asa insight

2026-10-02 00:01:00

真実を観る眼力197 「わかっているのに、なぜ行動に移せないのか?」 ― 気づきと行動のあいだにあるもの ―

はじめに

私たちは、日々の生活の中で、さまざまなことに気づいています。

健康のためには、身体を大切にしたほうがよい。

疲れているときには、無理をせず休んだほうがよい。

人との関係では、相手の立場を考えることが大切。

自分の時間も大切にしたほうがよい。

頭では分かっていることが、たくさんあります。

それなのに、実際にはどうでしょうか。

身体に無理をさせてしまう。

つい感情的になってしまう。

やめようと思っていた習慣を繰り返してしまう。

変わりたいと思いながら、昨日と同じ生活を続けてしまう。

「分かっているのに、できない」

私たちは、このような経験を何度も繰り返しています。

では、なぜ人間は、正しいと理解していることを、そのまま行動に移せないのでしょうか。

それは、意志が弱いからなのでしょうか。

努力が足りないからなのでしょうか。

あるいは、私たちがまだ気づいていない、別の仕組みが働いているのでしょうか。

前回196では、「幸せ」という身近な価値観そのものを観察しました。

今回は、その気づきを一歩先へ進めてみたいと思います。

自分が何を大切にしたいのかを理解することと、それを実際の生き方に反映することは、同じではありません。

その間にあるものを観察することから、今回の問いを始めます。

 

第一章 「分かっている」と「できる」は同じではない

私たちは、知識を得たり、経験を重ねたりすることで、さまざまなことを理解していきます。

しかし、理解したからといって、すぐに行動が変わるわけではありません。

例えば、健康のために適度な運動が必要だと理解していても、仕事から帰ると疲れて動けないことがあります。

早く寝たほうがよいと分かっていても、スマートフォンを見続けてしまうこともあります。

相手の話を冷静に聞こうと思っていても、感情が先に動き、強い言葉を返してしまうこともあります。

ここで考えたいのは、知識と行動の間には、いくつもの過程が存在しているということです。

何かを知ること。

それを自分に関係することとして理解すること。

実際に行動する必要性を感じること。

行動できる状態を整えること。

そして、実際に行動に移すこと。

これらは、それぞれ異なる働きです。

つまり、

「知っている」ことは、行動を変えるための出発点ではあっても、行動そのものではないのです。

私たちは、知識を得たときに、あたかも問題を理解し、解決したような感覚になることがあります。

しかし、本当に変化が始まるのは、その知識が自分の認識や日々の行動に結びついたときなのではないでしょうか。

 

第二章 人間の心は、必ずしも合理的に行動するわけではない

人間は、いつも冷静に考え、合理的に判断して行動しているわけではありません。

私たちの行動には、感情、欲求、期待、不安、過去の経験などが深く関係しています。

例えば、健康のためには食生活を整えたほうがよいと理解していても、疲れているときには、手軽で満足感のある食べ物を選ぶことがあります。

将来のために貯蓄したほうがよいと考えていても、今すぐ欲しいものがあると、そちらを優先してしまうこともあります。

こうした行動には、目の前の満足を求める気持ちと、将来の利益を考える気持ちとの間にある葛藤が関係しています。

心理学では、人間の判断や行動に、感情や動機が影響することが研究されています。

また、私たちは自分が望んでいる結論に合う情報を重視したり、自分に都合のよい理由を見つけたりすることがあります。

これは、以前取り上げた「動機づけられた推論」とも関係しています。

ここで大切なのは、欲求や感情を悪いものとして扱わないことです。

欲求は、生きるための動機にもなります。

感情は、自分の状態や周囲との関係を知るための重要な情報でもあります。

問題は、それらが働いていることに気づかないまま、いつも同じ反応を繰り返してしまうことです。

例えば、

「今は疲れているから、少し休みたい」

という感覚と、

「面倒だから、何も変えたくない」

という気持ちは、似ているようで違う場合があります。

その違いを観察せずに、すべてを同じものとして判断してしまえば、自分が本当に必要としていることも見えにくくなります。

行動を変えるためには、まず、自分を動かしている感情や欲求に気づくことが必要なのです。

 

第三章 身体の状態が、行動の選択を左右する

行動できない理由を考えるとき、私たちはつい心や意志の問題に注目しがちです。

しかし、人間は身体を持った生命です。

身体の状態は、思考や感情、注意力、判断、行動にも影響を与えます。

例えば、睡眠が不足しているとき、疲労が蓄積しているとき、空腹や体調不良があるときには、普段ならできることが難しくなる場合があります。

集中力が続かない。

物事を前向きに考えにくい。

小さなことにイライラする。

新しいことを始める気力が湧かない。

こうした変化は、必ずしも性格や意志の問題ではありません。

脳は、身体から伝わるさまざまな情報を受け取りながら、周囲の状況を判断し、行動を調整しています。

睡眠、栄養、身体活動、ストレスなどは、脳の働きや感情の調整にも関係しています。

つまり、私たちの行動は、頭の中だけで決まっているわけではないのです。

ここで、前回までに取り上げた「身体感覚」と「身心相関」を思い出してみましょう。

身体が疲れているときには、物事の受け止め方も変わることがあります。

同じ出来事であっても、十分に休めているときと、疲労が蓄積しているときでは、感じ方や判断が異なることがあります。

それならば、行動できない自分を責める前に、少し立ち止まって考えてみる必要があります。

今の自分の身体は、どのような状態なのだろうか。

十分に休めているだろうか。

無理を重ねていないだろうか。

自分の身体が発している小さなサインを見落としていないだろうか。

行動を変えるためには、心に働きかけるだけでなく、身体が行動できる状態にあるかどうかを観察することも大切なのです。

 

第四章 私たちの行動を支配する「いつもの習慣」

もうひとつ、行動に大きく関係するものがあります。

それは、習慣です。

私たちは、毎日の生活の中で、意識して考えなくても繰り返している行動をたくさん持っています。

朝起きてからの行動。

食事の仕方。

仕事の進め方。

スマートフォンを見るタイミング。

人と接するときの反応。

こうした行動の多くは、過去の経験によって身についた習慣です。

習慣には、毎回考えなくても行動できるという利点

があります。

一方で、以前から続けてきた行動が、現在の自分にとって望ましいとは限りません。

例えば、いつも他人を優先してきた人は、自分の希望を伝えることに抵抗を感じるかもしれません。

失敗を避けることを繰り返してきた人は、新しいことに挑戦する場面で、無意識に行動を控えることがあるかもしれません。

こうした反応は、過去の経験から身についた行動パターンとして理解できます。

習慣は、意識的な判断だけでなく、周囲の環境や行動のきっかけにも影響されます。

例えば、スマートフォンが手元にあれば、何気なく画面を開いてしまう。

疲れたときにいつも甘いものを食べていれば、疲労を感じた瞬間に同じ行動を取りやすくなる。

つまり、行動は、その場の意志だけで決まるのではありません。

これまでの経験、繰り返し、環境、そして身体の状態などが組み合わさって、いつもの行動が生まれているのです。

ここで、もう一度考えてみたいと思います。

私たちは、本当に毎回、自分の意志で行動を選んでいるのでしょうか。

それとも、気づかないうちに、過去から続いている習慣に行動を委ねているのでしょうか。

自分の行動を変えるためには、行動そのものだけでなく、その行動を生み出している習慣や環境まで観察する必要があるのです。

 

第五章 行動を変えるために必要なのは、意志の強さだけではない

では、分かっているのに行動できないとき、私たちは何をすればよいのでしょうか。

もっと強い意志を持つことでしょうか。

自分に厳しくすることでしょうか。

できない自分を反省し、努力を重ねることでしょうか。

もちろん、意志や努力が役立つ場面はあります。

しかし、それだけでは、行動の変化が長続きしないこともあります。

なぜなら、行動には心理的な要因だけでなく、身体や環境、習慣なども関係しているからです。

そこで、行動を変えるための視点を少し変えてみたいと思います。

1.自分の状態に気づく

まず、自分が今どのような状態にあるのかを観察します。

疲れているのか。

不安を感じているのか。

失敗を恐れているのか。

それとも、単に行動するきっかけがないのか。

理由を決めつけず、自分の状態を確かめてみます。

2.行動を妨げているものを観察する

行動できない理由は、必ずしもひとつではありません。

時間がない。

環境が整っていない。

身体が疲れている。

失敗への不安がある。

今までの習慣から抜け出せない。

こうした要因を分けて考えることで、漠然とした「できない」という感覚が、少しずつ具体的な問題として見えてきます。

3.小さな行動から始める

大きく変えようとすると、その変化自体が負担になることがあります。

運動を始めるなら、まず短い時間から。

早く寝るなら、寝る前のスマートフォンの時間を少し減らすことから。

自分の意見を伝えるなら、まず身近な場面で一言伝えることから。

小さな行動でも、繰り返すことで新しい経験になります。

その経験が、次の行動を支えることがあります。

4.結果を観察し、必要に応じて修正する

行動を起こしたからといって、すぐに望んだ結果が得られるとは限りません。

うまくいかないこともあります。

そのとき、すぐに自分を否定するのではなく、何が起きたのかを観察します。

方法が合っていなかったのか。

目標が大きすぎたのか。

身体に負担があったのか。

環境を変える必要があるのか。

結果を次の判断に活かしていきます。

大切なのは、一度で完璧に変わることではありません。

自分の状態を観察し、できる範囲で行動し、その結果から学び、また選び直すことです。

 

 習慣は、考えなくても行動できる        

ayaka83.png

 

 

第六章 気づきと行動のあいだに「間」をつくる

ここまで見てきたように、私たちの行動には、認識、感情、身体、習慣、環境など、さまざまな要因が関係しています。

では、その複雑な働きの中で、私たち自身にできることは何でしょうか。

それは、何かを感じたり、考えたりしたときに、すぐ反応するのではなく、一度立ち止まることです。

例えば、誰かの言葉に腹が立ったとします。

その瞬間、反射的に言い返すこともできます。

しかし、少し立ち止まってみると、別の可能性が見えてくるかもしれません。

自分は何に反応したのだろう。

相手の言葉を、どのように受け取ったのだろう。

本当に相手は自分を否定したのだろうか。

今、伝えるべきことは何だろう。

このように、感情と行動の間に少しの余白をつくることで、反応とは異なる選択が可能になる場合があります。

これは、これまでの「真実を観る眼力」で大切にしてきた、

感じる → 気づく → 観察する → 考える → 自分が何を見ているのかを観察する → 選択する

という流れにもつながっています。

ここでいう「間」は、何もしないことではありません。

自分の感情や欲求に気づき、それに自動的に従うのではなく、別の選択肢があるかどうかを確かめる時間です。

もちろん、すべての行動を毎回意識的に判断することはできません。

習慣や反射的な反応が必要な場面もあります。

しかし、

いつもの反応を繰り返していることに気づいたときには、その行動を見直す余地があります。

自由とは、何でも好きなように選べることだけではなく、自分の無意識的な反応に気づき、必要に応じて選び直せること

なのかもしれません。

 

終わりに

「わかっているのに、なぜ行動に移せないのか?」

今回の問いを通して見えてきたのは、人間の行動が、知識や意志だけで決まっているわけではないということです。

私たちの行動には、感情や欲求、身体の状態、過去の経験、習慣、生活環境など、さまざまな要因が関係しています。

そのため、行動できない自分を、ただ意志が弱いと決めつけても、本当の原因は見えてきません。

大切なのは、自分を責めることではなく、自分の中で何が起きているのかを観察することです。

何を感じているのか。

何を求めているのか。

何を恐れているのか。

どのような習慣に影響されているのか。

そして、どのような環境の中で行動しようとしているのか。

その一つひとつを丁寧に観ていくことで、これまで気づかなかった自分の行動の仕組みが見えてくるかもしれません。

私たちは、何かを理解しただけで、すぐに変われるわけではありません。

しかし、自分の状態に気づき、行動を妨げているものを観察し、小さな選択を積み重ねていくことはできます。

そして、その小さな選択が、やがて新しい習慣となり、生き方を少しずつ変えていく

可能性があります。

ここで、もうひとつ考えてみたいことがあります。

私たちは、日々の行動をどのようにして身につけ、なぜ同じ行動を繰り返すようになるのでしょうか。

一度身についた習慣は、なぜ簡単には変わらないのでしょうか。

そして、新しい習慣を身につけることは、脳や身体、認識にどのような変化をもたらすのでしょうか。

次回は、今回のテーマをさらに深め、

「習慣は、どのように私たちの人生をつくるのか?」

という問いから、無意識に繰り返す行動と、変化する脳と身体について考えてみたいと思います。

気づくことは、変化の始まりです。

そして、その気づきを日々の小さな行動につなげていくことが、自分の人生を自分で選び取るための、一歩になるのではないでしょうか。

2026-09-30 18:48:00

asa information 9月号⑨・後編 「選択しているのに、なぜ同じ選択を繰り返すのか?」 ― 意識の向け方と「真実を観る眼力」② ―

前編では、

「選択する前の認識」

に目を向けました。

私たちは、感じたことを観察し、考え、判断しています。

しかし、その「観察する自分」も、完全に中立とは限りません。

過去の経験や価値観、恐れ、期待、自己防衛などによって、

「何を見るのか」

「何を重要だと思うのか」

「何を見落とすのか」

が変わるからです。

では、

自分の認識を、どのように観ればよいのでしょうか。

 

意識は「何を見るか」を選んでいる

日常生活では、たくさんの情報が目の前を通り過ぎています。

そのすべてに注意を向けることはできません。

だから私たちは、無意識のうちに、

「これは重要」

「これは危険」

「これは関係ない」

と選びながら世界を見ています。

つまり、

意識をどこへ向けるかによって、

見えてくる現実そのものが変わってきます。

ここで重要なのは、

「正しい答えを最初から知ること」

ではありません。

むしろ、

自分に都合のよいものだけを見ないこと。

それが、認識を整える最初の一歩になります。

 

「自分」だけから、少し視野を広げる

たとえば、何かを決めるとき、

「自分にとって得か」

だけを見るのではなく、

「相手にとってはどうなのか」

「関係全体にはどんな影響があるのか」

「短期的にはよくても、長期的にはどうなのか」

「周囲や環境にはどんな影響があるのか」

と、視点を少しずつ広げてみる。

すると、同じ出来事でも違った姿が見えてきます。

これは、

「自分を犠牲にして他人を優先する」

ということではありません。

自分も、相手も、関係も、その先にある環境も、

同じ現実の中に存在しているものとして見る。

ということです。

 

生命は「関係」の中にある

生物学的に見ても、生命は孤立して存在しているわけではありません。

人間は他者との関係の中で生きています。

食べ物を得る。

空気を吸う。

水を使う。

微生物と共生する。

社会の中で協力する。

そして、環境から影響を受けながら生きています。

人間の進化を考えても、競争だけでなく、

協力や相互作用が重要な役割を果たしてきた

ことが研究されています。

だから、

「自分を大切にすること」と「他者や環境を大切にすること」は、

必ずしも対立するものではありません。

むしろ、

自分だけを切り離して考えることのほうが、生命の実際の姿から遠ざかってしまう

場合があります。

 

「宇宙秩序」という視点

ここからは、科学だけではなく、少し大きな視点から考えてみます。

自然界には、

生まれ、

成長し、

変化し、

循環し、

次の生命につながっていく、

という大きな流れがあります。

生命もまた、周囲との関係の中で存在しています。

このような、

「生命は関係の中で成り立っている」

という見方を、ここでは「宇宙秩序」という言葉で捉えてみます。

ただし、これは科学が証明した「道徳の法則」という意味ではありません。

自然界がそうなっているから、

「だから人間はこう生きるべきだ」

と直接結論づけることもできません。

それでも、

自分だけを切り離して世界を見るのではなく、自分を関係の中に置いて観る。

という視点は、人間の認識を広げるための一つの思想的な枠組みになります。

 

宇宙を観る...秩序について、考えて見る

ayaka80.png

 

 

 

「真実を観る眼力」とは何か

では、ここで本題に戻ります。

「真実を観る眼力」とは、

何でも疑うことでもありません。

自分の考えを否定することでもありません。

まして、

「自分だけが真実を知っている」

という特別な能力でもありません。

むしろ反対です。

自分の見方さえも、観察の対象にする力。

それが、「真実を観る眼力」の一つの核心ではないでしょうか。

 

「私は正しい」から、一歩離れてみる

何かについて、

「これは正しい」

と思ったとき。

その瞬間に、

「本当にそうだろうか?」

と疑う必要はありません。

まず、

「私は、なぜそう見ているのだろう?」

と問いかけてみる。

そして、

「自分に都合のよい情報だけを見ていないか」

「反対の情報を無視していないか」

「相手の立場から見たらどうなるか」

「短期的な結果だけを見ていないか」

「自分の恐れが判断を動かしていないか」

「この選択は、同じ状況で繰り返してもよいものなのか」

と、視野を広げていく。

ここで初めて、

「自分の認識を観る」

ということが具体的になってきます。

 

正邪善悪を「自分の都合」だけで決めない

「正しい」「間違っている」

「善い」「悪い」

という判断も、簡単ではありません。

自分にとって正しいことが、別の人にとっては負担になることがあります。

短期的には良い結果でも、長期的には問題を生むこともあります。

だからこそ、

「自分にとって都合がよいか」だけを判断基準にしない。

という姿勢が重要になります。

事実と解釈を分ける。

自分と相手の立場を分けて見る。

短期と長期を見る。

個人だけでなく、関係や環境への影響を見る。

そして、自分自身の欲求や恐れも含めて観察する。

その積み重ねによって、少しずつ判断の精度を高めていく。

それが、ここでいう「眼力」なのだと思います。

 

「量子」だから、意識が現実をつくるわけではない

ここで、少しだけ「量子」と「意識」の関係について触れておきたいと思います。

量子力学では、私たちの日常感覚では理解しにくい現象が起こります。

たとえば、電子のような非常に小さな世界では、測定するまで状態を一つに決められないように扱うことがあります。

こうした量子の世界の不思議さから、

「観測することが現実に影響するのなら、人間の意識が現実をつくっているのではないか?」

という疑問が生まれてきました。

ただし、ここには大切な注意点があります。

量子力学で「観測」が重要だからといって、それがそのまま「人間の意識が現実をつくる」という意味になるわけではありません。

「観測」という言葉も、量子力学では必ずしも「人間が意識して見ること」と同じ意味ではありません。

では、なぜ「量子」と「意識」が結びつけて語られることがあるのでしょうか。

 

「意識は、脳の中でどう生まれるのか?」

実は、ここにはまだ大きな謎があります。

たとえば、

「脳の神経細胞が活動すると、なぜ『痛い』『うれしい』『赤い』などの体験が生まれるのか?」

という問いです。

脳の働きについては多くのことが分かってきました。

それでも、

「物質としての脳」から「私が感じているという体験」が、どのように生まれるのか

については、現在もさまざまな研究が続いています。

そこで登場するのが、「量子の働きが意識に関係しているのではないか」という仮説です。

 

量子意識の一つの仮説

代表的なものの一つに、物理学者ロジャー・ペンローズと麻酔科医スチュアート・ハメロフが提唱してきたOrch OR(オーケストレーテッド・オブジェクティブ・リダクション)という仮説があります。

これは非常に簡単に言えば、

「意識は、脳の神経細胞の中にある微細な構造で起こる量子的な過程とも関係しているのではないか」

と考えるものです。特に、神経細胞の中にある「微小管(マイクロチューブル)」という構造に注目しています。(PubMed)

もちろん、これは「意識の正体が量子である」と証明されたという話ではありません。

この仮説そのものについても、科学的な妥当性をめぐって批判や議論が続いています。(PubMed)

つまり、

量子意識は「確立した答え」ではなく、意識とは何なのかを考えるために提案されている仮説の一つなのです。

 

それでも、興味深いところがある

ここで大切なのは、量子意識が正しいか、間違っているかを急いで決めることではありません。

このような仮説が生まれる背景には、

「そもそも意識とは何なのか?」

という、まだ完全には解けていない問いがあります。

私たちは普段、

「私は考えている」

「私は感じている」

「私は見ている」

と、ごく自然に言います。

しかし少し立ち止まってみると、

「考えている私」とは何なのか。

「感じている私」とは何なのか。

そして、

そのことに気づいている私は誰なのか。

という、少し不思議な問いが現れてきます。

ここが、今回のテーマである「観ている自分を観る」という話にもつながってきます。

量子力学が、この問いに最終的な答えを与えてくれたわけではありません。

けれども、量子と意識の関係を考えることによって、

「自分が世界を見ている」という当たり前の感覚そのものを、一度立ち止まって眺めてみることはできます。

だからこそ、

「量子だから、思ったことが現実になる」

と短絡するのではなく、

「意識とは何なのか。そして、私たちはどのように世界を認識しているのか」

という問いとして、量子と意識の関係を眺めてみる。

そのほうが、科学を神秘化することなく、科学から哲学へと自然に思考を広げていくことができます。

そして「真実を観る眼力」とは、

分からないものを分かったことにすることではなく、

「まだ分かっていない」という境界線も含めて、観ること。

そこにも、大切な意味があるのではないでしょうか。

 

東洋思想が見てきた「観る自分」

ここで、東洋思想の一つの考え方にも目を向けてみます。

インド哲学、とりわけヴェーダーンタの思想では、

感情や思考、欲望などの心の働きと、

それらを「観る」意識との関係が、長く考察されてきました。

そこでは、いわゆる「私」という感覚そのものも、観察の対象として考えられます。

現代科学がその哲学的な結論を証明したわけではありません。

しかし、

「自分の思考を観察するだけでなく、その思考を『自分』だと思っていること自体を観てみる」

という発想には、現代の認識を考えるうえでも興味深いところがあります。

 

観ることは、自分を否定することではない

ここまで来ると、

「では、自分の考えをすべて疑わなければならないのか」

と思うかもしれません。

そうではありません。

自分の感情も大切です。

身体感覚も大切です。

自分の願いも大切です。

自分を守ることも必要です。

ただ、

それらを「絶対的な真実」と同一視しない。

それだけでも、認識には大きな余白が生まれます。

「私は今、こう感じている」

「私は今、こう考えている」

「私は今、こうしたいと思っている」

そこに、

「でも、まだ他にも見えていないものがあるかもしれない」

という小さな余白を残しておく。

その余白が、「間」になります。

 

「意識を正しく向ける」とは

意識を正しく向けるという言葉を、

「正解を知っている方向へ意識を向ける」

と考える必要はありません。

むしろ、

自分に都合のよい方向だけに意識を向けないこと。

そして、

自分、相手、関係、社会、自然、未来まで、必要な範囲で視野を広げること。

そのうえで、

「今、何が事実なのか」

「何が自分の解釈なのか」

「自分は何を望んでいるのか」

「何を恐れているのか」

「何を見落としている可能性があるのか」

を観ていく。

その先に、

「では、どう選ぶか」

という問いが生まれます。

 

感じることから、観ることへ

ここまでの流れを、もう一度整理してみます。

⑦では、

自分を感じる。

⑧では、

感じたことを、そのまま真実にしないで観る。

そして⑨では、

観ている自分の認識そのものを観る。

つまり、

感じる
 ↓
気づく
 ↓
観察する
 ↓
考える
 ↓
自分が何を見ているのかを観る
 ↓
視野を広げる
 ↓
選択する

という流れです。

これは、選択肢を増やすだけの話ではありません。

「何に反応するか」から、「何を見て選ぶか」へ。

そして、

「自分のために選ぶ」から、「自分も含めた関係の中で選ぶ」へ。

認識の範囲を少しずつ広げていくことです。

 

自由とは、「何でも選べること」だけではない

自由というと、

「好きなものを選べること」

を思い浮かべるかもしれません。

けれど、もし自分の認識パターンに気づかないまま、

いつも同じ反応をし、

同じ判断をし、

同じ結果を生み出しているとしたら、

選択肢がたくさんあっても、実際には同じところを回り続けているかもしれません。

だから本当の意味での自由とは、

「自分を動かしている認識のパターンに気づき、そこから少し離れて選べること」

なのかもしれません。

 

「真実を観る眼力」は、まず自分自身を見る

外の世界の「正しさ」を見極めようとするとき、

私たちはつい、

「相手が間違っている」

「社会が間違っている」

「この考え方が間違っている」

と、外側に答えを探します。

しかし、

真実を観る眼力は、外の世界だけを見る力ではありません。

その世界を見ている、

自分自身の認識も観る力です。

自分の感情を観る。

自分の欲求を観る。

自分の恐れを観る。

自分の思い込みを観る。

そして、

「自分は何を見ようとしているのか」

まで観る。

そこまで含めて初めて、

「認識を観る」

ということができるのではないでしょうか。

 

「反応する人生」から、その先へ

190で考えた、

「反応する人生」から「選択する人生」へ。

そこから、さらに一歩進めるなら、

「選択する人生」から「認識を整えて選択する人生」へ。

感じることを否定しない。

考えることも否定しない。

自分を大切にすることも否定しない。

そのすべてを大切にしながら、

「今、自分は何を見ているのか」

を観る。

そして、自分だけではなく、

他者との関係、

社会、

自然、

未来

まで視野を広げてみる。

そのとき、選択は単なる「自分の意思」ではなく、

自分と世界との関係の中で生まれるもの

として見えてきます。

 

おわりに

感じる。

気づく。

観る。

考える。

そして、

観ている自分を観る。

その先で、ようやく選ぶ。

その選択が、いつも正解になるとは限りません。

人間である以上、認識の偏りから完全に自由になることも難しいでしょう。

だからこそ大切なのは、

「私は正しく見ている」

と思い込むことではなく、

「自分の見方も、もう一度観てみよう」

とできることなのかもしれません。

「真実を観る眼力」とは、

何か特別な答えを持つことではない。

自分の感じ方も、

自分の考えも、

自分の欲望も、

自分の正しさも、

いったん静かに観る。

そして、自分だけではなく、

その先にいる人、

関係しているもの、

そして生命や自然まで、

少しずつ視野を広げていく。

そのとき、

「選ぶ」という行為そのものが変わり始める。

⑦で「自分を感じる」ことから始まり、

⑧で「感じたことを観る」ことを学び、

⑨ではついに、

「観ている自分を観る」

ところまで来ました。

そして次に問われるのは、

「では、その意識を、どのように生きる方向へ向けていくのか」

ということなのかもしれません。

そこから先は、

個人の選択を超えて、

他者・身体・自然・社会との関係の中で、どのように生きるのか。

という、さらに大きなテーマへつながっていきます。

 

2026-09-29 21:05:00

asa information 9月号⑨・番外編 「私たちの『選択』は、本当に自分自身のものなのか?」 ― 認識をつくる情報と、意図的に方向づけられる社会 ―

前編では、

「選択しているのに、なぜ同じ選択を繰り返すのか?」

という問いから、人間の認識について考えました。

私たちは、何かを感じ、気づき、観察し、考え、そして選択します。

しかし、その「考える」という働きそのものにも、フィルターがあります。

過去の経験。

価値観。

恐れ。

期待。

欲求。

そして、

「こうであってほしい」

という気持ち。

心理学では、人間が自分の望む結論に沿うように情報を選択したり解釈したりする「動機づけられた推論(motivated reasoning)」が研究されています。

つまり、人間は必ずしも「事実を集めてから結論を出す」だけの存在ではありません。時には、先にある目的や望ましい結論が、情報の受け取り方に影響します。 (PubMed)

これは、特別な人だけに起こる現象ではありません。

人間の認識そのものに関わる問題です。

そして、この人間の性質は、個人の生活だけでなく、社会や政治の中でも利用されてきました。

 

「認識のフィルター」は、個人だけの問題ではない

たとえば、ある人が一つのニュースだけを見て、

「これは危険だ」

と思ったとします。

別の情報を知らなければ、その判断はますます確かなものに感じられるかもしれません。

さらに周囲の人も同じ情報を受け取り、

「やはり危険なのだ」

と言い始める。

新聞もラジオも同じ方向の情報を流す。

学校でも同じ考え方が教えられる。

反対の意見を言う人が少なくなっていく。

すると、

「みんながそう言っている」

という事実そのものが、さらにその認識を強化します。

ここまで来ると、個人の認識の偏りが、社会全体の認識環境へと広がっていきます。

そして歴史を振り返ると、国家権力がこの仕組みを意図的に利用した例があります。

 

ナチス・ドイツに見る「情報を一方向にする」という方法

その典型的な例の一つが、ナチス・ドイツです。

1933年、ヒトラー政権は国会議事堂放火事件を利用して、いわゆる「国会議事堂放火令」を成立させ、言論・出版・集会などの自由を大きく制限しました。

さらに同年3月には「全権委任法」が成立します。

この法律によって、政府は国会の同意なしに法律を制定できるようになり、ナチス独裁体制を構築する重要な基盤となりました。法案成立の過程では、共産党議員や社会民主党議員への逮捕・排除など、威圧と迫害も行われています。

そして、その後に行われたのが、「何を考えるか」だけではなく、「何を見ることができるか」を管理することでした。

新聞。

ラジオ。

映画。

出版。

学校教育。

芸術。

文化。

さまざまな情報経路が国家の思想に沿うよう統制されました。

ナチスは1933年に国民啓蒙・宣伝省を設置し、新聞やラジオ、映画、出版、芸術などを通じて国民の世論と行動に影響を与えようとしました。反対する新聞は閉鎖・接収され、ジャーナリストには政府の指示に従うことが求められました。

教育も例外ではありませんでした。

学校ではナチスの世界観、指導者への服従、人種主義、反ユダヤ主義などが教えられ、子どもたちを対象とした組織や教材も利用されました。(ホロコースト百科事典)

ここで重要なのは、

人々に一つの答えを直接命令するだけではなかった、

ということです。

むしろ、

「その答え以外を考えるための情報が入りにくい環境」

をつくることでした。

 

「選択肢」を減らせば、人は選びやすくなる

ここに、⑨前編との重要なつながりがあります。

私たちは、

「自分で選んだ」

と思っていても、

そもそも何を選択肢として認識していたのかを考える必要があります。

たとえば、

AかBかを選んでいるつもりでも、

本当はCという選択肢が存在していることを知らなかった。

あるいは、

「Aを選ばなければ危険だ」

と繰り返し伝えられていた。

すると、Aを選ぶことは、

本人にとっては「自分自身の判断」に感じられるかもしれません。

ここで問題になるのは、

「選択したかどうか」だけではありません。

「選択する前に、どのような情報環境に置かれていたのか」です。

 

戦後日本でも、占領下の情報・教育政策が行われた

日本の戦後史にも、この問題を考えるうえで重要な事例があります。

1945年の敗戦後、日本は連合国軍の占領下に置かれました。

GHQ/SCAPは、新聞・ラジオなどの報道に対して指令を出し、1945年9月19日には「Press Code for Japan(日本に対するプレスコード)」を発令しました。

その中には、

  • 報道は真実に厳密に従うこと

  • 占領軍への不信や憤りを招く内容を掲載しないこと

  • 連合国への「破壊的批判」を掲載しないこと

  • 宣伝目的でニュースを歪めないこと

などが定められていました。

国立国会図書館も、SCAPIN-33を含む占領期のSCAP指令を収録しており、1945年9月10日のSCAPIN-16には報道・出版などについての統制に関する指示が、9月19日のSCAPIN-33にはプレスコードが記録されています。

(国立国会図書館サーチ(NDLサーチ))

つまり、占領下の日本で報道が自由に行われていたわけではありません。

実際、占領期には民間検閲局(CCD)による出版物などの検閲が行われ、研究では1945年9月から1949年10月までの印刷物について、その実態が検証されています。 (CiNii)

 

教育も大きく変えられた

教育についても、GHQの政策は大きな影響を与えました。

1945年10月の教育指令では、軍国主義的・超国家主義的な思想や教育を排除し、民主主義、人権、国際平和などに沿った教育を促す方針が示されました。

さらに、修身、日本史、地理の授業停止や教科書・教材の回収なども行われました。文部科学省の資料にも、これら一連の教育政策と、その後の教員審査などについて記録されています。 (文部科学省)

つまり、占領当局が報道・出版・教育を管理し、特定の情報を制限していたという事です。

 

「ウォー・ギルト・プログラム」という問題

日本は第二次世界大戦に至る経緯や戦後の占領政策で、一方的な解釈が教え込まれたり、「自虐史観」と呼ばれる、自身の歴史に対して過度に否定的な見方を植え付けられ、国家としての誇りや自主独立への気概を失ってしまいました。

戦後占領期にGHQによって実施された「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」、これは、日本人に戦争に対する罪悪感を植え付け、自国の歴史や文化に誇りを持つことを困難にするための組織的な洗脳プログラムでした。

このプログラムは、日本人が二度と強い国家になることを防ぐために、意図的に自虐志向を植え付けるもので、このプログラムの効果は、戦後80年がたった現在でも、日本人の意識の深層に根強く残っています。

 

「グローバリスト」(既得権益層=支配層)が支配する社会構造

そして第二次世界大戦後、GHQによって、全く異質の支配構造が重ねて作られました。官僚、財界、メディアが癒着した、いわゆる戦後レジームと呼ばれるシステムです。このシステムは、日本をアメリカのコントロール下に置き、二度と欧米の脅威とならないように設計されたものでした。

*現代の日本で戦後レジームの意味するところは主に、第二次世界大戦での日本降伏後、GHQによる占領下で出来上がった日本国憲法を始めとする憲法や法令即ち自由民主主義の体制、テレビや新聞などのマスコミ、経済や金融では通貨発行権や通貨管理権の所在を意味する言葉として使われている。(Wikipedia)

そして、このシステムを利用し、アメリカの「ジャパンハンドラー」達の意向にそって、アメリカの国益のために日本を積極的に傷付ける政治が行われてきました。「ハンドラー」とは「操る者」という意味であり、「ジャパンハンドラー」とは「日本を操る者」の意。

アメリカには国際開発庁(USAID)という組織があります。表向きは、世界各国への人道支援や、開発援助を行う機関とされていますが、実際の活動はそれだけではありません。このような国際的な資金提供において、とても大きな役割を果たしているのが、巨額の資産を持つ財団を運営している著名な投資家です。この財団の表向きは、世界各国での人権保護や民主化支援を行っているとされていますが、実際にはその資金が、各国の政府に批判的な活動や、特定の政治思想を広める団体に提供されています。この資金が、日本国内の一部の市民活動団体にも流れているという情報があります。

この財団が掲げる理念は、開かれた社会を目指すという美しい言葉ですが、実際には各国の伝統的な価値観や文化を否定し、グローバル化された統一的な価値観を押し付けるという意味合いが強いものです。彼の財団が支援する活動は、各国の愛国的な政治勢力や伝統的な価値観を重視する勢力に対して批判的な立場を取る傾向があるのです。

戦後、日本がアメリカに支配されてきた背景にあるものが、このような経済的利益の最大化を究極的目標とし、「地球全体を一つの共同体として、国境の垣根を取り払い、特定の国家の主権や権力が及ばないような統一された市場メカニズムをつくり、人・物・金・情報を自由に動かそうという考え方」、すなわちグローバリズム社会です。

その超国家的な機構を志向する人々「グローバリスト」(既得権益層=支配者)が階級社会を生み出し、この階級社会の上位者である「グローバリスト」が、これから先の政治や経済の動向を決める会議を行い、その会議の方針によって実際に世界が運営されるという、ピラミッド型の世界支配構造が現状です。

一つのルールで地球全体を統治するというのがグローバリズムで、グローバリズムは国家を弱体化させ、その国の歴史や文化や伝統、そしてその国の強みを、次々と壊していく。なぜなら、「経済的利益を最大化」するために、こういうものが邪魔だからです。

グローバリズム社会も、意図的につくられる、社会の「認識のフィルター」と言えます。

 

ここに「認識を塗り替える」ことの怖さがある

人間は、同じ情報を繰り返し受け取ると、それを身近で重要な情報として認識しやすくなります。

そこに、

  • 情報源の集中

  • 反対意見へのアクセス制限

  • 教育による反復

  • 恐怖や不安の利用

  • 集団への帰属意識

  • 権威による正当化

などが重なると、

「自分で考えている」ように見える認識が、実は非常に狭い情報環境の中で形成されているということが起こり得ます。

ここから学ぶべきなのは、

普通の人間の認識が、情報環境によってどこまで方向づけられ得るのかという問いです。

これは、昔の話だけでなく、現代でも行われている「認識を塗り替える」という洗脳の手法です。

 

認識のフィルターを観察する 「目覚め」

ayaka77.png

 

 

「洗脳されない人」になる必要はない

ここで、もう一度、個人の認識に戻ります。

「自分は騙されない」

「自分は情報を見抜ける」

そう思った瞬間にも、注意が必要です。

なぜなら、

「自分だけは真実を知っている」

という認識もまた、新しいフィルターになるからです。

これは、とても重要なところです。

プロパガンダを批判している人が、別のプロパガンダを無批判に信じてしまう。

「メディアは嘘をつく」と思って、SNS上の情報をそのまま信じてしまう。

「政府は信用できない」と考えて、政府に反対する情報だけを集めてしまう。

これも、

「望む結論に向かって情報を選択する」

という同じ認識の構造になり得ます。

つまり、

プロパガンダを見抜く眼力と、自分の認識を観る眼力は、セットなのです。

 

本当に怖いのは「一つの情報」ではない

情報操作で最も注意したいのは、

「嘘を一つ流されること」

だけではありません。

むしろ、

何を見せるか。

何を見せないか。

何を繰り返すか。

何を話題にしないか。

誰の意見を権威あるものとして扱うか。

という、

「情報の環境そのもの」です。

人間は、存在を知らない選択肢を選ぶことができません。

だから、

選択の自由を守るためには、選択肢そのものを知る自由が必要です。

そして、

選択肢を知るためには、異なる情報へアクセスできる環境が必要です。

このことは、私たちが最近経験したワクチン接種の問題にもつながる話です。

 

「正しい認識」とは、一つの答えを信じることではない

ここで、「真実を観る眼力」というテーマに戻ります。

真実を観るということは、

「この情報が正しい」

と決めることだけではありません。

むしろ、

① これは事実なのか、解釈なのか

② その情報は誰が発信しているのか

③ 何を根拠にしているのか

④ 反対の資料や証言は存在するのか

⑤ 何が語られていて、何が語られていないのか

⑥ 自分は、この情報を信じたいと思っていないか

⑦ この情報を信じることで、誰が利益を得るのか

⑧ 自分自身が見たい情報だけを集めていないか

こうした問いを持つことです。

これは「何も信じない」ということではありません。

「信じる前に、一度観る。」

という姿勢です。

 

歴史から学ぶべきこと

ナチス・ドイツの歴史を見ると、

非常時を理由に自由を制限すること(緊急事態条項)、

メディアを統制すること、

教育を一方向にすること、

反対意見を排除すること、

特定の集団を敵として描くこと、

そして国家の物語を繰り返し伝えることが、

社会の認識を大きく変える力を持っていたことが分かります。

戦後日本の占領政策を見ても、

報道規制、

検閲、

教育改革、

情報政策

によって、人々が触れる情報環境が大きく変化しました。

しかし、ここで大切なのは、

「だから、この歴史認識だけが正しい」

と結論づけることではありません。

むしろ逆です。

歴史そのものを、

誰が、いつ、どのような立場から、どの資料を使って語っているのか

まで含めて観察する。

それが、歴史から学ぶということではないでしょうか。

 

「選択する自由」を守るために

⑨前編では、

「選択の前に認識がある」

と考えました。

番外編では、さらに一歩進めることができます。

個人だけではなく、

社会にも「認識のフィルター」がある。

そして、そのフィルターは自然にできる場合もあれば、

誰かによって意図的につくられる場合もある。

だからこそ、

自分が何を選んだのかだけではなく、

「なぜ、それを選択肢として認識したのか」

を見ることが大切なのです。

 

おわりに

人間は、

感じる。

考える。

判断する。

そして、選択する。

しかし、その前には、

「何を見るのか」

という段階があります。

そして、その「見るもの」が誰かによって一方的に決められてしまえば、

選択そのものが自由に見えていても、

その選択はすでに狭い枠の中に置かれているかもしれません。

だから、

「私は自分で選んでいる」

と思ったときこそ、

一度立ち止まってみる。

これは誰かに教えられた考えなのか。

自分自身の経験から生まれたものなのか。

他の見方はないのか。

反対の情報は存在するのか。

そして何より、

「私は、この結論を信じたいと思っていないだろうか?」

と自分自身に問いかけてみる。

それは、他人を疑うためではありません。

自分自身の認識を守るためです。

「真実を観る眼力」とは、

誰かの思想を信じる力ではない。

政府を疑う力だけでもない。

メディアを疑う力だけでもない。

SNSを疑う力でもない。

そのすべてを含めて、

「自分は、何を根拠に、何を信じ、何を選ぼうとしているのか」を観る力

です。

そして、その眼力があって初めて、

「選択しているのに、なぜ同じ選択を繰り返すのか?」

という⑨前編の問いが、個人の人生だけではなく、

人類社会そのものの問題

として見えてきます。

「選択する自由」とは、単に選べることではない。

自分で考えるために、

できるだけ多様な情報に触れ、

異なる視点を比較し、

自分自身の認識の偏りまで観察できること。

その環境を守ることもまた、

一人ひとりの「認識革命」の重要なテーマなのかもしれません。

2026-09-28 21:22:00

asa information 9月号⑨・前編 「選択しているのに、なぜ同じ選択を繰り返すのか?」 ― 意識の向け方と「真実を観る眼力」① ―

前回 9月号⑧は、

「感じたことは、そのまま真実なのだろうか?」

という問いから、身体感覚と心、そして認識の関係を考えました。

身体には、さまざまな情報があります。

疲れている。

緊張している。

なんとなく不安。

心地よい。

嫌な感じがする。

そうした感覚は、自分の状態を知るための大切な情報です。

けれど、

「私は今、こう感じている」

ということと、

「だから、現実はこうである」

ということは、同じではありません。

感じたことをいったん観察し、その意味を考える。

その「間」があることで、私たちは反応するだけではなく、選択することができるようになります。

では、それで十分なのでしょうか。

ここには、更に、もう一つ大切な問題があります。

 

「観察すれば、正しく選べる」のだろうか

たとえば、誰かの言葉に傷ついたとします。

「この人は自分を軽く扱っている」

そう感じた。

そこで、

「今、自分は傷ついている」

と気づき、

「なぜ自分はこんなに反応したのだろう」

と考える。

そして、

「感情に流されず、冷静に判断しよう」

とする。

一見すると、とても理性的です。

けれど、その「冷静に考えている自分」も、本当に何の偏りもなく現実を見ているのでしょうか。

ここに、認識の難しさがあります。

 

「観察する自分」にも、フィルターがある

私たちは、外の世界をそのまま見ているわけではありません。

目や耳、身体から入ってくる情報を、脳は過去の経験や期待、注意の向け方、現在の感情などと結びつけながら意味づけています。

つまり、

感じることだけではなく、観察することにも認識のフィルターがある、

ということです。

だから、

「自分は冷静に考えている」

と思っていても、実際には、

「自分にとって都合のよい情報を中心に見ている」

ことがあります。

あるいは、

「自分は正しい」

という前提に合う情報ばかりを集めていることもあります。

心理学では、すでに持っている望ましい結論に向かって、情報を選択的に解釈しようとする傾向が研究されています。

これは、特別な人だけに起こるものではありません。

人間の認識そのものに関わる問題です。

 

「考えたから正しい」とは限らない

ここで大切なのは、

考えることを否定することではありません。

むしろ、考えることは必要です。

ただ、

「考えた結果だから正しい」

とは限らない。

ここを区別する必要があります。

たとえば、

「自分は相手のためを思って言った」

という判断も、

「相手のため」という言葉の中に、

「自分の考えを認めてほしい」

「自分が正しいと思われたい」

という気持ちが混ざっているかもしれません。

本人には、それが見えないこともあります。

だからこそ、

「自分は何を考えているのか」

だけではなく、

「なぜ、自分はそう考えたのか」

を見る必要があります。

さらに一歩進めるなら、

「自分は、何を見て、何を見落としているのか」を見る。

ここから、「認識を観る」という作業が始まります。

 

同じ選択を繰り返す理由

私たちの人生には、ときどき不思議な繰り返しがあります。

相手は変わっているのに、同じような人間関係になる。

場所を変えても、同じような不満を感じる。

仕事を変えても、同じように疲れてしまう。

「今度こそ違う選択をしよう」

と思っているのに、気がつくと似たような選択をしている。

これは、

「選択する力がない」

ということではありません。

むしろ、

選択する前の「認識の仕方」が、以前と同じなのかもしれません。

 

選択の前には、認識がある

私たちの行動を単純化すると、

入力 (誰かの言葉を聞く)

  ↓
認識 (責められたor単に意見を言われた)受け取る

  ↓
判断 (反論しようor黙っていよう)
  ↓

行動
  ↓

結果 (次の経験となり、自分の認識に影響)

  ↓
次の入力

という循環として見ることができます。

たとえば、誰かの言葉を聞く。

それが「入力」です。

その言葉を、

「責められた」

と受け取るのか、

「単に意見を言われた」

と受け取るのか。

そこには認識があります。

そして、

「反論しよう」

「黙っていよう」

「話し合おう」

と判断する。

その結果として、行動が生まれます。

そして、その結果がまた次の経験となり、自分の認識に影響していきます。

つまり人生は、

選択の連続であると同時に、認識の循環でもある。

のです。

 

「自由に選んでいる」と思っていても

ここで、もう一つ見えてくることがあります。

私たちは、

「自分で考えて、自分で選んでいる」

と思っています。

それは確かに重要な側面です。

しかし、その選択が、

過去の経験、

習慣、

恐れ、

期待、

思い込み、

自己防衛、

「こうあるべき」という価値観

などに強く影響されているとしたらどうでしょう。

選択そのものは自由に見えても、

選択するまでの認識が、いつも同じ方向に傾いている。

その場合、結果として同じような選択を繰り返すことがあります。

だから、

「どう選ぶか」

だけを見るのではなく、

「選ぶ前に、自分は何を見ているのか」を見る

ことが大切になります。

 

「選択する前にある認識」を観る...正しい選択とは?

ayaka76.png

 

 

「自分を守ること」は悪いことではない

ここで、誤解してはいけないことがあります。

自分の利益を考えることや、自分を守ろうとすることそのものが悪いわけではありません。

生き物には、自分の生命を守ろうとする働きがあります。

人間にも、危険を避け、傷つかないようにし、自分の生活を守ろうとする自然な傾向があります。

問題になるのは、

「自分を守ること」が、いつの間にか「自分だけを見ること」になってしまうときです。

自分の立場だけを見る。

自分に都合のよい情報だけを見る。

相手の事情を見ない。

短期的な利益だけを見る。

そうなると、本人は「合理的に選んでいる」と思っていても、同じ認識のパターンを繰り返してしまうことがあります。

 

だから「選択」の前に、「見ること」がある

前回、

感じる
  ↓
気づく
  ↓
観察する
  ↓
考える
  ↓
選択する

という流れを考えました。

⑨では、そこにもう一段加えてみます。

感じる
  ↓
気づく
  ↓
観察する
  ↓
考える
  ↓
「自分は何を見ているのか」を観察する
  ↓
選択する

この一段が加わることで、

「自分は正しく考えている」

という思い込みそのものも、観察の対象になります。

それは、自分を疑い続けることではありません。

自分を責めることでもありません。

ただ、

「今の自分の見方にも、何らかのフィルターがあるかもしれない」と知っておく

ことです。

そこに、認識を変えていくための小さな「間」が生まれます。

そして、その「間」こそが、

「反応する人生」から「選択する人生」へ

進むための大切な場所になるのかもしれません。

では、その「間」で、私たちは何を見ればよいのでしょうか。

それが、後編のテーマになります。

 

2026-09-27 17:40:00

asa information 9月号⑧ 「感じたこと」は、そのまま真実なのだろうか? ― 身体感覚と心のあいだにある「認識」というフィルター

asa information 9月号⑦「なんとなく調子が出ない」は、心の問題だけなのか?

では、身体を感じ、心を感じ、その両方から、秋の身体の不調に目を向け、

身体を感じる。

 ⬇

心を感じる。

 ⬇

気づく。

 ⬇

観察する。

 ⬇

考える。

 ⬇

そして、選択する。

という流れを見てきました。

身体の感覚に気づくこと。

心の変化に気づくこと。

それを無視せず、自分自身を観察してみること。

それは、自分を知るための大切な入口です。

けれど、ここで一つ、さらに深く考えてみたいことがあります。

それは、

私たちは、本当に身体や心を「ありのまま」に感じているのだろうか?

という問いです。

 

「感じる」とは、どういうことなのだろう?

たとえば、

「今日は身体が重い」

と感じたとします。

その感覚は確かに自分の中にあります。

けれど、その「重さ」は、一体何なのでしょう?

昨日あまり眠れなかったからでしょうか。

夏の疲れが残っているからでしょうか。

季節が変わったからでしょうか。

仕事へのストレスがあるからでしょうか。

それとも、これから始まる予定を考えて、気持ちが重くなっているのでしょうか。

私たちは、身体の感覚を感じると同時に、

「これは○○のせいだ」

「きっと○○だからだ」

と、その原因や意味を考え始めます。

つまり、

身体から届いた感覚と、その感覚について私たちが考えたことは、同じものではありません。

ここに、とても重要な「認識」の問題があります。

 

身体の感覚にも、脳は関わっている

私たちの身体には、心拍、呼吸、体温、消化管の状態など、さまざまな内部状態があります。

こうした身体内部からの情報を感じ取り、統合する働きは、

一般に「内受容感覚(interoception)」と呼ばれています。

近年の研究では、内受容感覚は単純に、

 「身体で起きたことが、そのまま脳に伝わり、私たちが感じる」

というだけの仕組みではないと考えられています。

身体から届く情報は、

過去の経験や現在の状況、予測などと関係しながら脳内で処理され、

主観的な身体感覚や感情経験につながっていくと考えられています。(PubMed)

つまり、

「感じる」ということ自体が、

すでに情報を受け取り、統合し、意味づけていく過程なのです。

これは、とても興味深いことではないでしょうか。

 

「身体を感じる」ことも、一つの認識

これまで「認識」という言葉は、

「物事を考えること」

「情報を理解すること」

のような意味で捉えてきました。

けれど、もっと身近なところにも「認識」はあります。

暑い。

寒い。

重い。

軽い。

苦しい。

心地いい。

落ち着かない。

安心する。

こうした身体感覚や感情も、私たちが世界や自分自身を受け取るための重要な情報です。

そして、その情報は、単純に身体から一方向に届いているだけではありません。

現在の身体の状態と、これまでの経験や予測などが関わりながら、

私たちが「今、自分はこういう状態だ」と感じる経験が形づくられていきます。(PubMed)

だから、

「身体を感じること」も、実は「自分を認識すること」の一部なのです。

ここまで来ると、9月号⑦で考えた「自分を感じる」というテーマが、少し違って見えてきます。

 

同じ身体でも、「感じ方」は変わる

たとえば、同じように心臓が速く動いていたとしても、

運動した後なら、

「身体を動かしたからだ」

と思うでしょう。

大切な人を待っているときなら、

「緊張しているのかな」

と思うかもしれません。

人前で話す直前なら、

「不安になっている」

と感じるかもしれません。

突然危険を感じたときなら、

「怖い」

と感じるかもしれません。

身体の変化そのものと、

その変化を「どう感じ、どう理解したか」

は、必ずしも同じではありません。

もちろん、これは「身体感覚は作り物だ」という意味ではありません。

身体では実際に何らかの変化が起きています。

ただ、

その変化が私たちの意識の中でどのような経験になるかには、

身体そのものだけではなく、

状況や過去の経験なども関係しています。

だからこそ、

「感じたこと」と「感じたことについての解釈」を分けてみること

が大切になります。

 

「なんとなく嫌だ」は、事実なのだろうか?

これは、人間関係でもよく起こります。

たとえば、ある人と話していると、

「なんとなく身体が緊張する」

と感じたとします。

その感覚は、自分にとって本物です。

でも、そこからすぐに、

「この人は自分を嫌っている」

「この人は信用できない」

「きっと自分に悪意がある」

と判断してしまったら、どうでしょう。

ここには、

感覚 → 解釈 → 判断

という流れがあります。

しかし、

「身体が緊張した」

ということと、

「あの人は危険な人だ」

ということは、同じではありません。

もしかすると、その人が苦手なのかもしれません。

過去に似た経験があったのかもしれません。

自分が疲れていて、いつもより緊張しやすくなっていたのかもしれません。

あるいは、本当に相手の言動に何か違和感があったのかもしれません。

この時点では、まだ決めつける必要はありません。

だからこそ、

感じたことを大切にしながら、感じたことをそのまま事実とは決めつけない。

その「間」が重要になります。

 

感覚を疑うのではなく、感覚を観察する

ここで、

「では、身体感覚や直感は信用しないほうがいいのか?」

という疑問が出てくるかもしれません。

そうではありません。

むしろ、身体感覚は、自分の状態を知るための大切な情報です。

疲れている。

緊張している。

安心している。

落ち着かない。

心地いい。

そうした感覚を無視してしまえば、自分自身の状態を知ることが難しくなります。

大切なのは、

感覚を否定することではなく、感覚と判断を分けること。

たとえば、

 「私は今、胸が少し苦しいと感じている」

ここまでは「感じていること」です。

そこから、

 「私は不安なのかもしれない」

と考える。

さらに、

 「昨日あまり眠れていないことも関係しているかもしれない」

 「仕事のことを考えているからかもしれない」

 「身体的な原因も考えられる」

と、いくつかの可能性を眺めてみる。

そして

必要な対応を選ぶ。

このように、

感じることと、

判断することの間に「観察」を置く。

それによって、

感覚に反応するだけではなく、

感覚を材料にして自分で考えられる、

ようになります。

 

「間」があると、選択できる

ここで、190で考えた

「反応する人生」から「選択する人生」へ

というテーマにつながってきます。

何かを感じる。

  ↓

すぐに反応する。

これが「反応する人生」です。

 

一方で、

何かを感じる。

 ↓

気づく。

 ↓

観察する。

 ↓

考える。

 ↓

選択する。

という流れもあります。

この違いは、ほんの少しの「間」です。

その間に、

「私は今、何を感じているのだろう?」

「なぜ、そう感じたのだろう?」

「この感覚に、どんな意味を与えているのだろう?」

「ほかの見方はないだろうか?」

と眺めてみる。

すると、

「感じたから、こうする」

ではなく、

「感じたことを知ったうえで、どうするかを選ぶ」

ことができるようになります。

 

「ありのままに感じる」とは、何なのか?

ここで、最初の問いに戻ってみます。

 私たちは、身体や心をありのままに感じているのでしょうか?

もしかすると、

完全に「ありのまま」ということは、難しいのかもしれません。

 

身体から届く情報は、神経系を通して処理されます。

       ⬇

そこには過去の経験や注意、期待、状況などが関わります。

       ⬇

そして私たちは、その感覚に言葉を与え、意味を与えます。

 

つまり、

「感じる」ということにも、すでに自分自身の認識が関わっている。

だから、

「ありのままに感じよう」と頑張ることよりも、

 「今、自分はこう感じている」と気づく

ことのほうが大切なのかもしれません。

 

「これが絶対的な真実だ」

ではなく、

「今の自分には、こう感じられている」

と捉える。

この違いは、とても大きいものです。

 

「私はこう感じている」と「これは真実だ」は違う

たとえば、

「自分は嫌われている気がする」

という感覚があったとします。

ここで、

「私は、嫌われていると感じている」

と言うのと、

「私は、嫌われている」

と言うのでは、意味が違います。

前者には、

「これは今の自分の感じ方なのだ」という

余白

があります。

後者では、

「自分の感じたこと=現実」

と、一気に結びついてしまいます。

この小さな違いが、

認識を観察できるかどうかを分ける

ことがあります。

「私は今、そう感じている」と

気づいた瞬間、

感じている自分と、

その感覚を観察している自分との間に、

ほんの少し「距離」ができます。

その距離が、

「間」

になります。

 

「感じる」ことから、「観る」ことへ

ここまで来ると、

「感じること」と「観ること」は、対立するものではないことが分かります。

感じる。

 ↓

気づく。

 ↓

観る。

「私は今、こう感じている」

と気づいたら、

「なぜだろう?」

「何が影響しているのだろう?」

「別の可能性はないだろう?」

と観察してみる。

そこで初めて、

感覚を情報として扱うこと

ができます。

感覚を無視するのでもない。

感覚に支配されるのでもない。

感覚を大切な情報として受け取りながら、その意味を慎重に観察する。

それが、

「感じる」と「考える」をつなぐこと

なのかもしれません。

 

身体も心も、「自分を知るための情報」

9月号⑦では、

「自分を感じる」

ことを考えました。

9月号⑧では、そこからもう一歩進んで、

「感じたものを、どう観るのか」

を考えています。

身体は、自分について多くの情報を届けてくれます。

心も、さまざまな感情を伝えてくれます。

けれど、それらをすぐに「真実」と決めつける必要はありません。

疲れた。

嫌だ。

怖い。

嬉しい。

安心する。

苦しい。

心地いい。

その一つひとつを、

「今の自分には、そう感じられている」

と受け取ってみる。

そして、

少し観察してみる。

すると、

「自分は何を感じているのか」

だけではなく、

「自分は、その感覚をどう解釈しているのか」

まで見えてきます。

ここに、認識を観るということの入り口があります。

 

「自分を観る」ということ

これまで「真実を観る眼力」では、

世界をどう見るのか。

人はなぜ思い込みにとらわれるのか。

なぜ同じ現実を見ても、人によって受け取り方が違うのか。

そして、自分とは何なのか。

そんな問いを重ねてきました。

けれど、世界を観るときだけではありません。

自分自身を感じるときにも、認識というフィルターが働いている。

そう考えてみると、

「自分を知る」

ということも、簡単ではないことが分かります。

身体を感じる。

心を感じる。

その感覚に気づく。

そして、

「私は今、何を感じているのだろう?」

と観る。

さらに、

「私は、この感覚をどう意味づけているのだろう?」

と観る。

ここまで来ると、観察の対象は「身体」や「心」だけではありません。

「身体や心を感じている自分自身」

まで、観察の対象になってきます。

 

「身体や心を感じている自分自身」を観察する

ayaka71.png

 

 

そして、「選ぶ」ことへ

感じることは、大切です。

でも、感じたことだけで人生を決める必要はありません。

考えることも、大切です。

でも、考えたことだけで身体や心を無視する必要もありません。

感じる。

気づく。

観察する。

考える。

選ぶ。

この順番には、

身体と心を尊重しながら、それに支配されない

という意味があります。

「怖いから、やめる」

「嫌だから、逃げる」

「みんながそう言うから、そうする」

という反応だけではなく、

「怖さを感じている」

「嫌だと感じている」

「周囲の意見に影響されている」と

気づいたうえで、

「それでも、自分はどうするのか?」を

選ぶ。

そこに、自分の人生を自分で生きるということが始まるのかもしれません。

 

感じたことを、大切にする

「感じたことは、そのまま真実なのだろうか?」

この問いに、簡単な答えはありません。

身体感覚には身体からの情報があります。

そこには心の状態も関わります。

そして、その情報を私たちは脳の働きを通して受け取り、過去の経験や現在の状況などとともに意味づけています。(PubMed)

だから、

感じたことを疑いすぎる必要もない。

けれど、

感じたことを絶対視する必要もない。

その間に立つ。

「私は今、こう感じている」

と気づく。

そして、

「これは何なのだろう?」

と観察する。

必要なら、

考え直す。

そして、自分にとって必要な

選択をする。

その一つひとつの積み重ねが、

「反応する自分」から「観察して選択する自分」へ

移っていくための小さな一歩になるのかもしれません。

 

ayaka69.png

 

 

「真実を観る」とは、自分の感じ方さえ観ること

私たちは、外の世界を「正しく見たい」と思います。

事実を知りたい。

本当のことを知りたい。

相手の本心を知りたい。

けれど、そのためには、

「自分は今、何を感じ、何を見て、何を意味づけているのか」

にも目を向ける必要があります。

外の世界だけではありません。

自分の身体も。

自分の心も。

自分の感情も。

そして、

「自分はこう感じている」と思っている、

その認識さえも、

一度、静かに観てみる。

そこには、

「感じる自分」と、

「その感じ方を観察する自分」

がいます。

その二つの間に生まれる、

ほんの小さな余白。

その「間」に立つことができたとき、

私たちは初めて、

感じたことにただ反応するのではなく、

感じたことを理解し、

自分で選ぶ

ことができるのかもしれません。

そして、そのときから、

「自分を感じる」ことは、

「自分を観る」ことへ。

「自分を観る」ことは、

「自分で選ぶ」ことへ。

少しずつつながっていきます。

 

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 ...