を入れる」
ことばかり考えがちです。
しかし、もう一つ必要なのが、
「熱を外へ出す」
という発想です。
- 水分補給
- 塩分補給
- 冷房
- 送風
- 日陰
- 冷たいタオル
- 衣類の調整
- 休憩
これらはすべて、
身体の熱収支を改善するための方法
と考えることができます。
日本スポーツ協会も、熱中症対策として水分補給だけではなく、身体冷却、活動量・強度の調整、活動時間の変更などを挙げています。(日本スポーツ協会)
第11章 「暑熱順化」という身体の適応
暑い季節になると、身体は少しずつ暑さに適応していきます。
これを、
暑熱順化
と呼びます。
暑さに慣れていない状態で突然強い暑熱環境に入ると、身体への負担が大きくなります。
そのため、暑い時期の運動や屋外活動では、最初から無理をせず、徐々に身体を暑さに慣らしていくことが重要です。
環境省も、「無理をせず徐々に身体を暑さに慣らす」ことを熱中症予防のポイントとして挙げています。(環境省 WBGT情報サイト)
これは登山だけの話ではありません。
夏に庭仕事を始める。
自転車で遠出する。
ウォーキングを始める。
旅行で長時間歩く。
こうした場合にも同じ考え方が役立ちます。
第12章 今回の御在所岳で考えたこと
今回、湿度約80%の中を歩いてみて、
「気温」だけでは身体の負荷を判断できない
ということを、あらためて実感しました。
雨上がり。
高湿度。
風の弱い登山道。
身体を動かすことによって生まれる熱。
そして大量の発汗。
条件が重なることで、
「汗をかいているのに、身体が冷えない」
という状態が起こりました。
これは、単なる登山中の不快感ではありません。
身体が、
「熱を逃がすのが難しくなっている」
というサインでもあります。
だからこそ、身体の感覚を無視しないことが大切です。
第13章 身体の声を「我慢」で消さない
登山では、
「あと少しだから」
「ここまで来たから」
「予定どおり歩きたい」
という気持ちが出てきます。
日常生活でも、
「仕事があるから」
「家事を終わらせなければ」
「これくらい大丈夫」
と無理をしてしまうことがあります。
しかし、身体の体温調節には限界があります。
めまい。
立ちくらみ。
頭痛。
吐き気。
強い倦怠感。
筋肉のけいれん。
いつもと違う状態。
こうした症状が現れたら、
「もう少し頑張る」より、「いったん止まる」
ことが重要です。
厚生労働省は、意識がおかしい、意識がない、自力で水が飲めない場合には、すぐに救急要請が必要としています。(厚生労働省)
熱中症では、判断力そのものが低下することもあります。
だから、
「まだ大丈夫」と判断できるうちに休む。
これが重要です。
第14章 夏の健康管理は「暑さ」ではなく「熱収支」を見る
夏の身体を考えるとき、
「今日は何℃?」
だけではなく、
「身体は熱を作っているのか?」
そして、
「その熱を外へ逃がせているのか?」
という視点を持つ。
これだけでも、暑さへの向き合い方が変わります。
熱をつくる要因
- 運動
- 労働
- 家事
- 高温環境
- 厚着
- 発熱などの体調変化
熱を逃がしにくくする要因
- 高湿度
- 無風
- 強い日射
- 高い気温
- 大量の発汗による脱水
- 不十分な休息
こうした条件が重なるほど、身体の熱収支は悪化します。
だから夏の健康管理とは、
「暑さに耐えること」ではなく、「身体が熱を逃がせる環境をつくること」
なのかもしれません。
第15章 夏を安全に過ごすための7つの習慣
最後に、日常生活で実践しやすいポイントを整理します。
① 暑さは気温だけで判断しない
気温だけではなく、湿度、風、日射などにも注意します。
可能なら環境省のWBGT(暑さ指数)を確認します。(環境省 WBGT情報サイト)
② 喉が渇く前から水分を意識する
特に暑い場所で長時間過ごす場合は、こまめに水分を補給します。(厚生労働省)
③ 大量に汗をかいたら塩分も考える
汗には水分だけでなく電解質も含まれます。
特に長時間の発汗では、水分だけに偏らないことが大切です。(日本スポーツ協会)
④ 汗をかいたら「蒸発できる環境」をつくる
風を利用する。
衣類を調整する。
涼しい場所へ移動する。
身体から熱を逃がすことを意識します。
⑤ 暑い日は活動量を下げる
「いつもと同じ量をこなす」ことにこだわらない。
暑さそのものが身体への負荷になります。
⑥ 室内でも油断しない
熱中症は屋外だけの問題ではありません。
室温・湿度を確認し、必要なら冷房や送風を利用します。(厚生労働省)
⑦ 身体の変化を見逃さない
「少しおかしい」
「いつもより苦しい」
「頭が重い」
「力が入らない」
そんな小さな変化の段階で休む。
それが大きなリスクを避けることにつながります。
おわりに
「汗」は、身体からのメッセージ
御在所岳で汗だくになりながら歩いた今回の山行。
しかし、身体の仕組みを振り返ってみると、そこには重要なメッセージがありました。
汗が出ている。
呼吸が苦しくなる。
衣類が濡れる。
それでも身体の熱が抜けない。
これは単なる「暑さ」ではありません。
身体が、
「熱を逃がすのが難しくなっている」
というサインです。
人間の身体には、体温を一定に保つための素晴らしい仕組みがあります。
汗を出す。
皮膚への血流を増やす。
熱を外へ逃がす。
水分と電解質を調整する。
身体は、環境の変化に合わせながら絶えずバランスを取っています。
しかし、その能力にも限界があります。
だからこそ、
暑さに強くなることより、暑さを正しく読むこと。
我慢することより、身体が熱を逃がせる環境をつくること。
そして、
身体から発せられる小さなサインを見逃さないこと。
それが、夏を安全に過ごすための基本になります。
今回の御在所岳で体験した「湿度80%の中で、汗が止まらない」という出来事では、
「身体は、環境をどう感じ、どう適応しているのか」
を知るための、貴重な体験にもなりました。
山は、身体を鍛える場所であると同時に、
身体の声を学ぶ場所でもある。
そんなことを考えさせられた一日でした。
「普通に生きられることは、当たり前?」
空気は「あるもの」、
水は「使うもの」、
食べ物は「手に入れるもの」。
地球から受け取り、
自然から受け取り、
社会から受け取り、
誰かの働きから受け取り、
それが当然のこととして、
「普通のこと」と呼ぶようになっていたけど、
普通という言葉の中に、どれほどたくさんの恵みが隠れているのだろう。
「与えられる」という
Take(受け取る)が人生の中心になると、
世界は「自分に何を与えてくれるのか」という視点から
もっと欲しい、
もっと便利に、
もっと豊かに、
もっと認められたい、
受け取ることに慣れるほど
「足りないもの」に目が向き、
与えられているものが見えなくなっていく。
「今日も、たくさんのものを受け取って生きている。」
今日も普通に目を覚ます、
空気を吸えること、
水を飲めること、
太陽の光を浴びられること、
食卓に食べ物があること、
歩けること、
誰かと笑えること、
そして、
今日という一日が与えられていること。
日々、
地球から受け取り、
自然から受け取り、
先人から受け取り、
誰かから受け取り
それらは「当たり前」ではなく、
「与えられている」ことに気づいたとき、
自然に、
「返したい」と思うようになる。
それが、
Take が
感謝 になり、
Give
という、
循環になる。
感謝は、
「自分は、決して一人だけで生きているのではない」という気づき。
一杯の水の向こうに、
雨があり、川があり、森があり、大地がある。
一粒の米の向こうに、
太陽があり、水があり、土があり、
それを育てた人の手がある。
一日を普通に生きられることの向こうに、
数え切れないほどの生命と、
人々の営みと、
地球という大きな生命圏の恩恵がある。
毎日、
想像もできないほど多くのものを
「受け取って」生きている。
その事実に気づいたとき、
「何をもらえるだろう」から、
「自分は何を返せるだろう」へと、
人生の向きが変わり始め、
その違いが、
人生の景色そのものを変えていく。
Takeが中心の景色は、
世界が「自分のためにあるもの」として見え、
Giveの意識は、
世界は「ともに生きるもの」として見え始める。
受け取ったものに気づき、
感謝し、
次の誰かへ、
次の生命へ、
次の未来へ、
受け取った生命の恩恵を、
そっと手渡していけるように。
その循環の中に、
人間が本当に豊かになるための、
もう一つの進化があるのかもしれない。
【真実を観る眼力181 人類意識の進化 ~宇宙秩序に学ぶ認識革命~ 第16話 「意識は、どこから来たのか?」 【後編】
第十一章 宇宙は、自分自身を知ろうとしているのか?
ここで、
「死後も意識が残るのか?」
という問いから、もう一度、
「意識はどこから来たのか?」
という最初の問いへ戻ってみましょう。
生命が生まれました。
生命は、環境を感じるようになりました。
より複雑な生命は、学習し、記憶し、判断するようになりました。
そして人間は、
自分自身について考えるようになりました。
さらに人間は、
宇宙について考え始めました。
夜空を見上げ、
星を調べ、
銀河を観測し、
生命の起源を考え、
そして今、
意識そのものを研究しています。
ここには、とても興味深い見方があります。
「宇宙の中から生まれた生命が、意識を持つようになり、その意識によって宇宙を見つめている。」
私たちは宇宙の外側から宇宙を見ているわけではありません。
私たち自身が、
宇宙の一部です。
だから少し詩的に表現するなら、
「宇宙が、自分自身を見つめている」
と言うこともできます。
ただし、これは、
「宇宙そのものに人間のような意思がある」
という科学的主張ではありません。
あくまで、
人間と宇宙の関係を考えるための哲学的な表現
です。
星空を見つめるあやかさんとクマ、未確認飛行物体を見つけたサル
第十二章 「意識はどこから来たのか?」
~現時点で分かっていること~
ここまで来たところで、最初の問いに戻りましょう。
意識は、どこから来たのでしょうか?
現時点で私たちが比較的確実に言えることを整理してみます。
一つ目
脳と意識には、非常に強い関係があります。
脳の状態が変化すると、意識や知覚、記憶、感情も大きく変化します。
二つ目
しかし、
脳内の情報処理が、なぜ主観的経験になるのか
という問題は、まだ完全には解決されていません。
三つ目
人間以外の動物についても、
意識や感覚経験を示唆する証拠
が広がっています。
四つ目
植物には高度な情報処理や環境への反応があります。
しかし、
それを人間と同じ意味で、
「主観的経験」と呼べるのか
は、まだ分かりません。
五つ目
物質そのものに、人間のような意識があるという証拠はありません。
しかし、
「意識とはそもそも何なのか」
が完全には解明されていないため、
自然界の最も基本的なレベルに「経験性」のようなものを考える哲学も存在します。
それが、
汎心論
です。
六つ目
そして、死という問題があります。
現在の科学では、
人間の意識が肉体の死後も存続することは証明されていません。
しかし同時に、
意識そのものが何であり、なぜ存在するのかについても、科学はまだ完全な答えを持っていません。
この二つは、同時に成立します。
ここを混同してはいけません。
第十三章 「答え」よりも、「問い方」が変わった
最初、私たちは、
「意識は脳から生まれるのか?」
と考えていました。
しかし、ここまで考えてくると、
問いそのものが変わってきます。
脳とは何なのか。
生命とは何なのか。
経験とは何なのか。
「感じる」とは、どういうことなのか。
動物にも主観的経験があるのか。
植物にも何らかの内的状態があるのか。
物質そのものに「経験性」と呼べるものがあるのか。
そして、
意識と宇宙は、どのような関係にあるのか?
さらに、
死によって意識は本当に終わるのか?
こうして、
一つの問いが、
次の問いを生み出します。
これは、答えが出ていないという意味だけではありません。
むしろ、
問いそのものが深くなっている
のです。
第十四章 「意識を持つ生命」は、どのように生まれたのか?
ここで、もう一段階、問いを深くしてみましょう。
そもそも、
生命は、どのようにして「感じる存在」になったのでしょうか?
最初の生命は、
環境から物質を取り込み、
エネルギーを利用し、
自分を維持し、
増殖していったと考えられます。
やがて生命は、
光を感じ、
温度を感じ、
化学物質を感じ、
危険を避け、
栄養を求めるようになりました。
さらに神経系を持つ生命では、
情報を統合し、
記憶し、
学習し、
環境に応じて行動を変える能力が発達していきます。
そして人間では、
「自分が感じている」
ということそのものを、
自分自身が考えられるようになりました。
ここに、
一つの大きな進化があります。
それは、
「環境を感じる生命」から、
「自分が感じていることを認識する生命」への変化
です。
そして人間は、
さらにその先へ進み、
「意識とは何なのか?」
と問い始めました。
つまり、
宇宙の中で生命が進化し、
その生命から意識が現れ、
その意識が、
自分自身の起源を問い始めた
のです。
ここには、非常に興味深い循環があります。
第十五章 意識は、これから進化するのか?
もし生命が進化してきたように、
意識にも変化や発達があるとしたら、
次の問いが生まれます。
「意識そのものも進化していくのでしょうか?」
もちろん、
「意識が進化する」という言葉を、
生物学的進化と同じ意味で使うことはできません。
ここで言う意識の進化とは、
認識の広がり、自己理解の深化、他者への共感、そして世界との関係性の変化
という意味で考えてみます。
たとえば、
自分の利益だけを考える意識から、
家族を考える意識へ。
家族だけではなく、
社会を考える意識へ。
さらに、
人類全体を考える意識へ。
そして、
地球という生命圏全体を考える意識へ。
このように、
「私」の範囲が広がっていくことも、
意識の進化の一つの形として考えられるのではないでしょうか。
第十六章 意識は、まだ「謎」の中にある
「意識は脳から生まれるのか?」
この問いに対して、
現時点では、
「脳は意識にとって決定的に重要である」
とは言えます。
しかし、
「だから意識のすべてが説明された」
とは言えません。
なぜ、
神経活動が、
「私」という経験になるのでしょうか?
なぜ、
世界は単なる情報ではなく、
「感じられる世界」
として現れるのでしょうか?
生命のどの段階から、
その「感じる世界」が始まったのでしょうか?
そして、
死を迎えたとき、
その「私」は、
本当に完全に消えるのでしょうか?
まだ、
完全な答えはありません。
だからこそ、
第16話の結論を、
一つの断定にする必要はありません。
むしろ、
「分からない」という場所まで来たことそのものを、
人類の認識の進歩として捉えることができます。
【エピローグ】「分からない」と言えることも、真実を観る眼力である
意識がどこから来たのか。
そして、
どこへ行くのか。
私たちは、
まだ知りません。
しかし、
「分からない」という場所まで来たこと自体が、
人類の認識にとって大きな進歩
なのかもしれません。
なぜなら、
意識を当然のものとしていた人間が、
初めて、
「そもそも、意識とは何なのか?」
と問い始めたからです。
そして、その問いは人間だけに向けられたものではありません。
動物は、
何を感じているのでしょうか?
植物は、
何を経験しているのでしょうか?
生命とは、
そもそも何なのでしょうか?
物質と意識は、
本当に完全に別のものなのでしょうか?
死とは、
意識の完全な終わりなのでしょうか?
それとも、
私たちがまだ理解していない、
何らかの変化なのでしょうか?
そして、
私たちが宇宙を見つめているとき、
その「見る」という行為そのものは、
宇宙の中で、
どのように生まれたのでしょうか?
第16話の最後に残す問い
ここまで来ると、
次の問いは自然に浮かび上がります。
もし、
意識が生命とともに進化してきたのだとしたら――
では、意識そのものも進化していくのでしょうか?
そして、
人間はこれから、
どのような意識へ向かっていくのでしょうか。
競争する意識から、
共生する意識へ。
分離する意識から、
つながりを理解する意識へ。
「自分だけ」の意識から、
「私たち」の意識へ。
そして最後には、
人類は、
自分自身の意識を、
自ら理解し、
自ら育てることが、
できるのでしょうか?
ここから、
「人類意識の進化」というテーマは、
「意識の起源」から「意識の未来」へ
と向きを変えていきます。
次の扉 「人類の意識は、これからどこへ向かうのか?」
その問いが、
次の物語への扉になります。
そして、
第16話で私たちがたどり着いた場所は、
「意識には答えがない」という場所ではありません。
むしろ、
「意識という最大の謎を、
自分自身の問題として認識できるところまで、
人類の認識が進んできた」
という場所なのです。
それこそが、
「真実を観る眼力」
の次なる一歩なのかもしれません。
真実を観る眼力181 人類意識の進化 ~宇宙秩序に学ぶ認識革命~ 第16話 「意識は、どこから来たのか?」 【中編】
【中編】
第七章 では、物質には意識がないと言い切れるのか?
ここまで来ると、さらに大胆な問いが出てきます。
では、鉱石には?
岩には?
水には?
電子には?
私たちは普通、石を見て、
「この石にも意識がある」
とは考えません。
石が、
「私は石です」
と考えている証拠もありません。
人間のような思考や感情、記憶、自己認識が石に存在することを示す科学的証拠も、現在のところありません。
ここは、まず明確にしておく必要があります。
しかし、ここから一つの哲学的な問題が現れます。
「意識がないことを、私たちは完全に証明できるのか?」
これは、
「石に人間のような意識があるのか?」
という問いとは少し違います。
私たちは、石の内部に主観的経験が存在するかどうかを、直接調べることができません。
もちろん、
「だから石にも意識がある」
ということにはなりません。
ここで重要なのは、
「証拠がないこと」と、
「存在しないことが証明されたこと」は同じではない
ということです。
科学は、観察可能な現象について仮説を立て、検証していきます。
ところが「主観的経験」は、本人以外から直接見ることができません。
私たちが観察できるのは、脳活動や行動、発話、生理反応などです。
つまり、
他者の「内側で何が感じられているのか」を直接見ることはできない。
ここに、意識研究の難しさがあります。
そして、この問題は、
「人間以外にも意識はあるのか?」
という問いへ広がっていきます。
第八章 「すべてのものに、意識の芽がある」という考え
ここで登場するのが、
汎心論(panpsychism)
という哲学的な立場です。
難しそうに聞こえますが、考え方そのものはそれほど複雑ではありません。
簡単に言えば、
「意識や経験のような性質は、
人間になって突然ゼロから現れたのではなく、
自然界のもっと根本的なレベルに何らかの形で関係しているのではないか。」
という考え方です。
ただし、これは、
「石が人間のように考えている」
という話ではありません。
汎心論の中には、物質の基本的な構成要素に、ごく原始的な「経験性」のようなものを想定する考え方があります。
しかし、ここには大きな問題があります。
もし、
小さな要素一つひとつに、ごく原始的な経験があるとしたら、
それらが何百万、何十億と集まったとき、
なぜ、
「私」
という一つのまとまった意識になるのでしょうか?
これは、汎心論における重要な難問の一つで、
「コンビネーション問題」
と呼ばれています。
つまり汎心論は、
「意識は、無意識の物質から、なぜ突然現れたのか?」
という問題に、一つの可能性を提示します。
しかし同時に、
「では、どうやって一つの意識になるのか?」
という新しい問題を生み出します。
だから、汎心論もまた、
意識の謎を完全に解決した答えではありません。
無機質なものに意識が在るかは、今の段階ではまだ「分からない」領域なのですが、
今後、さらに、量子意識が科学的に証明されてくれば、解明できるかもしれません。
第九章 「意識は、死んだら終わるのか?」
そして、ここでどうしても避けて通れない問いがあります。
それが、
「死」
です。
もし意識が脳の活動によって生じているのなら、
脳の活動が停止したとき、
意識も終わるのでしょうか。
これは、人間にとって非常に大きな意味を持つ問いです。
もし、
「死によって意識は完全に終わる」
と考えるなら、
人生は、この一度きりの時間として非常に重い意味を持つでしょう。
一日一日を、限られた時間として大切に生きることになるかもしれません。
一方、
「意識は肉体の死後も、何らかの形で存続する」
と考えるなら、
死に対する意味づけは大きく変わります。
人生観も変わるでしょう。
つまり、
死を「完全な終わり」と見るのか。
それとも「形を変える出来事」と見るのか。
この違いは、私たちの生き方そのものに影響します。
では、科学はこの問いに何を答えているのでしょうか。
ここからは、特に慎重に考える必要があります。
臨死体験という不思議な現象
死に近い状態、あるいは心停止などから蘇生した人の中には、非常に鮮明な体験を報告する人がいます。
それが、
臨死体験(Near-Death Experience:NDE)です。
報告される体験には、
-
強い光を見る
-
暗いトンネルを進む感覚
-
身体を離れて、自分自身を上から見ている感覚
-
亡くなった家族や知人との再会
-
これまでの人生を振り返る体験
-
時間や空間の感覚がなくなる
-
深い安心感や愛に包まれる感覚
などがあります。
もちろん、すべての人が臨死体験をするわけではありません。
また、その内容もすべて同じではありません。
しかし、
死に近い状態に置かれた人の中に、非常に鮮明で強い現実感を伴う意識体験を報告する人がいる
ということ自体は、医学・心理学・神経科学の研究対象になっています。
したがって、これは単純に、
「死後の世界を信じるか、信じないか」
という問題ではありません。
科学的には、
「人間の脳と意識は、死に近づいたとき、いったい何を起こしているのか?」
という問題として研究することができます。
科学は、臨死体験をどう調べているのか?
臨死体験の研究では、蘇生後の聞き取りだけではなく、心肺蘇生中の脳活動や酸素状態などを測定する研究も行われています。
代表的な研究の一つが、
AWARE研究
です。
さらに、その後の研究として、
AWARE II研究
があります。
心停止・蘇生過程において、一部の患者で意識や記憶に関連する報告や、脳活動が観察されたことは、重要な研究材料になっています。
しかし、ここで非常に重要な注意があります。
それは、
「これは死後も意識が存在することの証明ではない」
ということです。
観察された脳活動は、心肺蘇生が行われている過程などで測定されたものです。
つまり、
不可逆的に死亡した後の意識を直接測定したわけではありません。
したがって、
「死後も意識は存在する」
と科学的に結論づけることはできません。
しかし同時に、
「心停止すれば脳はただちに完全な無活動状態になる」
という単純なイメージだけでも説明できない現象が研究されている。
ここに、意識研究の面白さがあります。
臨死体験は、脳が作り出しているのか?
神経科学からは、さまざまな説明モデルが提案されています。
たとえば、
-
脳血流の低下
-
低酸素
-
二酸化炭素濃度の変化
-
神経細胞の興奮性の変化
-
神経伝達物質の変化
-
脳内ネットワークの変化
-
心理的な解離
などです。
つまり、
死に近づいた脳が極限状態に置かれることで生じる現象
として説明するモデルがあります。
ただし、
「これですべて説明できた」
とも、まだ言い切れません。
ここで科学的に重要な姿勢があります。
科学は、
「分からないもの」を、
すぐに「存在しない」とはしません。
しかし同時に、
「まだ説明できないもの」を、
すぐに「死後世界の証拠」ともしません。
この二つを区別することが重要なのです。
幽体離脱したクマ
もう一つの不思議な現象 「前世を語る子どもたち」
臨死体験とは、
まったく別の方向から、
「意識は身体だけに閉じたものなのか?」
という問いを投げかける研究があります。
それが、
「前世を語る子どもたち」
の研究です。
アメリカのバージニア大学医学部には、
Division of Perceptual Studies
という研究部門があります。
ここでは、
幼い子どもたちが、
「自分には以前の人生があった」
と語る現象を、
長年にわたって調査してきました。
子どもたちは、
2~5歳頃に、
突然、
「以前は別の家に住んでいた」
「別の家族がいた」
「こういう仕事をしていた」
「このように亡くなった」
などと話し始めることがあります。
中には、
本人の現在の生活からは説明しにくい、
具体的な人物名、
場所、
職業、
家族関係、
死亡状況などを語るケースもあります。
バージニア大学の研究部門では、
50年以上にわたり、
3.000件を超える、
「前世の記憶」とされる事例を収集・研究してきたとしています。
関連リンク:真実を観る「眼力」49 人生の選択 = 情報の選択(Bitの選択)① 過去世を観る
何が研究者を引きつけるのか?
単純に、
「私は昔、王様だった」
という話だけなら、
科学的検証は難しいでしょう。
研究者が注目するのは、
子どもが語った情報と、
後から調査した実在の故人の人生が、
どこまで一致するのか、
という点です。
たとえば、
名前。
住所や地域。
家族構成。
職業。
死亡原因。
人生上の出来事。
さらに、
一部のケースでは、
故人の傷や死亡原因と一致するとされる、
出生斑や身体的特徴も報告されています。
しかし、
これらの研究結果をもって、
「輪廻転生が科学的に証明された」
とすることはできません。
ここは、
はっきりしておく必要があります。
ただ、
「このような事例が実際に報告され、
それを何十年にもわたって調査している研究者がいる」
ということも、
また事実です。
本当に「前世」なのか?
もちろん、
慎重さが必要です。
子どもが語る内容には、
偶然の一致。
家族から得た情報。
無意識に記憶した情報。
想像。
暗示。
文化的影響。
記憶の再構成。
など、
さまざまな説明が考えられます。
したがって、
「前世の記憶である」
と科学的に断定することはできませんが
しかし、
だからといって、
すべてを最初から、
「妄想」や「作り話」
として片づけてしまうのは、
科学的な態度とは言えません。
なぜなら、約3,000件の前世記憶事例の調査の中で、
亡くなった個人の情報について、現地調査をしたり、
実際に故人の家族や関係者から、事実関係の確認をし、
合致するケースが多々あるからです。
大切なのは、
事実として確認できる部分と、
解釈の部分を分けること
です。
これは、
臨死体験の研究にも、
そのまま当てはまります。
「死後も意識は続く」という証拠なのか?
ここまで見てくると、
一つの大きな問いが浮かび上がります。
臨死体験。
心停止中の意識に関する研究。
前世を語る子どもたち。
こうした現象は、
「意識は脳とは完全に独立して存在する」
ことを示しているのでしょうか?
現在の科学は、
まだ、
そこまで言うことはできません。
現段階では、
三つのことを分けて考える必要があります。
第一
臨死体験という現象は、実際に研究されている。
第二
心停止・蘇生の過程で、意識やそれに関連する脳活動が観察される例がある。
第三
それが「肉体の死後も意識が存続する」ことを意味するかどうかは、まだ分からない。
この三つを、
混同してはいけません。
第十章 「身体」と「意識」は、本当に同じものなのか?
~8つの層から考える「私」という存在~
ここで、もう一度、
「意識はどこから来たのか?」
という最初の問いに戻ってみましょう。
私たちは普段、
「私は身体です」
と考えています。
しかし、身体を観察することはできます。
手を見ることができます。
呼吸を感じることもできます。
心臓の鼓動を感じることもあります。
そして、
「私は今、疲れている」
「私は悲しい」
「私は怒っている」
と、自分の状態を認識することもできます。
ここで、一つの不思議なことに気づきます。
「疲れている自分」を認識している意識がある。
「悲しんでいる自分」を観察している意識がある。
「考えている自分」を、さらに観察できる。
すると、
「身体」と
「身体を認識している意識」は、
完全に同じものなのでしょうか。
この問いを考えるために、ここでは神智学やインド思想などに登場する考え方を参考にしながら、
身体・媒体と、そこで働く意識を8つの層に分けるモデルとして整理してみます。
ただし、
この8層の身体構造は、神智学・インド思想などに登場する概念を、
「身体と意識の関係を考えるための一つのモデル」
として整理したものです。
また、ここに出てくる、エーテル体やアストラル体、コーザル体などは、現代医学で確認された身体器官を意味するものではありません。
ここでは、
科学的に確認された事実と、哲学・精神思想上のモデルを区別しながら
読み進めてください。
8つの層を「乗り物」として考える
分かりやすくするために、人間を一台の車にたとえてみましょう。
車体があります。
エンジンがあります。
電気系統があります。
コンピューターがあります。
ナビゲーションがあります。
そして、それらを使って、
「どこへ行くのか」
を決める運転者がいます。
人間も同じように、
物質的な身体だけではなく、
生命活動、感情、思考、直観、自己認識など、
さまざまな働きが重なっていると考えることができます。
このモデルでは、次のように整理できます。
① 肉体
肉体的感覚・知覚
見る、聞く、触る、味わう、匂いを感じる。
肉体は、意識が物質世界を体験するための媒体です。
② プラーナ
生命活動・生命感覚
呼吸、代謝、生命活動など。
インド思想では、生命を支える力として「プラーナ」という概念が用いられてきました。
③ エーテル体
生命エネルギーを身体へ媒介する層
神智学などでは、生命エネルギーが身体に働くための微細な媒体として説明されます。
これは、現代科学で確認された別の肉体という意味ではありません。
④ アストラル体
感情・欲望・情動
喜び、悲しみ、怒り、恐れ、愛情など。
同じ出来事でも、感情によって世界の見え方が変わります。
⑤ メンタル体
思考・概念・判断
「なぜ私は腹が立ったのだろう?」
「どうすればいいのだろう?」
と考える働きです。
ここで重要なのは、
感情があることと、感情について考えることは違う
ということです。
⑥ コーザル体
深い個体性・原因・人生の意味
「私は何のために生きるのか?」
「この経験にはどんな意味があるのか?」
という、より深い自己探究の領域です。
⑦ ブッディ
直観・霊的認識
長時間考えたわけではないのに、
「そういうことだったのか」
と突然理解する。
そうした直観的な認識を表す概念です。
⑧ アートマン
純粋な自己・根源的意識
そして最も深いところに、
「そもそも、私とは何なのか?」
という問いがあります。
身体でもない。
感情でもない。
思考でもない。
それらを観察している、
「私」そのものとは何なのか?
この問いと深く関係する概念が、アートマンです。
「人を構成している身体の層」
重要なのは「8つの身体がある」ということではない
このモデルを、
「人間には8つの別々の身体が存在する」
と単純に理解する必要はありません。
むしろ、
人間という存在には、物質的な身体から、
生命、感情、思考、深い自己認識、直観、
そして根源的な自己を探究する意識まで、
異なるレベルの働きが重なっている。
という見方です。
つまり、
「身体」と「意識」は同じものではない。
そして、
意識は、さまざまな媒体を通して身体や人生に現れている。
と考えてみるのです。
「家」と「住んでいる人」にたとえると分かりやすい
肉体を「家」だとします。
生命活動(プラーナ・エーテル体)は、その家を動かす電気や水道。
感情(アストラル体)は、家の中で起こるさまざまな出来事。
思考(メンタル体)は、家の中にあるコンピューター。
直観(ブッディ体)は、全体を見渡すナビゲーション。
そして、
「私はどこへ向かうのか?」
と問い続ける存在がいる。(アートマン)
そう考えると、
「身体」と「意識」は同じものではない
ということが、少しずつ見えてきます。
もちろん、これは科学的に確認された「人間の構造図」ではありません。
あくまで、
「自分とは何なのか」を考えるための哲学的・精神思想的な地図
です。
しかし、この地図を使うことで、
「身体だけが私なのか?」
という問いを、より深く考えることができます。
8つの層に重なる身体と意識の構造
そして、「意識の進化」というテーマにつながる
ここが、この第16話における重要な転換点です。
人間の成長とは、
肉体を捨てて、上の世界へ行くことではありません。
むしろ、
自分の中で働いているさまざまな層を認識し、統合していくこと
と考えることができます。
感情に振り回されるのではなく、感情を観察する。
思考に支配されるのではなく、思考を観察する。
身体を大切にしながら、身体だけを「自分」と決めつけない。
そして、
「私は誰なのか?」
という問いを持つ。
この、
「観察する意識」の深化
こそが、
「人類意識の進化」
というテーマにつながっていきます。
真実を観る眼力181 人類意識の進化 ~宇宙秩序に学ぶ認識革命~ 第16話「意識は、どこから来たのか?」 【前編】「私」という意識はどこから生まれたのか?
【プロローグ】 「意識がある」という、あまりにも不思議な事実
前話では、
私たちは、
「私は、いったい誰なのか?」
という問いに向き合いました。
身体は変わります。
記憶も変わります。
感情も変わります。
考え方も変わります。
それでも、
私たちは、
「私は私だ」
と感じています。
では、
ここで、
もう一歩だけ深く問いかけてみましょう。
そもそも、
その「私」を感じているものは、
何なのでしょうか。
目を閉じても、
私たちは、
自分がここにいることを感じています。
身体の感覚があります。
思考があります。
記憶があります。
感情があります。
そして、
「私は今、これを経験している」
という、
主観的な世界があります。
この、
「経験している」
という事実こそ、
意識の核心にある問題です。
そして、
ここから、
科学でも哲学でも、
いまだ完全な答えが出ていない、
非常に深い問いが始まります。
「意識は、いったいどこから来たのか?」
第一章 脳が働いていることと、「感じていること」は同じなのか?
まず、
もっとも自然な答えから考えてみましょう。
「意識は脳から生まれる」
という考え方です。
実際、
脳と意識の間には、
極めて深い関係があります。
眠っているときと、
目覚めているときでは、
脳活動が大きく違います。
麻酔を受けると、
意識状態が変化します。
脳の特定の領域が損傷すると、
記憶や感情、
知覚や自己認識が変化することがあります。
つまり、
脳が変われば、意識のあり方も変わる。
これは、
現代科学が積み重ねてきた、
非常に重要な知見です。
だから、
「意識は脳の働きから生まれる」
という考え方には、
強い根拠があります。
しかし、
ここで、
不思議な問題が残ります。
脳では、
神経細胞が活動しています。
電気的な信号が伝わっています。
化学物質が働いています。
情報が処理されています。
では、
なぜ、
その情報処理が、
「私が何かを感じている」
という経験になるのでしょうか。
第二章 「ハード・プロブレム」
~なぜ、情報処理が「体験」になるのか?~
ここで登場するのが、
意識研究で非常に重要な問題、
「ハード・プロブレム」
です。
哲学者デイヴィッド・チャーマーズが、
1990年代に明確に提起した問題です。
少し難しく聞こえますが、
日常的な例で考えると、
意外に分かりやすくなります。
たとえば、
あなたが、
真っ赤なバラを見ているとします。
目に光が入る。
↓
網膜が反応する。
↓
神経信号が脳へ送られる。
↓
脳が情報を処理する。
ここまでは、
科学によって、
かなり詳しく研究できます。
ところが、
最後に、
不思議なことが起きます。
私たちは、
単に、
「赤という波長の情報が処理された」
とは感じません。
「赤いバラが見えている」
と感じます。
さらに、
そのバラを見て、
「きれいだな」
「昔、母にもらったバラを思い出す」
「なんだか心が落ち着く」
と感じるかもしれません。
つまり、
物理的な情報処理の背後に、
「私には、こう感じられている」
という、
一人称の体験があります。
これが、
意識の難しさです。
「赤い」という情報と、「赤く感じる」は同じなのか?
コンピューターも、
赤い色を識別できます。
カメラも、
赤を検出できます。
AIも、
「これは赤いバラです」
と答えられます。
しかし、
そこには、
私たちが感じる、
「赤の感じ」
が本当に存在しているのでしょうか?
ここが、
大きな問題になります。
脳のどの神経細胞が働くのか。
どの領域が活動するのか。
どのような情報処理が行われるのか。
それらを説明できたとしても、
なお、
「なぜ、その処理には主観的な体験が伴うのか?」
という問いが残ります。
これが、
「ハード・プロブレム」の核心です。
つまり、
私たちは、
二つの問題を区別する必要があります。
脳がどのように情報を処理するのか。
そして、
なぜ、その処理が「体験」になるのか。
前者は、
科学によって、
少しずつ解明されています。
しかし、
後者については、
現在も議論が続いています。
第三章 では、意識は人間だけのものなのか?
ここから、
さらに面白い問いへ進みます。
もし、
意識が脳の高度な働きから生まれるのなら、
脳を持つ他の生き物には、
意識があるのでしょうか?
犬は、
痛いと感じているのでしょうか?
猫は、
嬉しいのでしょうか?
鳥は、
空を飛ぶことを、
「経験」しているのでしょうか?
魚は、
恐怖を感じるのでしょうか?
タコは、
世界をどのように感じているのでしょうか?
そして、
昆虫は?
ここで、
意識を考える上で、
非常に重要な言葉があります。
「主観的経験」
です。
簡単に言えば、
「その生き物にとって、何かを経験している感じがあるか?」
ということです。
人間なら、
「痛い」
「気持ちいい」
「怖い」
「嬉しい」
という感覚があります。
問題は、
動物にも、
それに似た、
「内側の経験」があるのか、
ということです。
しかし、
他者の意識は、
直接見ることができません。
だから科学では、
行動、
神経系、
学習能力、
記憶、
意思決定、
痛みへの反応など、
複数の証拠を組み合わせて、
意識の存在を推測します。
意識そのものを、
外から直接見ることはできないからです。
Everyone is happy.
第四章 タコは「痛い」と感じているのか?
ここで、
非常に興味深い研究があります。
タコを使った研究です。
タコに、
不快な刺激を与えた後、
二つの場所のうち、
どちらかを選ばせます。
すると、
タコは、
不快な経験と結びついた場所を避け、
痛みを和らげる処置を受けた場所を選ぶ傾向を示しました。
さらに、
刺激を受けた場所を、
タコ自身が繰り返し手入れする行動も観察されています。
研究者たちは、
これらを、
単なる反射反応だけではなく、
持続的な痛みの経験を示す可能性
として評価しています。
しかし、
ここにも、
重要な区別があります。
「意識がある可能性」と、
「人間のような自己意識があること」は、
同じではありません。
タコには、
感覚経験がある可能性が高い。
しかし、
「私は私である」
という人間のような自己認識まで持っているかは、
まだ分かりません。
この違いが、
意識を考える上で非常に重要なのです。
Octopuses feel pain, and monkeys get excited.
第五章 昆虫にも「感じている世界」があるのだろうか?
さらに驚くのは、
昆虫です。
小さな脳しか持たない昆虫に、
意識があるのでしょうか。
以前なら、
「そんなはずはない」
と考える人が多かったかもしれません。
しかし、
現在は、
少しずつ見方が変わっています。
哺乳類や鳥類については、
意識経験を支持する科学的根拠が強く、
魚類、爬虫類、両生類、
さらにタコなどの頭足類、
甲殻類、
そして昆虫についても、
意識経験の可能性が真剣に検討されています。
もちろん、
「昆虫に人間と同じ意識がある」
と証明されたわけではありません。
しかし、
「昆虫には何の主観的経験もない」
と簡単に言い切ることも、
難しくなってきています。
すると、
意識についての問いは、
人間だけの問題ではなくなります。
生命全体の問題
へと広がっていくのです。
第六章 では、植物はどうなのか?
ここから、
さらに境界線が曖昧になります。
植物には、
脳がありません。
神経系も、
動物のようには存在しません。
それでも植物は、
驚くほど複雑に環境へ反応します。
光の方向を感じる。
水を探す。
重力を感知する。
傷害に反応する。
化学物質を介して、
周囲の植物などと情報をやり取りする。
環境によって、
成長の仕方を変える。
こうした能力から、
「植物にも知性があるのでは?」
という研究が進んでいます。
しかし、
ここで、
一線を引かなければなりません。
環境に反応することと、
「何かを感じていること」は同じではありません。
植物が複雑な情報処理をしていることは研究されています。
しかし、
「植物に主観的経験がある」
ということは、
まだ確立されていません。
The flowers feel Ayaka's love.
【前編の折り返し】
ここまで来ると、
最初の問いが、
少し変わってきます。
最初は、
「人間の意識はどこから来たのか?」
と考えていました。
しかし、
今では、
その前に、
もっと根本的な問いが浮かびます。
「そもそも、意識とは何なのか?」
人間だけなのか。
動物にもあるのか。
昆虫にもあるのか。
植物はどうなのか。
そして、
意識を持つとは、
「情報を処理すること」なのか。
それとも、
「何かを感じること」なのか。
この問いをさらに深く追っていくと、
ついに、
生命の境界を越えた問い
へと入っていきます。







