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真実を観る眼力 201 人間は、なぜ自分を苦しめる選択をしてしまうのか? ― 認識と感情、身体、欲求、そして「自由」のあいだ ―
はじめに
「もっと自分を大切にしたい」
そう思っているのに、無理をしてしまう。
「もう気にしないようにしよう」
と思っているのに、同じことを何度も考えてしまう。
「この選択は自分を苦しめる」
頭では分かっているのに、また同じ選択をしてしまう。
「休んだほうがいい」と分かっているのに、頑張り続ける。
「断ってもいい」と分かっているのに、相手の期待に応えようとする。
「もう必要ない」と思っているのに、手放せない。
「変わりたい」と思っているのに、なかなか変われない。
こうした経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。
もし私たちが、完全に合理的に判断して行動する存在なら、
「自分を苦しめると分かっている選択」
を繰り返すことは少ないはずです。
それでも、私たちは同じことを繰り返します。
なぜなのでしょうか。
それは、私たちの選択が「頭で考えた結果」だけによって決まっているわけではないからです。
そこには、
認識、感情、身体、欲求、記憶、習慣、そして人との関係
が複雑に関わっています。
そして、そのすべてを含めて考えたとき、
「自由に選んでいる」
ということの意味も、少し違って見えてきます。
今回は、
「知っているのに、なぜできないのか」
という身近な疑問から、人間の選択と自由について考えてみたいと思います。
第一章 「分かっているのに、できない」
例えば、健康のためには睡眠が大切だと知っている。
それでも夜更かししてしまう。
運動したほうがいいと分かっている。
それでも、疲れていると何もしない。
嫌なことをされたら距離を取ったほうがいい。
そう分かっている。
それでも、相手の顔色を気にしてしまう。
お金を使いすぎないほうがいい。
分かっている。
それでも、そのとき欲しいものを買ってしまう。
「こうしたほうがいい」
という知識があっても、
「実際にそうする」
とは限りません。
ここには、「知識」と「行動」の間にある大きな隔たりがあります。
私たちは、正しい情報を知れば自然に正しい行動ができるわけではありません。
なぜなら、行動を決めているのは、理性的な判断だけではないからです。
その瞬間の感情。
身体の疲労。
不安。
欲求。
過去の経験。
習慣。
周囲からの期待。
「こうしなければならない」という思い込み。
そうしたものが、同時に私たちの判断に影響しています。
つまり、
「知っている自分」と「行動する自分」は、必ずしも同じではない。
このことを理解するだけでも、
「どうして自分は、こんなこともできないのだろう」
と、自分を責める必要が少し減るかもしれません。
第二章 私たちは「頭」だけで選択しているわけではない
人間の意思決定について考えるとき、つい「頭で考えて決める」というイメージを持ちます。
情報を集める。
比較する。
メリットとデメリットを考える。
そして、最も合理的なものを選ぶ。
しかし、現実の私たちは、そんなに単純ではありません。
例えば、同じ出来事を経験しても、
「安心する人」と「怖いと感じる人」がいます。
同じ言葉を聞いても、
「励まされた」と感じる人もいれば、
「責められた」と感じる人もいます。
同じ状況でも、
「挑戦してみよう」と思う人もいれば、
「失敗するかもしれない」と避ける人もいます。
つまり、
私たちは外から入ってきた情報を、そのまま受け取っているわけではありません。
これまでの経験や記憶、期待、感情などを通して、その出来事に意味を与えています。
以前の記事で考えた、
「感じる → 気づく → 観察する → 考える → 自分が何を見ているのかを観察する → 選択する」
という流れも、ここにつながります。
選択の前には、「認識」
があります。
そして、
その認識には、自分自身のフィルターがかかっています。
だから、
選択を変えたいなら、
選択そのものだけを見るのではなく、
その前にある「見方」を見る
必要がある。
のです。
選択の前にある認識を観る
第三章 感情は、私たちを苦しめる敵なのか
では、感情があるから、私たちは間違った選択をするのでしょうか。
そう考えるのも少し違います。
感情は、私たちにとって重要な情報です。
怖い。
悲しい。
嬉しい。
悔しい。
寂しい。
腹が立つ。
安心する。
そうした感情には、その人が今何を大切にしているのか、何を危険と感じているのかを知る手がかりがあります。
問題は、
「感じたこと」と「それについてどう判断するか」を同じにしてしまうこと
です。
例えば、
「私は不安を感じている」
ということと、
「だから、この選択は危険だ」
ということは同じではありません。
「私は腹が立っている」
ということと、
「だから、相手を攻撃していい」
ということも同じではありません。
「寂しい」
ということと、
「だから、誰かに無理に合わせなければならない」
ということも違います。
感情は、現実についての一つの重要な情報です。
しかし、
感情そのものが、現実のすべてを語っているわけではありません。
ここで必要になるのが、
「感じる」と「判断する」の間にある「間」です。
第四章 身体もまた、選択に関わっている
感情だけではありません。
身体の状態も、私たちの選択に大きな影響を与えます。
睡眠不足のとき。
空腹のとき。
疲れているとき。
緊張しているとき。
体調がすぐれないとき。
同じ出来事でも、普段とは違う受け止め方をすることがあります。
疲れていると、いつもなら気にならない一言が気になる。
眠れていないと、些細なことが大きな問題に感じられる。
身体が緊張していると、危険を強く感じる。
反対に、身体が落ち着いていると、同じ状況を少し違った角度から見ることができる。
これは、
心と身体が別々に存在しているわけではない
ことを示す一つの例でもあります。
だから、自分を大切にするということは、
「前向きに考えよう」
と頭の中だけで頑張ることではありません。
眠る。
食べる。
休む。
歩く。
呼吸する。
自然に触れる。
身体の状態に気づく。
そうしたことも、認識や選択を整えるための土台になります。
「正しい選択をするために、もっと頭を使わなければならない」
と思っていたとしても、
実は、
身体を休ませることが、選択を変える第一歩になる
こともあるのです。
第五章 欲求は、なぜ私たちを動かすのか
私たちは、さまざまなものを欲しがります。
食べたい。
休みたい。
認められたい。
愛されたい。
安心したい。
成功したい。
自由になりたい。
誰かより優位に立ちたい。
これらの欲求には、良いものも悪いものもありません。
生命を維持するために必要な欲求もあります。
人とのつながりを求める欲求もあります。
成長したいという欲求もあります。
問題になるのは、
欲求があることではなく、
欲求に気づかないまま、
そのまま行動してしまうこと
です。
例えば、
「認められたい」
という欲求があるとします。
そのこと自体は、ごく自然なものです。
しかし、その欲求に気づかないまま、
「相手に嫌われないようにする」
ことばかりを選んでいると、いつの間にか自分を犠牲にしてしまうかもしれません。
「安心したい」という欲求から、変化を避け続けることもある。
「失敗したくない」という気持ちから、挑戦しないこともある。
「愛されたい」という気持ちから、嫌なことまで我慢してしまうこともある。
ここで重要なのは、
欲求をなくすことではありません。
欲求に気づく
ことです。
「私は今、何を求めているのだろう?」
そう問いかけるだけで、欲求と行動の間に少し距離ができます。
その距離が、「選択」のための空間になります。
第六章 「自分を守ること」が、自分を苦しめることもある
人間には、自分を守ろうとする力があります。
危険を避ける。
傷つかないようにする。
失敗を避ける。
嫌われないようにする。
安心できる場所に戻る。
これらは、生きていくために大切な働きです。
しかし、ときには、
自分を守るための選択が、長い目で見ると自分を苦しめる
ことがあります。
例えば、
失敗したくない
→ 挑戦しない
→ 経験が増えない
→ 自信が持てない
→ さらに失敗が怖くなる
という循環。
嫌われたくない
→ 相手に合わせる
→ 自分の気持ちを抑える
→ 疲れる
→ それでも断れない
という循環。
傷つきたくない
→ 人との距離を取る
→ 深い関係をつくれない
→ 孤独を感じる
→ さらに人を避ける
という循環。
最初の選択には、ちゃんと理由があります。
自分を守りたかったのです。
だから、
「なぜそんな選択をしたのか」
を責めるだけでは、何も変わりません。
むしろ、
「その選択は、私を何から守ろうとしていたのだろう?」
と問いかけることが大切なのかもしれません。
第七章 習慣になると、「選択している」ことさえ忘れてしまう
同じ選択を何度も繰り返していると、それは習慣になります。
最初は意識して選んでいたことが、やがて自動的に起こるようになる。
そうすると、
「自分で選んでいる」
という感覚さえ薄れていきます。
例えば、
嫌なことがある
↓
スマートフォンを見る
↓
気を紛らわせる
↓
少し楽になる
という行動を繰り返していると、
嫌なことが起きた瞬間に、無意識にスマートフォンへ手が伸びるようになるかもしれません。
あるいは、
不安になる
↓
何度も考える
↓
答えを探す
↓
一時的に安心する
↓
また不安になる
という循環もあります。
こうしたパターンが長く続くと、
「自分はこういう人間だから」
と思ってしまいます。
しかし、
「自分」というものの一部には、繰り返された習慣も含まれています。
だから、習慣を変えることは、自分を否定することではありません。
自分の中にある自動的な反応を、一度見えるところまで持ってくることです。
第八章 では、「自由に選ぶ」とはどういうことなのか
ここで、少し難しい問いが出てきます。
私たちは、本当に自由に選んでいるのでしょうか。
私たちの選択には、
遺伝的な特徴。
身体状態。
過去の経験。
記憶。
感情。
欲求。
習慣。
人間関係。
社会環境。
情報環境。
経済的な条件。
文化。
さまざまなものが関わっています。
そう考えると、
「すべてを完全に自由に選んでいる」
とは言いにくくなります。
しかし、だからといって、
「人間には自由などない」
と結論づける必要もありません。
ここで、「自由」を少し違った角度から考えてみます。
自由とは、
何の影響も受けずに選ぶこと
ではないのかもしれません。
むしろ、
自分に影響を与えているものに気づき、そのうえで選択できる余地を広げること
なのではないでしょうか。
怒りを感じた。
でも、すぐに攻撃する必要はない。
不安を感じた。
でも、不安だけで結論を決めなくてもいい。
誰かに認められたい。
でも、そのために自分を犠牲にする必要はない。
疲れている。
だから、今日は休むという選択もできる。
「こうしたい」という欲求がある。
でも、その欲求が本当に自分にとって大切なのか、一度考えてみる。
この小さな「間」が、自由を生み出します。
第九章 「反応する人生」から「選択する人生」へ
190で、
「反応する人生」から「選択する人生」へ
というテーマを扱いました。
201では、その問いをもう一度深く見てみることができます。
反応とは、
刺激
↓
感情
↓
行動
という流れです。
何かを言われた。
腹が立った。
言い返した。
あるいは、
不安になった。
逃げた。
寂しくなった。
誰かにすがった。
欲しくなった。
買った。
もちろん、こうした反応そのものが悪いわけではありません。
生命には、素早く反応することが必要な場面もあります。
危険を感じたら逃げる。
熱いものに触れたら手を引く。
そうした反応は、生命を守ります。
問題なのは、
本当は選択できる場面でも、いつも自動的に反応してしまうこと
です。
そこで、
刺激
↓
感情
↓
間
↓
観察
↓
選択
↓
行動
という流れをつくる。
この「間」は、とても小さなものです。
数秒かもしれません。
深呼吸一つ分かもしれません。
「今、私は何を感じているのだろう?」
と自分に問いかけるだけかもしれません。
しかし、その小さな間に、
「私は今、反応している」
と気づくことができれば、そこから選択が始まります。
第十章 自分を苦しめる選択を、どう見つけるのか
では、実際の生活の中で、自分を苦しめている選択をどう見つければよいのでしょうか。
一つの方法は、
「その選択をした後、自分はどうなっているか」
を見ることです。
その瞬間は楽になる。
しかし、後から苦しくなる。
その場では安心する。
しかし、長期的には不安が強くなる。
相手には喜ばれる。
しかし、自分は疲れていく。
失敗を避けられる。
しかし、挑戦することが怖くなる。
こうした場合、
「その選択が悪い」
と決めるのではなく、
短期的な利益と、長期的な結果を分けて観察する
ことができます。
さらに、
「自分にとってはどうなのか」
だけではなく、
「他者との関係ではどうなのか」
「社会との関係ではどうなのか」
「自然との関係ではどうなのか」
と視野を広げてみる。
そうすると、一つの選択が持っている意味が変わって見えてくることがあります。
第十一章 「正しい選択」を探すより、「自分の選択」を観察する
ここまで考えると、
「では、正しい選択をすればいいのですね」
と思うかもしれません。
しかし、ここにも注意が必要です。
「正しい選択」を探し始めると、
また別の思い込みが生まれることがあります。
「こうするのが正解だ」
「こう生きるべきだ」
「こう考えるのが正しい」
そう決めてしまうと、今度は「正しさ」に自分を合わせることになります。
真実を観る眼力は、
正解を知っていることではありません。
自分の見方を観察できることです。
自分は何を見ているのか。
何を見落としているのか。
何を恐れているのか。
何を欲しがっているのか。
何を守ろうとしているのか。
どんな結果を望んでいるのか。
そして、
その判断によって、自分と周囲に何が起こるのか。
そこまで見て、初めて選択する。
だから、
「正しい答えを見つける」
というより、
「自分の選択がどこから生まれているのかを見る」
ことが重要なのです。
第十二章 自由とは、「自分を知ること」から始まる
私たちは、自由になりたいと思います。
誰かに支配されたくない。
自分の人生を自分で決めたい。
それは、とても自然な願いです。
しかし、外からの支配だけが自由を奪うわけではありません。
自分の中にある、
「こうしなければならない」
「嫌われてはいけない」
「失敗してはいけない」
「もっと頑張らなければならない」
「こうでなければ価値がない」
という思い込みに、自分自身が支配されていることもあります。
そのとき、
「自分で選んでいる」
と思っていても、
実際には過去の経験や恐れ、欲求、習慣に引っ張られているかもしれません。
だから、自由になるためには、
まず自分を知ることが必要です。
感情を知る。
身体を知る。
欲求を知る。
習慣を知る。
恐れを知る。
価値観を知る。
そして、
「自分はなぜ、そう選んでいるのか」
を見る。
それだけでも、少しずつ選択の幅が広がります。
第十三章 「自分を苦しめる選択」にも、意味がある
ここで、もう一つ大切な視点があります。
自分を苦しめる選択をしてしまったからといって、
「自分は弱い」
「自分はダメだ」
と決めつけないことです。
その選択にも、何らかの理由があったはずです。
自分を守りたかった。
安心したかった。
愛されたかった。
失敗したくなかった。
認められたかった。
孤独になりたくなかった。
何かを失いたくなかった。
その選択は、当時の自分にとっては、
「生きるために必要な選択」
だったのかもしれません。
しかし、時間が経つと、その選択が現在の自分には合わなくなることがあります。
そこで必要なのは、
過去の自分を責めることではありません。
過去の自分に、
「よく頑張ってきた」
と気づいてあげること。
そして、
「今の自分には、別の選択肢もあるかもしれない」
と考えてみることです。
変化とは、過去の自分を否定することではありません。
過去の自分が身につけた生き方を、今の自分に合わせて更新していくこと
なのです。
おわりに 「自由」は、選択の中にある
人間は、なぜ自分を苦しめる選択をしてしまうのでしょうか。
その答えは、一つではありません。
感情があるから。
身体の状態が影響するから。
欲求があるから。
過去の経験があるから。
習慣になっているから。
人との関係があるから。
社会や情報環境の影響も受けているから。
そして何より、
私たちは、自分自身の認識を通して世界を見ているからです。
だから、
「もっと意志を強くしよう」
だけでは変わらないことがあります。
必要なのは、
自分を責めることではなく、
自分を観察すること。
今、何を感じているのか。
身体はどうなっているのか。
何を欲しがっているのか。
何を恐れているのか。
何を守ろうとしているのか。
そして、
「私はなぜ、この選択をしようとしているのだろう?」
と問いかける。
その瞬間、
感情と行動の間に「間」が生まれます。
そして、
その「間」に、
選択する自由
が生まれます。
自由とは、
何の影響も受けずに生きることではないのかもしれません。
私たちは、身体を持ち、過去を持ち、他者と関わり、社会の中で生きています。
完全に何ものにも影響されない人間になることは、おそらくできません。
だからこそ、
「自分に影響を与えているものに気づき、そのうえで選ぶ」
ことが、現実的な意味での自由なのではないでしょうか。
そして、その自由は、
大きな決断のときだけに現れるものではありません。
今日、少し早く休む。
無理な頼みを断る。
自分の本当の気持ちに気づく。
怒っていることを認める。
不安なままでも、一歩だけ進む。
誰かの言葉をすぐに信じず、少し調べてみる。
自然の中で、自分の身体を感じる。
そんな小さな選択の一つひとつに、自由はあります。
「真実を観る眼力」とは
ここで、改めてこのシリーズのタイトルに戻ってみます。
「真実を観る眼力」とは、何でしょうか。
それは、
「自分だけが真実を知っている」
という能力ではありません。
むしろ、その反対です。
自分の見方さえも、間違っているかもしれないと観察できる力。
自分の感情を観る。
自分の欲求を観る。
自分の恐れを観る。
自分の思い込みを観る。
自分の選択を観る。
そして、
「私は今、何を見ているのだろう?」
と、もう一段深く自分自身を観る。
そこから、本当の意味での選択が始まります。
これまで私たちは、
「反応する人生」から「選択する人生」へ。
「自分を大切にする」ことから「他者を大切にする」ことへ。
そして、「自分と他者」から「自然との共生」へと、少しずつ視野を広げてきました。
しかし、ここで一つのことが見えてきます。
よりよく生きるためには、世界を変える前に、自分が世界をどう見ているのかを知る必要がある。
そして、自分の見方が変わると、同じ世界でも違って見えることがあります。
同じ出来事でも、違う選択肢が見えてくる。
同じ人間関係でも、違う関わり方が見えてくる。
同じ人生でも、違う生き方が見えてくる。
だから、
認識が変わると、選択が変わる。
選択が変わると、行動が変わる。
行動が変わると、習慣が変わる。
習慣が変わると、人生の方向も少しずつ変わっていく。
そして、
一人ひとりの選択が変われば、
人との関係も、
社会のあり方も、
自然との関係も、
少しずつ変わっていく可能性があります。
真実を観る眼力 200 人間は、何のために生きているのか? ― 自分・他者・社会・自然、そのすべての中で生きるということ ―
はじめに
「人間は、何のために生きているのだろう?」
この問いは、誰もが一度くらい考えたことがあるのではないでしょうか。
幸せになるため。
夢を実現するため。
家族のため。
誰かの役に立つため。
自分らしく生きるため。
あるいは、ただ毎日を精一杯生きるため。
人によって、答えは違います。
そして、その答えは人生の途中で変わっていくこともあります。
若い頃には「成功すること」が大切だったのに、年齢を重ねると「健康」や「家族との時間」が大切になる。
あるいは、仕事をしているときには見えなかったものが、人生の転機を経験したことで見えてくる。
そう考えると、
「人間は何のために生きるのか」
という問いには、最初から決められた一つの答えがあるわけではないのかもしれません。
むしろ大切なのは、
自分は何を大切にして生きたいのか。
そして、
その生き方は、自分以外の存在とどのような関係をつくっているのか。
ということではないでしょうか。
これまでの記事では、
「自分を感じること」
「感じたことを観察すること」
「観察している自分を観察すること」
「選択すること」
「習慣を見直すこと」
「自分と他者の調和」
について考えてきました。
今回はそこから、さらに一歩視野を広げてみたいと思います。
人間は、自分一人だけで生きているわけではありません。
他者と関わり、社会の中で生き、自然に支えられ、地球という生命環境の中で生きています。
では、そのすべてを含めたとき、
「生きる」とは、いったい何なのでしょうか。
第一章 「生きる目的」は、本当に一つなのだろうか
「人生の目的を見つけよう」
という言葉を、私たちはよく耳にします。
夢を持つこと。
目標を持つこと。
人生の使命を見つけること。
もちろん、それらが人生を支えることはあります。
しかし、
「人生には一つの大きな目的があり、それを見つけなければならない」
と考えてしまうと、少し苦しくなることもあります。
なぜなら、人間の人生は変化するからです。
子どもの頃と大人になってからでは、興味も価値観も違います。
仕事を始めた頃と、長年働いた後でも違います。
病気や失敗、出会いや別れによって、大切にするものが変わることもあります。
昨日まで大切だったものが、今日はそれほど重要ではなくなることもある。
反対に、これまで気にも留めなかったことが、突然かけがえのないものになることもあります。
つまり、「生きる目的」は、人生の変化とともに変わっても不思議ではありません。
だからこそ、
「自分の人生には、これだけが正しい目的なのだ」
と固定する必要はないのかもしれません。
大切なのは、今の自分が何を大切にしているのかを知ること。
そして、その価値観が本当に自分自身から生まれているのか、ときどき立ち止まって観察することです。
第二章 幸せになることだけが、生きる目的なのか
「幸せになりたい」
これは、多くの人に共通する願いでしょう。
しかし、ここにも少し考えてみたいことがあります。
幸せとは何でしょうか。
お金があること。
仕事がうまくいくこと。
好きな人と一緒にいること。
健康であること。
自由であること。
安心して暮らせること。
どれも幸せの一部になり得ます。
けれど、それらをすべて手に入れれば、人生が完全に満たされるのでしょうか。
以前の記事でも考えたように、私たちは「欲しいもの」を手に入れることで幸福を感じることがあります。
しかし、手に入れた瞬間から、それが当たり前になってしまうこともあります。
そして、また次のものを求める。
もっと豊かに。
もっと便利に。
もっと評価されたい。
もっと認められたい。
もっと安心したい。
そうしているうちに、
「幸せになるために生きているはずなのに、幸せを感じる時間が少なくなっている」
ということも起こります。
もしかすると、
幸せは人生の「目的」というよりも、
自分の生き方が今どのような状態にあるのかを知らせてくれる感覚
なのかもしれません。
もちろん、苦しみや悲しみも人生にはあります。
だから、
「いつも幸せでいなければならない」
ということでもありません。
悲しいときには悲しむ。
疲れたときには休む。
迷ったときには立ち止まる。
そうしたこともまた、生きるということです。
第三章 人間は、一人では生きられない
私たちは「自分」という単位で人生を考えがちです。
自分の人生。
自分の幸せ。
自分の選択。
自分の自由。
確かに、自分の人生を生きる責任は、自分自身にあります。
しかし、その「自分」は、一人だけでつくられてきたのでしょうか。
言葉も。
価値観も。
知識も。
文化も。
考え方も。
多くのものを、私たちは他者との関係の中で学んできました。
家族。
友人。
先生。
仕事仲間。
地域社会。
そして、名前も知らない多くの人たち。
私たちが当たり前のように使っている道路、電気、水道、食料、医療、通信。
それらも、多くの人々の仕事や知識によって成り立っています。
つまり、
「自分」という存在そのものが、すでに多くの他者との関係の中にある。
ということです。
だから、自分を大切にすることと、他者を大切にすることは、本来、完全に別のものではありません。
199で考えたように、
自分を大切にすることは、自分勝手になることではない。
そして、
他者を大切にすることは、自分を犠牲にすることでもない。
自分と他者。
そのどちらも大切にしながら生きる道があります。
そこに「共生」という考え方があります。
第四章 社会の中で、私たちは何を生み出しているのか
人間は、一人で生きるだけではありません。
社会をつくります。
家族をつくり、地域をつくり、会社をつくり、学校をつくり、国家をつくります。
そして、その社会の中で、一人ひとりが行動しています。
ここで、一つの大切なことに気づきます。
社会は、誰か特別な人だけがつくっているものではありません。
私たち一人ひとりの選択や行動も、社会の一部をつくっています。
誰かに優しく接する。
誰かを傷つける。
自然を大切にする。
必要以上に物を消費する。
正しいと思っている情報を、確認せずに誰かへ伝える。
あるいは、誰かの苦しみに気づいても見ないふりをする。
一つひとつは小さな行動です。
しかし、その小さな行動が積み重なって、人間関係や社会の雰囲気をつくっていきます。
だから、
「自分一人が何をしても社会は変わらない」
という考え方も、完全ではありません。
もちろん、一人の力だけで社会全体を変えることはできません。
けれど、
自分がどのように生きるかは、自分の周囲の世界に何らかの影響を与えている。
これは確かなことです。
だからこそ、
「私は何を得るのか」
だけではなく、
「私は、この世界に何を残しているのか」
という視点も持つことができます。
第五章 自然の中に、自分の生き方を見つめる
10月号①では、
「森や山を歩くと、なぜ心が落ち着くのか」
というところから、自然とのつながりについて考えました。
森を歩いていると、そこには人間とはまったく異なる時間が流れていることに気づきます。
木は、人間のように急いで成長しません。
季節が巡り、葉を広げ、葉を落とし、また春を迎えます。
川は、誰かに急かされることなく流れています。
植物は、太陽の光を受けながら成長し、やがて枯れ、土へと還っていきます。
そこには、
「もっと早く」
「もっと多く」
「もっと大きく」
という人間社会の価値観とは違う時間があります。
もちろん、自然界を人間の生き方の「お手本」と単純に考えることはできません。
自然には競争もあり、捕食もあり、生命の誕生と死もあります。
それでも、自然を見ることで、
人間だけを基準にして世界を考えていないだろうかと、
自分自身を見つめ直す
ことはできます。
人間は地球の主人公ではありません。
地球という生命環境の中で生きる、一つの生命です。
空気も、水も、食べ物も、土も、他の生物も。
私たちの生命は、それらとの関係から切り離すことができません。
そう考えると、
「人間は何のために生きるのか」
という問いは、
「人間だけが何を得るのか」
という問いから、少し違う方向へ向かっていきます。
自然の中に、自分の生き方を見つめる
第六章 「共生」という生き方
共生とは、何でも相手に合わせることではありません。
自分を消すことでもありません。
すべての人と仲良くすることでもありません。
自然の中にも、さまざまな生命があります。
それぞれに異なる性質があり、それぞれの生き方があります。
人間社会も同じです。
価値観が違う。
能力が違う。
文化が違う。
考え方が違う。
人生の目的も違う。
それらの違いをなくして一つにするのではなく、
違いを持ったまま、どのように一緒に生きることができるか。
そこに共生の難しさがあります。
だから共生には、「境界線」も必要です。
相手を尊重することと、自分を犠牲にすることは違います。
助け合うことと、依存することも違います。
意見を聞くことと、相手の意見に従うことも違います。
共生とは、
自分も大切にする。
相手も大切にする。
そして、
その間にある関係も大切にする。
ということなのかもしれません。
これは簡単なことではありません。
だからこそ、人間には「認識する力」が必要になります。
第七章 生きることは、「選び続けること」なのかもしれない
ここまで考えてくると、
「人間は何のために生きるのか」
という問いに、一つの答えを出すことは難しいと分かります。
しかし、別の問いなら立てることができます。
「私は、どのように生きたいのか?」
こちらの問いなら、今の自分から考えることができます。
今日、誰にどのように接するのか。
何を大切にするのか。
何を手放すのか。
どんな情報を信じるのか。
何に時間を使うのか。
何を食べるのか。
自然とどう関わるのか。
疲れたときに休むのか、それとも無理をするのか。
自分を守るのか、誰かを助けるのか。
そして、その両方をどう調和させるのか。
人生は、大きな一回の選択によって決まるものではありません。
毎日の小さな選択が積み重なっています。
だからこそ、
生きるとは、選び続けること
とも言えるのではないでしょうか。
そして、その選択をよりよいものにするためには、
自分が何を感じているのかを知る。
その感覚を観察する。
自分の解釈を観察する。
自分の思い込みを観察する。
他者への影響を考える。
長い時間の中で何が起こるのかを見る。
自然や社会との関係を考える。
そして、もう一度選ぶ。
これが、これまで考えてきた「真実を観る眼力」の実践でもあります。
第八章 「正しい人生」を探さなくてもいい
ここまで来ると、もう一つ大切なことが見えてきます。
それは、
「正しい人生」を探しすぎないこと
です。
人生には、誰にでも当てはまる一つの正解があるわけではありません。
ある人にとって大切なものが、別の人にとって大切とは限らない。
一人で静かに暮らすことが幸せな人もいれば、多くの人と関わることに喜びを感じる人もいます。
仕事に人生の大きな意味を感じる人もいれば、仕事以外の時間を大切にする人もいます。
自然の中で暮らしたい人もいれば、都市の刺激の中で生きたい人もいます。
だから、
「こう生きなければならない」
と決める必要はありません。
ただし、
「自分の選択だから何をしてもいい」
ということでもありません。
自分の自由には、必ず他者との関係があります。
そして、人間が地球環境の中で生きる以上、自然との関係もあります。
だからこそ必要なのが、
「自由と責任のバランス」
なのだと思います。
自分の人生を選ぶ。
しかし、その選択が誰にどんな影響を与えるのかも見る。
自分の幸せを大切にする。
しかし、自分だけの幸せを追い続けない。
自然の恵みを受け取る。
しかし、自然を無限に消費できるものとは考えない。
そんな視点が、これからの人間の生き方には必要なのではないでしょうか。
第九章 人間の「進化」は、何を意味するのだろう
ここで、シリーズの最初のテーマに戻ってみたいと思います。
これまで、
「人類意識の進化」
について考えてきました。
文明は大きく発展しました。
科学技術も進歩しました。
医学も発達しました。
情報を瞬時に世界中へ届けることもできます。
宇宙へ探査機を送り、遠い惑星について調べることもできます。
では、
人間そのものは、どれだけ進化したのでしょうか?
これは、単純な問題ではありません。
科学技術が進歩したことと、人間の認識が進化したことは同じではありません。
便利になったことと、幸せになったことも同じではありません。
情報が増えたことと、真実を見抜く力が高まったことも同じではありません。
だからこそ、これまで考えてきた「認識」が重要になります。
自分の感情を知る。
自分の思い込みを知る。
自分の欲求を知る。
他者の立場を見る。
社会の仕組みを見る。
自然との関係を見る。
そして、
自分自身の「見方」を観察する。
それができるようになったとき、人間の進化を単なる技術や知識の増加だけではなく、
「認識の質の変化」
として捉えることができるのではないでしょうか。
第十章 「自分」から「つながり」へ
これまでの流れを振り返ってみます。
まず、
自分を感じる。
身体や心の変化に気づく。
↓
感じたことを観察する。
感覚と事実を区別する。
↓
観察している自分を観察する。
自分の思い込みや認識の癖に気づく。
↓
選択する。
反応するのではなく、自分で選ぶ。
↓
行動する。
選択を日常の行動に変える。
↓
習慣になる。
繰り返された行動が、自分の人生を形づくる。
↓
他者との関係をつくる。
自分だけではなく、他者も大切にする。
↓
自然との関係を見る。
人間もまた、生命の世界の一部であることに気づく。
ここまで来ると、「自分」という存在の見え方が変わってきます。
最初は、
「自分の人生をどうするか」
だった問いが、
「自分は、他者や社会や自然と、どのような関係をつくりながら生きるのか」
という問いへ広がっていくのです。
これは、「自分をなくす」ということではありません。
むしろ反対です。
自分をしっかり感じ、自分の意思で選択できるからこそ、他者との関係を自分で選ぶことができる。
自分を大切にできるからこそ、他者を大切にする余裕も生まれる。
そして、
自分が自然から切り離された存在ではないことに気づくことで、自然との関係も変わっていく。
自分を知ることから、つながりを知ることへ。
ここに、認識の広がりがあります。
終わりに 人間は、何のために生きているのか?
最初の問いに戻ります。
人間は、何のために生きているのでしょうか。
もしかすると、その答えを一つに決める必要はないのかもしれません。
幸せになること。
愛すること。
学ぶこと。
創造すること。
誰かを支えること。
自分らしく生きること。
自然の中で生きること。
社会をよりよくすること。
人によって、その答えは違います。
そして、人生の中でも変わっていくでしょう。
それでも、これまでの記事を通して見えてきたことがあります。
人間は、一人だけで存在しているのではありません。
自分の中には身体があり、心があり、意識があります。
その自分は、他者と関係し、社会の中で生きています。
そして、その社会は自然環境に支えられています。
つまり、
「自分」という存在の中には、すでに多くのつながりが含まれている。
だから、
人間が生きるということは、
ただ自分の欲しいものを手に入れることでも、
ただ幸せになることでも、
ただ社会の役に立つことでもないのかもしれません。
自分を感じる。
自分を理解する。
自分の認識を観察する。
自分で選択する。
他者との関係を大切にする。
社会との関係を考える。
自然とのつながりを感じる。
そして、
その中で自分なりの生き方を選び続ける。
その一つひとつの積み重ねが、「生きる」ということなのではないでしょうか。
人間は、何のために生きるのか。
その問いに、最終的な答えを出すことよりも、
「自分は今、何を大切にして生きているのか」
と問い続けること。
そして、
「その生き方は、自分だけでなく、他者や社会や自然に、どのような影響を与えているのか」
を観続けること。
そこに、「真実を観る眼力」が生きてきます。
自分を見る。
他者を見る。
社会を見る。
自然を見る。
そして、それらを別々のものとしてではなく、
一つのつながりの中で観ていく。
もしかすると、人類の意識の進化とは、
「自分だけを見ること」から、
「自分と世界とのつながりを見ること」へ、
認識の範囲が広がっていく
ことなのかもしれません。
そして、その先にあるのは、
支配ではなく共生。
分断ではなく調和。
恐れからの反応ではなく、観察したうえでの選択。
そして、
自分も、他者も、自然も、ともに生きられる世界を選んでいくこと。
それは、誰かから与えられる「人生の答え」ではありません。
一人ひとりが、自分の人生を生きながら、少しずつ見つけていくものなのだと思います。
次回へ
ここまで「認識すること」「選択すること」「習慣」「自分と他者」「自然との共生」について考えてきました。
しかし、ここで一つの新しい問いが生まれます。
私たちが「よりよく生きたい」と思っていても、なぜ、ときに自分を苦しめる選択をしてしまうのでしょうか。
知っていることと、できることの間には、まだ何かがあるのではないでしょうか。
次回からは、再び日常の中へ視点を戻し、
「人間は、なぜ自分を苦しめる選択をしてしまうのか」
というところから、認識と感情、身体、欲求、そして「自由」について、さらに考えていきたいと思います。
asa information 10月号① 共生と自然 森や山を歩くと、なぜ心が落ち着くのか ― 自然の中で、自分を取り戻すということ ―
はじめに
森の中を歩いていると、いつの間にか心が静かになっていることがあります。
木々の間から差し込む光。
風に揺れる葉の音。
土や落ち葉の香り。
足元に伝わる地面の感触。
特別なことをしているわけではありません。
ただ歩き、自然の景色を眺め、鳥の声に耳を傾けているだけなのに、日常生活で感じていた緊張や慌ただしさが、少しずつ遠のいていくように感じます。
山を歩いた後に、頭がすっきりしたり、気持ちが軽くなったりすることもあるでしょう。
では、なぜ私たちは森や山にいると、心が落ち着くのでしょうか。
それは、単に美しい景色を見ているからだけではないのかもしれません。
自然の中には、私たちの身体や感覚、そして生命のあり方に関わる何かがあるように思います。
今回は、森や山を歩くという身近な体験から、人間と自然のつながり、そして「共生」ということについて考えてみたいと思います。
雨飾山(標高1963m) 晩秋から初冬へ
第一章 自然の中にいると、なぜ心が落ち着くのか
私たちは普段、さまざまな情報に囲まれて生活しています。
仕事や家事、人間関係、スマートフォンから流れてくる情報。
次々と判断し、考え、対応することが求められます。
そのような生活が続くと、意識は外からの情報に向き続け、知らないうちに心身が緊張していることがあります。
一方、森の中では、情報の質が変わります。
木々の緑、木漏れ日、風の音、鳥のさえずり、土の香り。
そこには、私たちがすぐに判断したり、何かに反応したりする必要のない刺激がたくさんあります。
自然の景色を眺めていると、意識を無理に集中させなくても、自然と目が向いていくことがあります。
心理学では、こうした自然環境が注意や心の回復に与える影響について研究されています。
例えば、自然の中では、日常生活で必要とされる強い集中とは異なる、穏やかな注意の働きが生まれると考えられています。
また、森林環境で過ごすことが、ストレスや気分、自律神経系などに良い影響を与える可能性も報告されています。
もちろん、自然の中にいれば誰もが必ず心身の不調から回復するというわけではありません。
それでも、森や山で過ごす時間が、日常の緊張から少し距離を置き、自分の状態に気づくきっかけになることはあるでしょう。
自然は、私たちに何かを要求するわけではありません。
ただ、そこにあります。
その静かな環境に身を置くことが、心を落ち着かせる一つの理由なのかもしれません。
立山 雷鳥♂
第二章 自然の中では、身体の感覚が目覚めてくる
森や山を歩くとき、私たちは目だけで景色を見ているわけではありません。
足裏には地面の硬さや傾斜が伝わり、耳には風や水の音が届きます。
肌には気温や風の変化を感じ、鼻には木々や土、草花の香りが届きます。
つまり、自然の中を歩くことは、五感を通して周囲の環境と関わることでもあります。
普段の生活では、視覚や聴覚から入る情報に意識が偏りがちです。
しかし、山道を歩いていると、足元の感触や呼吸、身体の傾き、筋肉の動きなどにも自然と意識が向かいます。
一歩ずつ足を運びながら、身体が地面の状態を確かめ、次の動きを調整しているのです。
こうした身体からの情報を受け取る働きは、身体感覚や固有感覚、内受容感覚などと関係しています。
身体感覚は、私たちが自分の身体の状態を知るための大切な情報です。
例えば、歩いているうちに呼吸が深くなったことに気づく。
少し疲れてきたことを感じる。
風が心地よく、肩の力が抜けていくのを感じる。
そのような小さな変化に気づくことも、自分自身を感じるということではないでしょうか。
以前の記事で触れたように、私たちは頭で考えるだけで自分を理解しているわけではありません。
身体を通して感じることも、自分を知るための大切な入り口なのです。
シラビソ小屋 リス
第三章 森や山には、生命のつながりがある
森を歩いていると、そこにあるのは木々だけではないことに気づきます。
大きな樹木の根元には小さな草花が育ち、土の中には無数の微生物が暮らしています。
昆虫や鳥、動物たちも、それぞれの環境の中で生きています。
落ち葉はやがて分解され、土に還り、植物の成長を支える栄養の一部になります。
水は雨となって大地に降り注ぎ、土に浸透し、川となり、やがて海へと流れていきます。
そこには、さまざまな生命と自然環境が関わり合う、生態系の営みがあります。
森は、個々の生き物が独立して存在しているだけの場所ではありません。
植物、動物、菌類、微生物、土壌、水、空気などが相互に関係しながら成り立っています。
例えば、植物は光合成によって有機物をつくり、多くの生き物の生命を支えています。
菌類や微生物は、有機物の分解や物質の循環に関わっています。
昆虫は植物の受粉を助け、鳥や動物は種子を運ぶことがあります。
それぞれの生命が異なる役割を持ちながら、複雑なつながりの中で生きているのです。
もちろん、自然界は常に穏やかで調和しているわけではありません。
競争や捕食、病気、環境の変化もあります。
しかし、そのような営みも含めて、生態系は多様な関係の中で成り立っています。
森を歩くことは、こうした生命のつながりの中に、自分も存在していることを感じる機会なのかもしれません。
能郷白山 1,617m キツネ
第四章 人間もまた、自然の一部である
私たちは、文明の発展によって自然から離れた生活を送るようになりました。
空調の整った室内で過ごし、食料は店で購入し、水は蛇口から出てきます。
電気や通信、交通などの便利な仕組みが、私たちの生活を支えています。
その結果、自然の変化を直接感じる機会は、以前より少なくなっているかもしれません。
しかし、どれほど文明が発展しても、人間が自然から独立して生きられるわけではありません。
私たちは空気を吸い、水を飲み、食物を食べ、太陽の光や地球の環境に支えられて生きています。
身体そのものも、自然界の物質や生命の営みと切り離すことはできません。
人間は自然を利用する存在であると同時に、自然に支えられている存在でもあるのです。
このことを忘れてしまうと、自然を単なる資源や、人間の生活を便利にするための道具として見てしまうことがあります。
しかし、森や山に身を置くと、自然は人間のためだけに存在しているわけではないことに気づきます。
木々には木々の生命があり、鳥には鳥の生活があり、森には森の生態系があります。
人間も、その大きなつながりの一部です。
自然を大切にするということは、遠くにある環境を守るというだけではありません。
自分たちの生命を支えている環境との関係を大切にすることでもあるのです。
甲武信ヶ岳 2,475m 鹿♂
第五章 共生とは、同じになることではない
「共生」という言葉を聞くと、仲良くすることや、争わずに調和することを思い浮かべるかもしれません。
しかし、自然界の共生は、すべての生命が同じ姿や性質になることではありません。
森の中には、大きな木もあれば、小さな草花もあります。
日なたを好む植物もあれば、日陰で育つ植物もあります。
それぞれが異なる性質を持ちながら、同じ環境の中で関わり合っています。
生態系の豊かさは、むしろ多様な生命が存在することによって支えられています。
これは、人間社会について考えるときにも、大切な視点ではないでしょうか。
人それぞれに考え方や価値観、得意なこと、苦手なことがあります。
すべての人が同じ考え方を持つ必要はありません。
違いがあるからこそ、互いに学び、補い合えることもあります。
ただし、自然界の仕組みを、そのまま人間社会の理想や正しさに置き換えることはできません。
自然には競争や衝突もありますし、人間社会には人間社会として考えるべき倫理や責任があります。
それでも、自然の多様な生命が関係し合っている姿は、私たちに一つの問いを投げかけてくれます。
自分だけが豊かになることではなく、周囲との関係の中で、共に生きる道はないだろうか。
共生とは、違いをなくすことではなく、違いを認めながら、互いの存在を尊重して生きることなのかもしれません。
しらびそ小屋 コガラ
第六章 自然とつながる時間を、日常に取り戻す
自然とのつながりを感じるために、必ずしも遠くの山へ出かける必要はありません。
近くの公園を歩くことでも、街路樹を眺めることでも、季節の草花に目を向けることでもよいのです。
朝、窓を開けて風を感じる。
空の色や雲の動きを眺める。
庭やベランダの植物に水をあげる。
散歩の途中で、足元の土や落ち葉に目を向ける。
そうした小さな時間にも、自然とのつながりはあります。
大切なのは、何かを達成しようとすることではなく、自然の中に身を置き、感じることです。
歩く速さを少し落としてみる。
スマートフォンを見る時間を減らしてみる。
風の音や鳥の声に耳を傾けてみる。
そして、自分の呼吸や身体の感覚にも意識を向けてみる。
そのとき、私たちは日常の忙しさから少し離れ、自分自身と周囲の環境を感じ直すことができるかもしれません。
自然とつながることは、特別な知識を身につけることではありません。
自分が自然の中で生きているという、ごく当たり前のことを、身体を通して思い出すことなのだと思います。
肩の小屋 キタダケソウ(大変稀少な北岳の固有種)
おわりに 自然の中で、共に生きるということ
森や山を歩くと、心が落ち着く。
その理由には、自然環境が注意やストレスに与える影響、五感を通した身体感覚、そして生命のつながりを感じることなど、さまざまな側面があるのでしょう。
私たちは、日々の生活の中で、知らないうちに自分のことだけに意識を向けてしまうことがあります。
仕事のこと、将来のこと、人間関係のこと。
考えることが多くなるほど、目の前にある自然や、周囲の人々とのつながりを感じにくくなることもあります。
そんなとき、森や山を歩いてみる。
木々の緑を眺め、風を感じ、鳥の声を聞きながら、一歩ずつ歩いてみる。
すると、自分という存在が、自然から切り離されたものではないことに気づくかもしれません。
私たちは、自然の中で生きています。
そして、自然もまた、私たち人間だけのために存在しているわけではありません。
人間と自然は、互いに関係し合う大きな生命の環境の中にあります。
自然を支配するのではなく、自然の仕組みを理解し、その恵みに感謝しながら、共に生きていく。
それが、これからの人間社会に求められる「共生」の一つの姿ではないでしょうか。
森を歩く時間は、単に気分をリフレッシュするためだけのものではありません。
自分と自然とのつながりを感じ、人間としての生き方を静かに見つめ直す時間でもあるのです。
自然の中に身を置くとき、私たちは自然を眺めているだけではなく、その自然の一部として生きている自分自身を感じているのかもしれません。
ハワイ オアフ島「モアナルア・ガーデンパーク」モンキーポッド(MONKEY POD) さっちゃんとあやかさん
今回の記事の位置づけ
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199:自分と他者のあいだにある調和
-
asa information 10月号①:人間と自然のあいだにあるつながり
199で考えた「自分と他者の共生」を、今回は「人間と自然の共生」へと広げました。
そして200では、さらに視野を広げ、個人・他者・社会・自然を含む生命の世界の中で、人間はどのように生きるのか、という問いに続きます。
経ヶ岳 2,296m オサバグサ(特定山域にしか自生しない希少種)
真実を観る眼力199 「自分を大切にすることと、他者を大切にすることは両立できるのか?」 ― 自分と他者のあいだにある調和 ―
はじめに
私たちは、日々の生活の中で、さまざまな人と関わりながら生きています。
家族、友人、職場の人、地域の人。
そして、直接会ったことのない人とも、情報や社会活動を通じてつながっています。
人との関係は、私たちの人生に喜びや安心をもたらしてくれます。
一方で、人間関係に悩んだり、相手に気を遣いすぎて疲れてしまったり、自分の気持ちを抑えてしまうこともあります。
例えば、
相手を傷つけたくないから、自分の意見を言わない。
嫌われたくないから、本当は嫌なことでも引き受けてしまう。
相手の期待に応えようとして、自分の時間を犠牲にしてしまう。
自分を大切にしようと思うと、今度は自分勝手なのではないかと感じてしまう。
このような経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。
ここで、ひとつの問いが生まれます。
自分を大切にすることと、他者を大切にすることは、両立できるのでしょうか。
自分を優先すれば、他者を犠牲にすることになるのでしょうか。
他者を大切にすれば、自分のことは後回しにしなければならないのでしょうか。
前回198では、日々の習慣が脳や身体、認識、そして人生の選択に影響を与えていることを考えました。
今回は、その視点を自分の内側から他者との関係へと広げてみたいと思います。
人間は、一人だけで生きているわけではありません。
自分を大切にすることも、他者を大切にすることも、人との関係の中で初めて、その意味が見えてくるのではないでしょうか。
第一章 自分を大切にするとは、どういうことなのか?
まず、「自分を大切にする」ということから考えてみましょう。
自分を大切にするという言葉を聞くと、自分の希望を優先することや、自分が心地よく過ごせることを思い浮かべるかもしれません。
もちろん、それも大切な要素です。
しかし、自分を大切にするということは、単に自分の欲求を満たすことだけではありません。
自分の身体や心の状態に気づくこと。
自分の感情を無視しないこと。
自分の考えや価値観を尊重すること。
無理をしているときには、休むことを選ぶこと。
自分の失敗や弱さも含めて、自分自身を受け止めること。
こうしたことも、自分を大切にすることにつながります。
例えば、本当は疲れているのに、周囲の期待に応えようとして無理を続けてしまう人がいるとします。
その人は、他者を大切にしているように見えるかもしれません。
しかし、自分の身体の声を無視し続けていれば、やがて心身の負担が大きくなり、人との関係にも影響が出てしまうことがあります。
また、自分の意見をいつも抑えていると、相手に合わせているつもりでも、心の中には不満や疲労が蓄積していくかもしれません。
ここで大切なのは、
自分の状態を正しく認識することです。
自分は今、何を感じているのか。
本当は何を望んでいるのか。
何を負担に感じているのか。
どこまでなら無理なく引き受けられるのか。
こうしたことに気づかなければ、自分を大切にするための選択もできません。
自分を大切にするとは、自分の欲求を何でも優先することではなく、
自分という一人の人間を尊重し、その状態や限界を理解することなのです。
第二章 自分を大切にすることと、自己中心的になることの違い
ここで、もうひとつ考えておきたいことがあります。
それは、自分を大切にすることと、自己中心的になることの違いです。
自分の意見を持つこと。
自分の時間を大切にすること。
自分の希望を伝えること。
無理な要求を断ること。
こうした行動は、自分を尊重するために必要な場合があります。
しかし、自分の希望だけを優先し、他者の事情や気持ちを考えなくなれば、それは自己中心的な行動につながります。
例えば、職場で自分の仕事を早く終わらせるために、他の人に負担を押しつける。
家族に自分の考えを理解してもらおうとして、相手の意見を聞かない。
自分が快適に過ごすために、周囲の人の時間や自由を当然のように奪ってしまう。
これらは、自分を大切にすることとは異なります。
自分を尊重することには、
他者もまた、
自分と同じように感情や考え、
事情を持った存在であると認める
ことが含まれます。
つまり、自分を大切にすることと、他者を大切にすることは、どちらか一方を選ぶものではありません。
両者の間には、
相手の尊重と自分の尊重という、共通する土台があります。
自分を大切にすることは、他者を軽視する理由にはなりません。
そして、他者を大切にすることも、自分を犠牲にする理由にはならないのです。
第三章 共感することと、相手に合わせることは違う
人との関係を築くうえで、大切な働きのひとつに「共感」があります。
共感とは、相手の立場や感情、経験を理解しようとすることです。
例えば、友人が悩みを話してくれたとき、自分ならどうするかをすぐに伝えるのではなく、まず相手が何を感じているのかを聞いてみる。
相手の言葉だけでなく、その背景にある事情にも目を向けてみる。
こうした姿勢が、相手を理解するための出発点になります。
しかし、ここで注意したいことがあります。
共感することと、相手に同調することは同じではありません。
相手の気持ちを理解することは、相手の意見や判断をすべて正しいと認めることではありません。
例えば、相手が怒っているとき、その怒りの背景にある悲しみや不安を理解することはできます。
しかし、だからといって、その人の攻撃的な言動まで受け入れる必要はありません。
また、相手の考えに共感できないときでも、その人の存在や尊厳を尊重することはできます。
ここには、重要な違いがあります。
共感とは、相手の立場を理解しようとする働きです。
同調とは、相手の意見や行動に合わせることです。
相手を理解するために、必ずしも自分の考えを変える必要はありません。
むしろ、
自分と相手の違いを認めたうえで、互いの立場を理解しようとする
ことが、成熟した関係につながるのではないでしょうか。
心理学や神経科学では、共感について、
相手の感情を共有する側面と、
相手の立場や状態を理解する側面など、
複数の働きが研究されています。
共感は単一の能力ではなく、感情や認知などが関わる複雑な働きなのです。
他者を理解するとは、相手と同じ考えになることではありません。
自分とは異なる存在として、相手の立場を想像すること
なのです。
第四章 人間関係には「境界線」が必要である
自分を大切にしながら他者も大切にするためには、もうひとつ重要な視点があります。
それは、人と人との間にある「境界線」です。
境界線とは、自分と他者との間にある、心や身体、時間、責任、価値観などの区別を意味します。
例えば、
自分の時間をどのように使うか。
どのようなことを引き受けるか。
どこまで相手の問題に関わるか。
自分の考えをどこまで伝えるか。
どのような言動を受け入れられるか。
こうしたことには、人それぞれの違いがあります。
しかし、人間関係では、この境界線が曖昧になることがあります。
相手が困っていると、自分が何とかしなければならないと思ってしまう。
相手の機嫌が悪いと、自分が悪いことをしたのではないかと考えてしまう。
相手の期待に応えられないと、自分には価値がないように感じてしまう。
このような状態が続くと、相手の感情や問題まで、自分の責任として抱え込んでしまうことがあります。
もちろん、他者を助けることは大切です。
しかし、相手の問題をすべて自分が引き受けることと、相手を支えることは違います。
例えば、友人が悩んでいるとき、話を聞き、必要なときに手を差し伸べることはできます。
しかし、その人の人生の選択まで、代わりに決めることはできません。
相手には相手の人生があり、自分には自分の人生があります。
互いの責任や選択を尊重することが、健全な関係を保つために必要なのです。
また、境界線を守ることは、相手を拒絶することでもありません。
「今日は難しいけれど、別の日なら時間を取れる」
「その考えは理解できるけれど、私は違う意見を持っている」
「力になりたいけれど、ここから先は自分だけでは対応できない」
このように、
自分の限界や考えを伝えることも、相手との関係を大切にする行動です。
境界線は、人と人を切り離す壁ではなく、
互いを尊重しながら関係を築くための適切な距離
なのです。
第五章 依存と共生は、どこが違うのか?
ここまで考えてくると、人間関係には、もうひとつの重要な問いが浮かび上がります。
それは、私たちは他者とどのようにつながって生きているのか、ということです。
人間は、他者との関係なしには生きていけない存在です。
子どもは、周囲の人に世話をしてもらわなければ成長できません。
大人になってからも、家族、友人、仕事仲間、地域社会など、多くの人との関わりによって生活が成り立っています。
私たちは、互いに支え合いながら生きています。
しかし、人とのつながり方には、さまざまな形があります。
そのひとつが「依存」です。
依存という言葉には否定的な印象があるかもしれませんが、人間が他者に頼ること自体は自然なことです。
病気や困難に直面したときに助けを求めること。
不安なときに誰かに支えてもらうこと。
自分一人ではできないことを他者と協力して行うこと。
こうした相互の支え合いは、私たちの生活に欠かせません。
問題になるのは、相手に自分の判断や感情の安定を過度に委ねたり、
相手の自由を認められなくなったりする場合です。
例えば、
相手が自分の思いどおりに行動しないと不安になる。
自分の価値を、相手の評価だけで判断する。
相手がいなければ何も決められない。
相手を失わないために、自分の考えをすべて抑えてしまう。
このような関係では、互いの自由や主体性が損なわれることがあります。
一方、「共生」とは、
異なる存在が互いの違いを認めながら、
関係を築き、
共に生きていくことです。
共生は、何でも相手に合わせることではありません。
自分と相手の違いを認める。
それぞれの役割や責任を尊重する。
必要なときには助け合う。
一方的に負担を押しつけない。
互いの成長や自由を妨げない。
こうした関係が、共生の土台になります。
ここで考えたいのは、自立と依存は必ずしも反対のものではないということです。
人間は誰もが、程度の差はあっても他者に支えられて生きています。
大切なのは、誰にも頼らないことではなく、
必要なときには支え合いながら、
自分自身の判断や選択も大切にする
ことです。
自立とは、他者を必要としないことではありません。
互いに支え合いながらも、自分の人生を自分で引き受けることなのです。
第六章 人間は、なぜ他者と共に生きる必要があるのか?
ここで、少し視野を広げてみましょう。
人間は、なぜ他者とのつながりを必要とするのでしょうか。
その理由は、単に寂しさを感じるからだけではありません。
人間は、進化の過程で、集団生活や協力を通じて生存や子育て、情報の共有などを行ってきました。
食料を確保する。
危険を察知する。
子どもを育てる。
知識や技術を次の世代に伝える。
こうした活動には、他者との協力が関係しています。
また、人間の脳や心の発達にも、他者との関係が深く関わっています。
子どもは、周囲の人とのやり取りを通して言葉を学び、感情を調整し、社会の中での振る舞いを身につけていきます。
大人になってからも、人との交流や協力は、学習や判断、心理的な安定に関係しています。
もちろん、人間の社会には競争や対立も存在します。
すべての人間関係が調和しているわけではありません。
しかし、人類の歴史を振り返ると、協力によって大きな社会や文化が築かれてきたことも事実です。
ここで、自然界にも目を向けてみましょう。
生態系の中では、異なる生物が互いに影響を与えながら存在しています。
植物、動物、微生物は、それぞれ異なる役割を持ちながら、物質の循環や食物網などを通じてつながっています。
自然界には競争もあれば、共生や相互依存もあります。
ただし、自然界に共生関係が存在するからといって、人間社会も必ずそのようにあるべきだと科学だけから結論づけることはできません。
自然の仕組みは、私たちが生命のつながりを考えるための大切な手がかりにはなりますが、人間社会の倫理や価値観は、別途考える必要があります。
それでも、生命が互いに影響し合いながら存在しているという事実は、私たちにひとつの問いを投げかけます。
自分だけが豊かになれば、それで本当に幸せなのだろうか。
周囲の人や社会、自然との関係を損なってまで得た豊かさは、長く続くものなのだろうか。
人間の幸福を考えるとき、自分一人の満足だけでなく、
他者や環境との関係も含めて考える必要があるのではないでしょうか。
第七章 自分と他者のあいだにある調和とは?
ここまで、自分を大切にすること、共感、境界線、依存と共生について考えてきました。
では、自分と他者のあいだにある調和とは、どのような状態なのでしょうか。
それは、すべての人が同じ考えを持ち、同じ行動をすることではありません。
人には、それぞれ異なる価値観があります。
育ってきた環境も、経験も、感じ方も違います。
意見が異なることもあれば、互いに理解できないこともあります。
それでも、
相手の存在を尊重し、
自分の考えも大切にしながら、
関係を築いていくことはできます。
例えば、意見が対立したとき、相手を否定する前に、なぜそのように考えるのかを聞いてみる。
自分の希望を伝えるときも、相手の事情を考えながら、互いに納得できる方法を探してみる。
自分にできることと、相手自身が引き受けるべきことを区別する。
こうした小さな姿勢が、人との関係を少しずつ変えていくことがあります。
調和とは、対立が存在しない状態ではありません。
違いがあっても、互いを尊重しながら、よりよい関係を探し続ける
ことです。
ここで、今回のテーマを「真実を観る眼力」という視点から見直してみましょう。
人間関係においても、私たちは自分の認識を通して相手を見ています。
自分の期待に合う相手を好ましく感じる。
自分の価値観と違う相手を理解しにくく感じる。
過去に傷ついた経験から、相手の言葉を否定的に受け取る。
このようなことは、誰にでも起こり得ます。
だからこそ、
相手を観察するだけでなく、相手を見ている自分自身の認識も観察する
必要があります。
自分は、相手の何を見ているのだろう。
相手の言葉を、自分の思い込みで解釈していないだろうか。
自分の正しさを守るために、相手の立場を見落としていないだろうか。
相手を尊重するあまり、自分自身を見失っていないだろうか。
こうした問いを持つことで、私たちは自分と他者の双方を、より広い視点から見ることができます。
調和とは、
自分を消して他者に合わせることでも、
他者を自分に合わせることでもありません。
互いの違いを認めながら、
共に生きる道を探すことなのです。
自分と他者のあいだにある調和...お互いを尊重し、必要なときには支え合い、共に生きる道を探す
終わりに
「自分を大切にすることと、他者を大切にすることは両立できるのか?」
今回の問いを通して見えてきたのは、自分と他者は、対立する存在ではないということです。
自分を大切にすることは、
自分の心身や価値観、
限界を理解し、
尊重することです。
他者を大切にすることは、
自分とは異なる考えや感情、
人生を持つ存在として、
相手を尊重することです。
そのためには、
相手に共感することも必要ですが、何でも同調する必要はありません。
自分の境界線を守ることも必要ですが、相手を拒絶する必要もありません。
他者に支えてもらうことも、自分が他者を支えることも、どちらも人間らしい自然な営みです。
大切なのは、
互いの自由や尊厳を認めながら、
必要なときに支え合える関係を築くこと
です。
私たちは、一人で生きているわけではありません。
自分の幸せは、家族や友人、地域、社会、そして自然との関係の中にも存在しています。
だからこそ、自分のことだけを見ていても、本当の意味での豊かさには気づけないのかもしれません。
一方で、他者のことばかりを考えて、自分自身を見失ってしまっても、調和のある関係は築けません。
自分を知ること。
他者を理解しようとすること。
互いの違いを認めること。
そして、必要なときには支え合うこと。
その一つひとつが、
自分と他者のあいだにある調和を育てていくのではないでしょうか。
ここで、次の問いが生まれます。
私たちは、自分と他者との関係を大切にしながら、さらにその視野を社会や自然へと広げていくことができるのでしょうか。
自分の幸せと他者の幸せ。
人間社会の豊かさと自然環境の豊かさ。
それらは、どのようにつながっているのでしょうか。
真実を観る眼力198 「習慣は、どのように私たちの人生をつくるのか?」 ― 無意識に繰り返す行動と、変化する脳と身体 ―
はじめに
私たちの一日は、さまざまな習慣によって成り立っています。
朝起きて、顔を洗い、食事をする。
仕事に向かい、いつものように人と接する。
疲れたら休み、時間があればスマートフォンを見る。
こうした行動の多くは、毎回深く考えて選んでいるわけではありません。
気がつけば、いつものように同じことを繰り返しています。
しかし、少し立ち止まって考えてみると、私たちの人生は、このような何気ない行動の積み重ねによって形づくられているのではないでしょうか。
どのような時間の使い方をするのか。
どのような言葉を使うのか。
どのような人間関係を築くのか。
どのような情報に触れ、何に意識を向けるのか。
その一つひとつが、日々の生活をつくっています。
前回197では、「わかっているのに、なぜ行動に移せないのか?」という問いから、認識と行動の間にある心理的・身体的・環境的な要因を考えました。
今回は、その行動が繰り返されることで、どのように習慣となり、私たちの脳や身体、そして人生に影響していくのかを考えてみたいと思います。
私たちは、自分の意志で人生を選択しているつもりでも、実際には、これまで身につけてきた習慣に大きく影響されているのかもしれません。
日々の小さな習慣を観察することは、自分がどのような人生をつくっているのかを観察することでもあるのです。
第一章 習慣とは何なのか?
習慣とは、同じような状況で、特定の行動を繰り返すうちに、次第に意識的な判断を必要とせずに行えるようになる行動のことです。
例えば、朝起きたらカーテンを開ける。
食事の前に手を洗う。
歯を磨く。
帰宅したら決まった場所に荷物を置く。
こうした行動は、毎回「次は何をしようか」と考えなくても、自然に行えるようになっています。
これは、脳が過去の経験から行動のパターンを学習し、効率よく処理できるようになっているためです。
心理学の習慣研究では、行動が繰り返される状況と結びつくことで、自動的に起こりやすくなることが示されています。
Wendy WoodとDennis Rüngerによる2016年のレビュー論文「Psychology of Habit」でも、習慣は、目標を持って行動を繰り返す中で形成され、
日常の環境や状況によって呼び起こされる行動として整理されています。
つまり、習慣は単に同じことを何度も行うというだけではありません。
特定の状況と行動が結びつき、考える前に身体が動くようになる仕組みなのです。
この仕組みは、私たちの生活を効率化するうえで重要な役割を果たしています。
もし、朝起きるたびに、顔を洗う順番や歯ブラシの使い方まで一つひとつ考えなければならないとしたら、日常生活はとても大変になるでしょう。
習慣があるからこそ、私たちは多くの行動を無理なく繰り返すことができます。
しかし、その便利な仕組みには、もうひとつの側面があります。
それは、今の自分に合わなくなった行動も、習慣として残り続けることがあるということです。
第二章 繰り返す行動が、脳の働きを変えていく
ここで、脳科学の視点から習慣を考えてみましょう。
私たちの脳には、
経験や学習に応じて、神経回路の働きや結びつきが変化する性質があります。
これを神経可塑性(脳の可塑性)といいます。
以前は、脳は成長期に大きく発達し、大人になると変化しにくくなると考えられていました。
しかし、現在では、成人した後も学習や経験に応じて脳の働きが変化することが分かっています。
新しいことを学ぶ。
身体を動かす。
楽器を練習する。
言葉を覚える。
繰り返し経験する。
こうした活動は、脳の神経回路の働きに影響を与えます。
例えば、楽器を演奏する人は、練習を通じて指の動きや音を聞き分ける能力を身につけていきます。
最初は一つひとつの動きを意識しなければできなかったことも、練習を重ねるうちに、より自然に行えるようになります。
これは、単に指の動きが上達したというだけではありません。
脳が経験を通じて情報を処理する仕組みを調整し、必要な動作をより効率的に行えるようになっているのです。
神経可塑性と学習の関係については、KleimとJonesによる2008年の研究レビューなどでも整理されています。
また、成人の脳でも、経験に応じた構造的な変化が確認されていることが報告されています。
ただし、脳の変化は単純に「繰り返せば必ず能力が高まる」というものではありません。
経験の内容や質、個人差、身体の状態などによって異なります。
ここで大切なのは、
脳が固定されたものではなく、
経験との関係の中で変化し続けている
ということです。
私たちは、日々の経験によって脳を使い、その脳の変化を通じて、次の行動や学習にも影響を受けているのです。
第三章 習慣は、身体にも刻まれていく
習慣というと、頭の中で行われる学習や心理的な癖を思い浮かべるかもしれません。
しかし、習慣は身体とも深く関係しています。
例えば、長時間座って仕事をする生活が続けば、身体を動かす機会が少なくなります。
反対に、毎日歩くことを習慣にしている人は、歩くための身体の使い方や持久力を少しずつ身につけていきます。
また、いつも同じ姿勢でスマートフォンを見ていれば、その姿勢が日常の身体の使い方として定着していくこともあります。
身体は、日々の活動に応じて変化します。
筋肉や心肺機能、バランス能力、柔軟性なども、日常の活動や運動習慣の影響を受けます。
さらに、睡眠や食事、休息の習慣も、身体のリズムやコンディションに関係しています。
ここで思い出したいのが、これまで取り上げてきた「身心相関」という考え方です。
身体の状態は心の働きに影響し、
心の状態もまた身体の働きに影響します。
疲れているときには、普段なら気にならないことが気になったり、物事を悲観的に受け止めたりすることがあります。
反対に、適度に身体を動かした後には、気分がすっきりすることもあります。
もちろん、身体活動だけですべての心の問題が解決するわけではありません。
しかし、身体の状態が感情や思考、行動と無関係ではないことは、日常の経験からも感じられるのではないでしょうか。
つまり、習慣は脳の働きだけでなく、身体の状態や心の働きにも関係しながら、私たちの生活全体を形づくっているのです。
毎日どのように身体を使っているかは、
毎日どのように生きているか
にもつながっています。
「身心相関」 身体の柔軟と心の柔軟
第四章 習慣は、私たちの認識まで形づくる
ここから、今回のテーマを「真実を観る眼力」という視点から、もう一歩深めてみたいと思います。
習慣は、身体の動きだけに関係するものではありません。
私たちが何を見て、何に気づき、
どのように受け止めるかという、
認識の働きにも関係しています。
例えば、いつも人の欠点に目が向いてしまう人は、他人の言動を評価することが習慣になっているのかもしれません。
反対に、相手の立場や背景を考えることが習慣になっている人は、同じ出来事でも異なる側面に気づくことがあります。
また、失敗を恐れる経験を繰り返してきた人は、新しいことに直面したとき、可能性よりも危険を先に考えるようになることがあります。
これは、
過去の経験によって身についた認識の傾向が、
現在の情報の受け取り方に影響していると考えることができます。
私たちは、目の前にある情報を、いつも何の先入観もなく受け取っているわけではありません。
過去の経験や記憶、期待、感情などを通して、物事に意味づけをしています。
そして、その意味づけの仕方も、
繰り返しによって定着していくことがあります。
例えば、
「どうせ自分にはできない」
という考えを何度も繰り返していると、新しいことに挑戦する前から、できない理由を探すようになるかもしれません。
反対に、
「まずは試してみよう」
という姿勢を繰り返していれば、失敗を学習の機会として捉えやすくなる場合があります。
もちろん、前向きな言葉を繰り返せば、必ず現実が変わるということではありません。
大切なのは、
どのような情報に注意を向け、
どのような意味づけを繰り返しているのかを観察することです。
ここで、私たちは次のような関係に気づきます。
認識が行動に影響し、
行動の繰り返しが習慣をつくり、
その習慣が再び認識に影響する。
この循環が、私たちのものの見方や行動の傾向を形づくっているのです。
第五章 習慣には、人生を支えるものと、縛るものがある
ここまで考えてくると、習慣には二つの側面があることが分かります。
ひとつは、私たちの生活を支えてくれる習慣です。
規則正しい生活。
適度な運動。
十分な睡眠。
人の話をよく聞くこと。
感謝を言葉にすること。
物事を落ち着いて考えること。
こうした習慣は、日々の生活を整え、人との関係を豊かにする助けになることがあります。
もうひとつは、私たちの行動や認識を狭めてしまう習慣です。
必要以上に他人と比較する。
失敗を恐れて行動を避ける。
感情的になってすぐ反応する。
疲れていても無理を続ける。
自分の考えと違う情報を遠ざける。
こうした習慣は、知らないうちに自分の選択肢を狭めてしまうことがあります。
しかし、ここで注意したいのは、習慣そのものに単純な善悪があるわけではないということです。
例えば、失敗を避ける習慣は、危険を回避する場面では自分を守る働きをします。
他人に気を配る習慣も、人間関係を円滑にするうえで役立つことがあります。
ただし、それが過剰になれば、新しいことに挑戦できなくなったり、自分の気持ちを伝えられなくなったりすることもあります。
つまり、
以前は自分を守ってくれていた習慣が、
今の自分にとっては行動を制限するものになっている場合もあるのです。
大切なのは、自分の習慣を一方的に否定することではありません。
その習慣は、今の自分の生活に本当に役立っているのだろうか。
その習慣によって、自分や他者にどのような影響が生まれているのだろうか。
その行動を続けることによって、どのような未来につながっていくのだろうか。
こうした問いを持つことです。
習慣を観察するとは、
過去の自分が身につけた行動を、
今の自分の視点から見直すこと
でもあるのです。
第六章 新しい習慣は、どのようにつくられるのか?
では、これまでの習慣を見直し、新しい行動を身につけるには、どうすればよいのでしょうか。
大きな目標を立てて、強い意志で一気に変えようとすることもできます。
しかし、急激な変化は負担になることがあります。
習慣をつくるうえでは、日常の中で無理なく繰り返せる行動を考えることが大切です。
1.今の自分の習慣を観察する
まず、普段どのような行動を繰り返しているのかを見てみます。
朝起きてから何をしているのか。
どのようなときにスマートフォンを見ているのか。
疲れたときに、どのような行動を取っているのか。
人の言葉に対して、どのように反応しているのか。
自分の行動を責めずに、事実として観察してみます。
2.小さな行動を選ぶ
最初から大きく変える必要はありません。
いつもより少し早く寝る。
短い時間でも歩いてみる。
朝、窓を開けて外の空気を感じる。
相手の話を最後まで聞いてから返事をする。
小さな行動であっても、繰り返すことで新しい経験になります。
3.行動するきっかけをつくる
習慣は、特定の状況や環境と結びついて形成されやすくなります。
例えば、朝食の後に短いストレッチをする。
帰宅したら、まず水を飲む。
寝る前には、スマートフォンを少し離れた場所に置く。
このように、すでにある生活の流れに新しい行動を組み合わせると、取り組みやすくなることがあります。
4.できない日があっても、また始める
習慣づくりで大切なのは、毎日完璧に続けることではありません。
体調が悪い日もあれば、予定が変わる日もあります。
一日できなかったからといって、それまでの努力がすべて失われるわけではありません。
自分の状態に合わせて、また始めればよいのです
5.結果を振り返る
新しい行動を続けてみたら、自分にどのような変化があったのかを観察します。
身体の調子はどうか。
気持ちに変化はあったか。
以前より行動しやすくなったか。
生活の中で無理が生じていないか。
その結果をもとに、行動の内容や方法を調整していきます。
習慣は、決めたことを機械的に続けるだけで完成するものではありません。
自分の状態や環境に合わせて、見直しながら育てていくものでもあります。
第七章 習慣を変えることは、自分の未来を選び直すこと
ここまで、習慣と脳、身体、認識の関係を考えてきました。
私たちは、
過去の経験から行動を学び、
その行動を繰り返すことで習慣を身につけていきます。
そして、
その習慣が、現在の行動や認識に影響を与えています。
つまり、今の自分は、生まれ持った性質だけで決まっているわけではありません。
これまでに経験してきたこと。
身につけてきた習慣。
日々の生活環境。
繰り返してきた選択。
そうしたものが重なり合って、現在の自分を形づくっています。
しかし、ここで忘れてはならないことがあります。
過去に身につけた習慣は、必ずしもこれからの人生を決めるものではないということです。
脳には経験に応じて変化する可塑性があります。
私たちの行動も、環境や経験、学習によって変化する可能性があります。
もちろん、年齢や健康状態、生活環境などによって、変化のしやすさや必要な時間は異なります。
それでも、自分の習慣に気づき、今の自分に合った行動を少しずつ選び直すことはできます。
ここで、これまでの「真実を観る眼力」の流れを振り返ってみましょう。
私たちは、感じたことをそのまま真実だと決めつけず、自分の認識を観察することを学んできました。
そして、分かっているのに行動できない理由を考え、今回は、日々の行動が習慣となり、自分の人生に影響していることを見てきました。
この流れは、次のように表すことができます。
認識 → 判断 → 行動 → 習慣 → 経験 → 新たな認識
この循環の中で、私たちは日々、自分自身をつくり続けているのです。
だからこそ、何気ない一日の過ごし方にも意味があります。
今日、何に意識を向けるのか。
どのような言葉を選ぶのか。
どのような行動を繰り返すのか。
どのような経験を自分の中に積み重ねていくのか。
それらは、小さなことのように見えても、長い時間の中では人生の方向に関係していきます。
終わりに
「習慣は、どのように私たちの人生をつくるのか?」
今回の問いから見えてきたのは、習慣が単なる行動の繰り返しではないということです。
習慣は、脳の学習や身体の使い方と関係し、感情や認識、日々の選択にも影響を与えています。
そして、私たちが何気なく繰り返している行動が、少しずつ自分の生活や人間関係、ものの見方を形づくっているのです。
だからといって、すべての習慣を変える必要はありません。
今の自分を支えてくれている習慣は、大切にすればよいのです。
一方で、自分を苦しめている習慣や、他者との関係を狭めている習慣に気づいたなら、少しずつ見直していけばよいのではないでしょうか。
大切なのは、過去の自分を否定することではありません。
これまでの経験によって身についた自分の行動を理解し、
今の自分にとって必要なものを選び直していく
ことです。
そして、その選択を日々の小さな行動につなげていくことです。
ここで、最後にひとつ問いを残したいと思います。
私たちは、自分の人生をつくっているつもりで、実は、いつもの習慣に人生をつくられているのではないでしょうか。
もしそうだとしたら、これからの人生を変えるために必要なのは、特別な出来事や大きな決断だけではないのかもしれません。
毎日の何気ない行動に気づき、
その一つひとつを見直していくこと。
そこから、新しい自分の生き方が始まるのではないでしょうか。
人生は、一度の大きな選択だけでつくられるのではありません。
日々の小さな選択と、
その積み重ねによって形づくられていくのです。
次回は、もう少し視野を広げて考えてみたいと思います。
自分を大切にすることと、他者を大切にすることは、両立できるのでしょうか。
自分の幸せを求めることと、他者の幸せを願うことは、対立するものなのでしょうか。
自分の人生を観るところから、他者との関係を観るところへ。
次回は、
「自分を大切にすることと、他者を大切にすることは両立できるのか?」
という問いから、自己尊重と共感、そして共生について考えてみたいと思います。
自分を知ることは、他者を理解するための出発点にもなるのではないでしょうか。












