asa insight
asa information 9月号⑧ 「感じたこと」は、そのまま真実なのだろうか? ― 身体感覚と心のあいだにある「認識」というフィルター
asa information 9月号⑦「なんとなく調子が出ない」は、心の問題だけなのか?
では、身体を感じ、心を感じ、その両方から、秋の身体の不調に目を向け、
身体を感じる。
⬇
心を感じる。
⬇
気づく。
⬇
観察する。
⬇
考える。
⬇
そして、選択する。
という流れを見てきました。
身体の感覚に気づくこと。
心の変化に気づくこと。
それを無視せず、自分自身を観察してみること。
それは、自分を知るための大切な入口です。
けれど、ここで一つ、さらに深く考えてみたいことがあります。
それは、
私たちは、本当に身体や心を「ありのまま」に感じているのだろうか?
という問いです。
「感じる」とは、どういうことなのだろう?
たとえば、
「今日は身体が重い」
と感じたとします。
その感覚は確かに自分の中にあります。
けれど、その「重さ」は、一体何なのでしょう?
昨日あまり眠れなかったからでしょうか。
夏の疲れが残っているからでしょうか。
季節が変わったからでしょうか。
仕事へのストレスがあるからでしょうか。
それとも、これから始まる予定を考えて、気持ちが重くなっているのでしょうか。
私たちは、身体の感覚を感じると同時に、
「これは○○のせいだ」
「きっと○○だからだ」
と、その原因や意味を考え始めます。
つまり、
身体から届いた感覚と、その感覚について私たちが考えたことは、同じものではありません。
ここに、とても重要な「認識」の問題があります。
身体の感覚にも、脳は関わっている
私たちの身体には、心拍、呼吸、体温、消化管の状態など、さまざまな内部状態があります。
こうした身体内部からの情報を感じ取り、統合する働きは、
一般に「内受容感覚(interoception)」と呼ばれています。
近年の研究では、内受容感覚は単純に、
「身体で起きたことが、そのまま脳に伝わり、私たちが感じる」
というだけの仕組みではないと考えられています。
身体から届く情報は、
過去の経験や現在の状況、予測などと関係しながら脳内で処理され、
主観的な身体感覚や感情経験につながっていくと考えられています。(PubMed)
つまり、
「感じる」ということ自体が、
すでに情報を受け取り、統合し、意味づけていく過程なのです。
これは、とても興味深いことではないでしょうか。
「身体を感じる」ことも、一つの認識
これまで「認識」という言葉は、
「物事を考えること」
「情報を理解すること」
のような意味で捉えてきました。
けれど、もっと身近なところにも「認識」はあります。
暑い。
寒い。
重い。
軽い。
苦しい。
心地いい。
落ち着かない。
安心する。
こうした身体感覚や感情も、私たちが世界や自分自身を受け取るための重要な情報です。
そして、その情報は、単純に身体から一方向に届いているだけではありません。
現在の身体の状態と、これまでの経験や予測などが関わりながら、
私たちが「今、自分はこういう状態だ」と感じる経験が形づくられていきます。(PubMed)
だから、
「身体を感じること」も、実は「自分を認識すること」の一部なのです。
ここまで来ると、9月号⑦で考えた「自分を感じる」というテーマが、少し違って見えてきます。
同じ身体でも、「感じ方」は変わる
たとえば、同じように心臓が速く動いていたとしても、
運動した後なら、
「身体を動かしたからだ」
と思うでしょう。
大切な人を待っているときなら、
「緊張しているのかな」
と思うかもしれません。
人前で話す直前なら、
「不安になっている」
と感じるかもしれません。
突然危険を感じたときなら、
「怖い」
と感じるかもしれません。
身体の変化そのものと、
その変化を「どう感じ、どう理解したか」
は、必ずしも同じではありません。
もちろん、これは「身体感覚は作り物だ」という意味ではありません。
身体では実際に何らかの変化が起きています。
ただ、
その変化が私たちの意識の中でどのような経験になるかには、
身体そのものだけではなく、
状況や過去の経験なども関係しています。
だからこそ、
「感じたこと」と「感じたことについての解釈」を分けてみること
が大切になります。
「なんとなく嫌だ」は、事実なのだろうか?
これは、人間関係でもよく起こります。
たとえば、ある人と話していると、
「なんとなく身体が緊張する」
と感じたとします。
その感覚は、自分にとって本物です。
でも、そこからすぐに、
「この人は自分を嫌っている」
「この人は信用できない」
「きっと自分に悪意がある」
と判断してしまったら、どうでしょう。
ここには、
感覚 → 解釈 → 判断
という流れがあります。
しかし、
「身体が緊張した」
ということと、
「あの人は危険な人だ」
ということは、同じではありません。
もしかすると、その人が苦手なのかもしれません。
過去に似た経験があったのかもしれません。
自分が疲れていて、いつもより緊張しやすくなっていたのかもしれません。
あるいは、本当に相手の言動に何か違和感があったのかもしれません。
この時点では、まだ決めつける必要はありません。
だからこそ、
感じたことを大切にしながら、感じたことをそのまま事実とは決めつけない。
その「間」が重要になります。
感覚を疑うのではなく、感覚を観察する
ここで、
「では、身体感覚や直感は信用しないほうがいいのか?」
という疑問が出てくるかもしれません。
そうではありません。
むしろ、身体感覚は、自分の状態を知るための大切な情報です。
疲れている。
緊張している。
安心している。
落ち着かない。
心地いい。
そうした感覚を無視してしまえば、自分自身の状態を知ることが難しくなります。
大切なのは、
感覚を否定することではなく、感覚と判断を分けること。
たとえば、
「私は今、胸が少し苦しいと感じている」
ここまでは「感じていること」です。
そこから、
「私は不安なのかもしれない」
と考える。
さらに、
「昨日あまり眠れていないことも関係しているかもしれない」
「仕事のことを考えているからかもしれない」
「身体的な原因も考えられる」
と、いくつかの可能性を眺めてみる。
そして
必要な対応を選ぶ。
このように、
感じることと、
判断することの間に「観察」を置く。
それによって、
感覚に反応するだけではなく、
感覚を材料にして自分で考えられる、
ようになります。
「間」があると、選択できる
ここで、190で考えた
「反応する人生」から「選択する人生」へ
というテーマにつながってきます。
何かを感じる。
↓
すぐに反応する。
これが「反応する人生」です。
一方で、
何かを感じる。
↓
気づく。
↓
観察する。
↓
考える。
↓
選択する。
という流れもあります。
この違いは、ほんの少しの「間」です。
その間に、
「私は今、何を感じているのだろう?」
「なぜ、そう感じたのだろう?」
「この感覚に、どんな意味を与えているのだろう?」
「ほかの見方はないだろうか?」
と眺めてみる。
すると、
「感じたから、こうする」
ではなく、
「感じたことを知ったうえで、どうするかを選ぶ」
ことができるようになります。
「ありのままに感じる」とは、何なのか?
ここで、最初の問いに戻ってみます。
私たちは、身体や心をありのままに感じているのでしょうか?
もしかすると、
完全に「ありのまま」ということは、難しいのかもしれません。
身体から届く情報は、神経系を通して処理されます。
⬇
そこには過去の経験や注意、期待、状況などが関わります。
⬇
そして私たちは、その感覚に言葉を与え、意味を与えます。
つまり、
「感じる」ということにも、すでに自分自身の認識が関わっている。
だから、
「ありのままに感じよう」と頑張ることよりも、
「今、自分はこう感じている」と気づく
ことのほうが大切なのかもしれません。
「これが絶対的な真実だ」
ではなく、
「今の自分には、こう感じられている」
と捉える。
この違いは、とても大きいものです。
「私はこう感じている」と「これは真実だ」は違う
たとえば、
「自分は嫌われている気がする」
という感覚があったとします。
ここで、
「私は、嫌われていると感じている」
と言うのと、
「私は、嫌われている」
と言うのでは、意味が違います。
前者には、
「これは今の自分の感じ方なのだ」という
余白
があります。
後者では、
「自分の感じたこと=現実」
と、一気に結びついてしまいます。
この小さな違いが、
認識を観察できるかどうかを分ける
ことがあります。
「私は今、そう感じている」と
気づいた瞬間、
感じている自分と、
その感覚を観察している自分との間に、
ほんの少し「距離」ができます。
その距離が、
「間」
になります。
「感じる」ことから、「観る」ことへ
ここまで来ると、
「感じること」と「観ること」は、対立するものではないことが分かります。
感じる。
↓
気づく。
↓
観る。
「私は今、こう感じている」
と気づいたら、
「なぜだろう?」
「何が影響しているのだろう?」
「別の可能性はないだろう?」
と観察してみる。
そこで初めて、
感覚を情報として扱うこと
ができます。
感覚を無視するのでもない。
感覚に支配されるのでもない。
感覚を大切な情報として受け取りながら、その意味を慎重に観察する。
それが、
「感じる」と「考える」をつなぐこと
なのかもしれません。
身体も心も、「自分を知るための情報」
9月号⑦では、
「自分を感じる」
ことを考えました。
9月号⑧では、そこからもう一歩進んで、
「感じたものを、どう観るのか」
を考えています。
身体は、自分について多くの情報を届けてくれます。
心も、さまざまな感情を伝えてくれます。
けれど、それらをすぐに「真実」と決めつける必要はありません。
疲れた。
嫌だ。
怖い。
嬉しい。
安心する。
苦しい。
心地いい。
その一つひとつを、
「今の自分には、そう感じられている」
と受け取ってみる。
そして、
少し観察してみる。
すると、
「自分は何を感じているのか」
だけではなく、
「自分は、その感覚をどう解釈しているのか」
まで見えてきます。
ここに、認識を観るということの入り口があります。
「自分を観る」ということ
これまで「真実を観る眼力」では、
世界をどう見るのか。
人はなぜ思い込みにとらわれるのか。
なぜ同じ現実を見ても、人によって受け取り方が違うのか。
そして、自分とは何なのか。
そんな問いを重ねてきました。
けれど、世界を観るときだけではありません。
自分自身を感じるときにも、認識というフィルターが働いている。
そう考えてみると、
「自分を知る」
ということも、簡単ではないことが分かります。
身体を感じる。
心を感じる。
その感覚に気づく。
そして、
「私は今、何を感じているのだろう?」
と観る。
さらに、
「私は、この感覚をどう意味づけているのだろう?」
と観る。
ここまで来ると、観察の対象は「身体」や「心」だけではありません。
「身体や心を感じている自分自身」
まで、観察の対象になってきます。
「身体や心を感じている自分自身」を観察する
そして、「選ぶ」ことへ
感じることは、大切です。
でも、感じたことだけで人生を決める必要はありません。
考えることも、大切です。
でも、考えたことだけで身体や心を無視する必要もありません。
感じる。
気づく。
観察する。
考える。
選ぶ。
この順番には、
身体と心を尊重しながら、それに支配されない
という意味があります。
「怖いから、やめる」
「嫌だから、逃げる」
「みんながそう言うから、そうする」
という反応だけではなく、
「怖さを感じている」
「嫌だと感じている」
「周囲の意見に影響されている」と
気づいたうえで、
「それでも、自分はどうするのか?」を
選ぶ。
そこに、自分の人生を自分で生きるということが始まるのかもしれません。
感じたことを、大切にする
「感じたことは、そのまま真実なのだろうか?」
この問いに、簡単な答えはありません。
身体感覚には身体からの情報があります。
そこには心の状態も関わります。
そして、その情報を私たちは脳の働きを通して受け取り、過去の経験や現在の状況などとともに意味づけています。(PubMed)
だから、
感じたことを疑いすぎる必要もない。
けれど、
感じたことを絶対視する必要もない。
その間に立つ。
「私は今、こう感じている」
と気づく。
そして、
「これは何なのだろう?」
と観察する。
必要なら、
考え直す。
そして、自分にとって必要な
選択をする。
その一つひとつの積み重ねが、
「反応する自分」から「観察して選択する自分」へ
移っていくための小さな一歩になるのかもしれません。
「真実を観る」とは、自分の感じ方さえ観ること
私たちは、外の世界を「正しく見たい」と思います。
事実を知りたい。
本当のことを知りたい。
相手の本心を知りたい。
けれど、そのためには、
「自分は今、何を感じ、何を見て、何を意味づけているのか」
にも目を向ける必要があります。
外の世界だけではありません。
自分の身体も。
自分の心も。
自分の感情も。
そして、
「自分はこう感じている」と思っている、
その認識さえも、
一度、静かに観てみる。
そこには、
「感じる自分」と、
「その感じ方を観察する自分」
がいます。
その二つの間に生まれる、
ほんの小さな余白。
その「間」に立つことができたとき、
私たちは初めて、
感じたことにただ反応するのではなく、
感じたことを理解し、
自分で選ぶ
ことができるのかもしれません。
そして、そのときから、
「自分を感じる」ことは、
「自分を観る」ことへ。
「自分を観る」ことは、
「自分で選ぶ」ことへ。
少しずつつながっていきます。
asa information 9月号⑦ 「なんとなく調子が出ない」は、心の問題だけなのか? ― 秋の身体から見えてくる「自分を感じる」ということ ―
はじめに
秋になると、少しずつ暑さが和らぎ、過ごしやすくなってきます。
それなのに、
「なんとなく身体が重い」
「朝からすっきりしない」
「よく眠れない」
「食欲がいつもと違う」
「気分が落ち着かない」
「何をするにも少し面倒に感じる」
そんなことはないでしょうか。
病気というほどではない。
けれど、いつもの自分とも少し違う。
こうした「なんとなく調子が出ない」という感覚は、つい「気持ちの問題」と考えてしまいがちです。
けれど、本当にそうなのでしょうか。
身体は、季節の変化を感じている
私たちの身体は、一年中まったく同じ状態で動いているわけではありません。
気温、湿度、日照時間、睡眠、食事、活動量。
周囲の環境が変われば、身体の働きも少しずつ変化します。
夏の暑さが長く続いたあとに気温が下がると、身体はその変化に適応しようとします。
睡眠や食欲、体温調節、自律神経の働きなどにも影響が出ることがあります。
だから、
「どうしてこんなに疲れているんだろう」
と思ったとき、
すぐに「自分が弱いから」「気持ちがだらけているから」と決めつける必要はありません。
身体は、環境の変化を受け取りながら、そのときの状態に適応しようとしているからです。
「心」と「身体」は、別々ではない
私たちは普段、
「身体の問題」と「心の問題」を分けて考えます。
身体が疲れていれば身体の問題。
気分が落ち込んでいれば心の問題。
けれど、実際の生活では、そんなにはっきり分けることはできません。
睡眠が足りなければ、気持ちも不安定になりやすい。
疲れていれば、普段なら気にならないことが気になってしまう。
身体が冷えていれば、活動する気力が出にくくなることもある。
反対に、心配事が続けば眠りにくくなり、身体の疲労として感じられることもあります。
つまり、
心と身体は、互いに影響し合いながら、一つの生活をつくっています。
このような心と身体のつながりを表す考え方の一つに、
東洋思想の「身心相関(しんしんそうかん)」があります。
文字どおり、
「身」と「心」は、互いに関係し合っている
という考え方です。
身体の状態が心に影響し、心の状態もまた身体に影響する。
どちらか一方だけを見るのではなく、身体と心を一つのつながりとして捉える。
これは、現代の生活を考えるうえでも、とても身近な感覚ではないでしょうか。
たとえば、心配事があると眠れない。
眠れない日が続けば、身体が重くなる。
身体が疲れてくれば、些細なことにもイライラしやすくなる。
その状態でさらにストレスを受ければ、また心が疲れていく。
このように、
心と身体は、互いに影響を与えながら循環しています。
だから「なんとなく調子が出ない」ときも、
「これは身体の問題なのか?」
「それとも心の問題なのか?」
と、どちらか一方に決めつけなくてもいいのかもしれません。
身体は、言葉になる前の変化を感じている
私たちは、疲れや不安をいつも言葉で自覚しているわけではありません。
緊張すると肩に力が入る。
不安になると呼吸が浅くなる。
安心すると、ふっと身体の力が抜ける。
心配事が続くと眠りが浅くなる。
反対に、よく眠れた朝には身体が軽く感じられる。
こうした身体の変化は、私たちが「疲れています」「緊張しています」と言葉にするより先に現れることがあります。
だからこそ、身体の感覚は、自分の状態を知るための手がかりになります。
たとえば、
「今日は少し眠い」
「人に会うより、静かに過ごしたい」
「温かいものが飲みたい」
「早く家に帰りたい」
「少し横になりたい」
そんな小さな感覚です。
もちろん、こうした感覚がいつも正しい判断を示しているわけではありません。
思い込みや過去の経験、その日の気分が影響することもあります。
だから、
感じたことを、そのまま事実だと決めつける必要はありません。
まずは、
「今、自分はそう感じている」
と気づいてみる。
それだけでも、自分自身の状態を少し客観的に見ることができます。
「自分を感じる」ということ
忙しい毎日を送っていると、私たちは頭の中で物事を考えることに意識が向きがちです。
「今日はこれをしなければ」
「明日はどうしよう」
「相手はどう思っているだろう」
「もっと頑張らなければ」
そんなことを考えているうちに、
「自分の身体は今、どう感じているのだろう」
という感覚を置き去りにしてしまうことがあります。
本当は疲れているのに頑張り続ける。
眠いのにスマートフォンを見続ける。
静かに休みたいのに予定を詰め込む。
身体が冷えているのに我慢する。
そうした小さな無理が積み重なると、身体からのサインが大きくなっていくことがあります。
だから、ときどき立ち止まってみる。
朝、目が覚めたとき、
「今日は身体が軽いだろうか?」
温かい飲み物を飲んだとき、
「身体がほっとしているだろうか?」
外へ出たとき、
「今日の空気を身体はどう感じているだろう?」
山や公園を歩いたとき、
「呼吸はどうなっているだろう?」
そんなふうに、身体に意識を向けてみる。
答えを出す必要はありません。
ただ感じてみる。
それだけでも、自分とのつながりを取り戻す時間になります。
「秋の空気を、身体いっぱいに感じる」....恵那の森
「自分を大切にする」とは
「自分を大切にする」というと、
好きなことをする。
嫌なことをしない。
ゆっくり休む。
そんなことを思い浮かべるかもしれません。
もちろん、それも大切です。
けれど、そのもっと手前にあるのは、
「今、自分はどんな状態なのか」に気づくこと
なのではないでしょうか。
今日は疲れている。
少し眠れていない。
思っていたより緊張している。
身体が冷えている。
食欲が落ちている。
心が落ち着かない。
まず、その状態に気づく。
そして、
少し早く眠る。
温かいものを食べる。
ゆっくりお風呂に入る。
外の空気を吸う。
自然の中を歩く。
何もしない時間をつくる。
必要なら予定を少し減らす。
そんな小さな選択をする。
自分を大切にすることは、自分の状態を無視しないことでもあるのです。
秋は、内側に目を向ける季節
夏は、外へ向かう季節です。
暑い日差しの中で活動し、人と会い、出かけ、身体を動かす。
一方、秋になると、少しずつ空気が変わります。
日が短くなり、朝夕の気温も下がっていきます。
自然の変化に合わせるように、私たちの生活にも静かな変化が訪れます。
温かいものが恋しくなる。
少し長く眠りたくなる。
静かな場所で過ごしたくなる。
夕暮れをゆっくり眺めたくなる。
自然の中を歩きたくなる。
そんな変化もまた、季節とともに身体や心が変化している一つの表れなのかもしれません。
秋は、外の世界だけではなく、
自分の内側にある小さな変化にも目を向ける季節
なのかもしれません。
「感じる」ことと「決めつける」ことは違う
ここで大切なのは、
「身体がそう感じているから、それが自分の本当の答えだ」
と考えることではありません。
身体の感覚も、心の感情も、私たちに届く情報の一つです。
だから、
感じる。
気づく。
少し離れて観る。
そして考える。
そのうえで、
自分にとって必要なことを選んでいく。
この順番が大切なのかもしれません。
「なんとなく嫌だ」と感じたからといって、すぐに相手を否定する必要はない。
「疲れた」と感じたからといって、すべてを投げ出す必要もない。
まず、
「私は今、そう感じている」
と気づく。
その感覚を否定も肯定もせず、
一度、そのまま観てみる。
そこから、
「では、今の自分には何が必要なのだろう?」
と考えてみる。
それは、「感じること」と「考えること」を対立させないための一つの方法でもあります。
「自分を感じる」ことから、人生の選択が始まる
ここまで「真実を観る眼力」では、
「自分とは何なのか」
「なぜ人は反応してしまうのか」
「自分を大切にするとは何なのか」
「疲れると認識そのものが変わる」
「いい人を演じること」
「何もしない時間」
「本当に欲しいもの」
そして、
「幸せとは何なのか」
ということを見てきました。
一見すると、それぞれ違うテーマのように見えます。
けれど、振り返ってみると、その根底には、
「自分を知る」
という共通したテーマがあります。
そして、自分を知るためには、頭で自分について考えるだけでは足りないのかもしれません。
身体がどう感じているのか。
心が何を感じているのか。
何に疲れ、何に安心し、何に心が動くのか。
そうした小さな変化にも目を向ける。
そこには、自分でもまだ言葉にできていない「自分」がいるかもしれません。
そして、
自分を感じることは、自分を知ることにつながっていく。
自分を知ることができれば、
「本当はどうしたいのか」
「何を大切にしたいのか」
「どんな選択をしたいのか」
ということも、少しずつ見えてくるのかもしれません。
秋の身体から、自分を観る
「なんとなく調子が出ない」。
その感覚は、単なる気分の問題ではないかもしれません。
季節の変化。
睡眠。
食事。
疲労。
ストレス。
生活リズム。
そして、心の状態。
さまざまなものが重なり合って、今の自分の状態をつくっています。
東洋思想の「身心相関」が示すように、心と身体は切り離されたものではなく、互いに影響し合っています。
だからこそ、
「どうして自分はこうなんだろう」
と責める前に、
「今の自分は、どんな状態なんだろう?」
と観てみる。
身体を感じる。
心を感じる。
そして、それを
少し離れたところから眺めてみる。
それは、自分を甘やかすことではありません。
自分を正しく知るための、小さな観察です。
秋の静かな時間。
いつもより少しだけ、
自分の身体に意識を向けてみる。
そこから届いてくる小さな感覚を、
すぐに判断せず、
ただ観てみる。
そして、
「今の自分には何が必要なのだろう?」
と問いかけてみる。
自分を感じること。
それは、
自分を知ること。
そして、
自分の人生を自分で選んでいくこと。
そのための、静かな第一歩なのかもしれません。
真実を観る眼力 196 幸せは、誰が決めたのか? ― 「幸せそうに見える人生」から、「自分が幸せを感じる人生」へ ―
はじめに
「幸せになりたい」
誰もが一度は、そう思ったことがあるのではないでしょうか。
では、幸せとは何でしょう。
お金があること。
仕事が成功すること。
素敵な家に住むこと。
好きなものをたくさん買えること。
結婚すること。
家族がいること。
美しくなること。
健康であること。
多くの人から認められること。
SNSで「いいね」をたくさんもらうこと。
私たちは、いつの間にか、
「こういう人生なら幸せ」
というイメージを持っています。
けれど、その「幸せ」は、
本当に自分自身が決めたものなのでしょうか。
誰かが作った基準ではないでしょうか。
社会が示した理想。
周囲の人が考える幸せ。
広告が見せる豊かな生活。
SNSに流れてくる華やかな日常。
そうしたものを見ながら、
「私も、こうならなければ幸せではない」
と思っているとしたら。
一度、立ち止まって考えてみる必要があります。
幸せは、いったい誰が決めたのでしょうか。
第一章 「幸せな人生」には、決まった形があるのだろうか
私たちは、いつの間にか、
「幸せな人生には、ある程度決まった形がある」
と思っていることがあります。
良い学校に入る。
良い仕事に就く。
収入を増やす。
結婚する。
家を持つ。
子どもを育てる。
老後に備える。
そして、穏やかに暮らす。
もちろん、こうした人生を望む人もいます。
その選択が、その人にとって幸せなら、それは大切な人生です。
しかし、
すべての人に同じ形の幸せが必要なのでしょうか。
一人で暮らすことが心地よい人もいる。
仕事を中心に生きたい人もいる。
自然の中で静かに暮らしたい人もいる。
家族との時間を何より大切にしたい人もいる。
新しいことに挑戦し続けたい人もいる。
あえて物を増やさず、身軽に暮らしたい人もいる。
幸せには、一つの正解があるわけではありません。
それなのに私たちは、
「普通はこうするもの」
という基準を、自分の幸せの基準にしてしまうことがあります。
第二章 「人から見て幸せ」と「自分が幸せ」は違う
たとえば、
周囲から見れば、とても充実している人がいるとします。
仕事も順調。
素敵な家に住み、
休日には旅行へ行き、
SNSには楽しそうな写真が並んでいる。
誰が見ても、
「幸せそう」
と思うかもしれません。
でも、その人自身が、
「本当に今の生活が好きなのか」
は、外からは分かりません。
反対に、
毎日同じような生活をしている人が、
「今日は気持ちのいい朝だった」
「このお茶がおいしい」
「家族と笑えた」
と感じているなら、
その人の中には確かな幸福があるかもしれません。
つまり、
幸せは、外から見えるものだけでは測れない
のです。
「幸せそうに見えること」と、
「幸せを感じていること」は、
同じではありません。
第三章 SNSは「幸せの基準」まで見せてくる
SNSを見ていると、
美しい部屋。
おしゃれな服。
高級なレストラン。
旅行。
美容。
趣味。
家族との時間。
仕事での成功。
さまざまな「幸せそうな場面」が目に入ります。
それを見て、
「素敵だな」
と思うこと自体は悪いことではありません。
問題は、
それを繰り返し見ているうちに、
「これが幸せなのだ」
という基準まで、自分の中に入ってくることです。
そして、
「自分には足りない」
「もっと頑張らなければ」
「もっと素敵にならなければ」
と思うようになる。
すると、
本当は今の生活の中にある幸せを感じているのに、
「まだ足りないもの」ばかりを見るようになることがあります。
幸せを探しているはずなのに、
いつの間にか、
「幸せに見える人生」を追いかけている
のです。
第四章 「もっと」が幸せを遠ざけることがある
もっとお金があれば。
もっと時間があれば。
もっと若ければ。
もっと美しければ。
もっと評価されれば。
もっと良いものを持っていれば。
もっと自由になれば。
「もっと」という言葉には、
未来への希望があります。
だから、「もっと」を目指すこと自体が悪いわけではありません。
けれど、
「もっと手に入らなければ、今は幸せではない」
となると、
幸せはいつも未来に置かれてしまいます。
一つ手に入れば、次が欲しくなる。
目標を達成すれば、新しい目標が生まれる。
それは成長でもあります。
しかし同時に、
「今ここにあるもの」を味わうことを忘れてしまうことがあります。
幸せは、
未来にある「完成した自分」にしか存在しないのでしょうか。
第五章 幸せは「持っているもの」だけでは決まらない
同じ景色を見ても、
ある人は「何もない」と感じ、
別の人は「静かで気持ちがいい」と感じる。
同じ一杯のお茶でも、
急いで飲めば、ただの飲み物。
ゆっくり味わえば、
「今日はおいしいな」
という小さな喜びになる。
同じ休日でも、
「何も予定がない。つまらない」
と感じる人もいれば、
「今日はゆっくりできる」
と感じる人もいる。
もちろん、幸福感には生活環境や経済状況、人間関係、健康など、さまざまな要素が関係しています。
だから、
「考え方を変えれば、どんな状況でも幸せになれる」
という単純な話ではありません。
それでも、
「同じ現実をどのように受け取るかによって、感じ方が変わる」
という側面はあります。
ここにも、
「認識」
が関係しています。
第六章 「幸せにならなければ」という不思議な矛盾
現代では、
「幸せになろう」
というメッセージを、いたるところで目にします。
もっと自分を大切に。
もっと楽しく。
もっと自由に。
もっと自分らしく。
一見、とても素敵な言葉です。
けれど、
「幸せにならなければ」
と頑張り始めると、
少し不思議なことが起こります。
今の自分を、
「まだ幸せではない自分」
として見てしまうのです。
「もっと幸せにならなければ」
という焦り。
「周りの人は幸せそうなのに、自分は……」
という比較。
「私は何が足りないのだろう」
という不足感。
こうして、
幸せを求めることそのものが、自分を不幸に感じさせる
ことさえあります。
第七章 「幸せ」を感じる力
では、幸せとは、
何かを手に入れた結果だけなのでしょうか。
たとえば、
朝、カーテンを開けたときに差し込む光。
お気に入りの音楽。
温かい飲み物。
心地よい風。
季節の変化。
誰かとの何気ない会話。
仕事を終えたときの安堵。
一人で静かに過ごす時間。
山や海を眺めたときの感覚。
こうしたものは、
大きな成功ではありません。
でも、
「心地いい」
「ありがたい」
「うれしい」
と感じる瞬間があります。
幸せは、
人生の大きな出来事だけに存在するのではなく、
こうした小さな経験の中にもあります。
だから、
「幸せを手に入れる」
だけでなく、
「幸せを感じ取る」
という視点も大切になります。
第八章 「自分にとっての幸せ」を知る
ここで、一つ問いかけてみます。
「誰にも見せなくていいとしたら、私はどんな生活をしたいだろう?」
SNSに載せなくてもいい。
誰かに褒めてもらわなくてもいい。
「すごい」と言われなくてもいい。
誰かと比較しなくてもいい。
そんな条件だったら、
何をしたいでしょうか。
どこで暮らしたいでしょうか。
誰と過ごしたいでしょうか。
どんな時間を大切にしたいでしょうか。
逆に、
何を減らしたいでしょうか。
何から離れたいでしょうか。
この問いには、
「本当の幸せ」を一つの答えとして見つけるというより、
自分が何を大切にしているのかを知る
という意味があります。
第九章 「幸せ」は、人によって違っていい
ある人にとっての幸せが、
別の人にとっての幸せとは限りません。
たくさんの人と一緒にいることが好きな人もいれば、
一人の時間を大切にする人もいる。
都会の刺激を楽しむ人もいれば、
静かな自然の中で暮らしたい人もいる。
仕事に生きがいを感じる人もいれば、
仕事と私生活をはっきり分けたい人もいる。
たくさんのものを持つことに喜びを感じる人もいれば、
必要なものだけで身軽に暮らしたい人もいる。
どちらが正しいということではありません。
大切なのは、
「自分にとってはどうなのか」
を知ることです。
他人の幸せを否定する必要もありません。
ただ、
他人の幸せを、そのまま自分の幸せにしなくてもいい。
それだけです。
第十章 幸せは「選ぶもの」でもある
190では、
「反応する人生」から「選択する人生」へ
というテーマを考えました。
196にも、その流れがあります。
誰かが決めた幸せ。
社会が示した幸せ。
広告が作った幸せ。
SNSで見た幸せ。
それらをそのまま受け取るのではなく、
一度立ち止まって、
「これは、本当に私が望んでいるものだろうか?」
と観てみる。
そして、
「私は、どんなときに心から心地よいと感じるのだろう?」
と自分に問いかける。
その答えをもとに、
生活を一つ選び直す。
時間の使い方を一つ変える。
人間関係との距離を考える。
何かを増やすのではなく、何かを減らす。
そうした小さな選択の積み重ねが、
「自分にとっての幸せ」
を形づくっていきます。
第十一章 幸せは「足し算」だけではない
幸せになるために、
何かを足さなければならない。
そう考えがちです。
もっと収入を増やす。
もっと経験を増やす。
もっと物を買う。
もっと人間関係を広げる。
もっと知識を身につける。
でも、ときには、
「足すのではなく、減らすこと」
が必要な場合もあります。
無理な予定を減らす。
必要のない比較を減らす。
人からどう見られるかを気にする時間を減らす。
本当は望んでいない付き合いを少し減らす。
情報を減らす。
「こうしなければ」という思い込みを減らす。
すると、
今まで見えなかったものが見えてくることがあります。
静かな時間。
身体の感覚。
身近な人との会話。
季節の変化。
何気ない日常。
そして、
すでに持っていたものの価値。
最終章 幸せは、誰が決めたのか?
「幸せになりたい」
という願いは、
とても自然なものです。
でも、その前に、
一つだけ問いかけてみたい。
「その幸せは、誰が決めたのだろう?」
社会でしょうか。
家族でしょうか。
友人でしょうか。
広告でしょうか。
SNSでしょうか。
過去の自分でしょうか。
それとも、
本当に自分自身でしょうか。
もちろん、私たちの幸せは、
自分だけで完全に自由に決められるものではありません。
生活環境もあります。
経済的な条件もあります。
健康や人間関係もあります。
社会の影響もあります。
だからこそ、
「幸せは全部、自分の心次第」
と単純化する必要はありません。
それでも、
自分が何を幸せと感じるのかを見つめ直すことはできます。
誰かの幸せを見て、
「私もこうならなければ」
と思ったとき。
高価なものを見て、
「これを手に入れれば幸せになれる」
と思ったとき。
SNSを見て、
「みんなは幸せなのに、自分は足りない」
と思ったとき。
少しだけ立ち止まる。
そして、
「私は、本当は何を求めているのだろう?」
と、自分に問いかけてみる。
もしかすると、
欲しかったのは物ではなく、
安心だったのかもしれません。
成功ではなく、
自由だったのかもしれません。
誰かからの評価ではなく、
自分自身への信頼だったのかもしれません。
たくさんの人に囲まれることではなく、
安心していられる一人の時間だったのかもしれません。
そして、
「もっと幸せにならなければ」と思っていたけれど、
実は、
すでに日常の中に小さな幸せが存在していた
ことに気づくかもしれません。
「幸せ」を探すのではなく、「幸せ」を観る
189から続いてきた流れを振り返ると、
189では、「自分とは何なのか」を問い、
190では、「反応する人生」から「選択する人生」へ。
191では、「自分を大切にする」ことを考え、
192では、疲れによって認識そのものが変わることを観ました。
193では、「いい人」を演じることを、
194では、「何もしない時間」を、
195では、「欲しいと思っているもの」そのものを観ることを考えました。
そして196では、
「幸せ」という、とても身近な価値観そのものを観るところまで来ました。
これは、
「どんな人生が幸せなのか」
という答えを決めるためではありません。
むしろ、
「幸せという言葉さえ、自分の認識を通して見ている」
ことに気づくためです。
幸せは、
誰かから与えられる完成品ではありません。
誰かと同じになることでもありません。
「こうなれば幸せ」という一つの型に、自分を合わせることでもありません。
自分が何を大切にし、
何に心が動き、
何に安らぎ、
何を選び、
どんな時間を生きたいのか。
それを少しずつ観ていく。
その中で、
自分にとっての幸せの輪郭が見えてくる。
そして、その幸せが見えてきたとき、
「もっと、もっと」と外側を追い続けるのではなく、
「今ここにあるものを、静かに味わえる」
ようになるかもしれません。
幸せは、誰かが決めたものを手に入れることではない。
自分にとって何が大切なのかを観て、
その大切なものを、自分の人生の中で選んでいくこと。
だから、最後に残る問いは、
「私は、どんな人生なら幸せに見えるのだろう?」
ではなく、
「私は、どんな瞬間に『生きていてよかった』と感じるのだろう?」
なのかもしれません。
その答えは、
他人の中ではなく、
自分自身の中にあります。
Things That Make Me Happy「幸せを感じるもの」
真実を観る眼力 195 本当に欲しいものと、欲しいと思わされているもの ― 「欲しい」は、どこから生まれているのだろう? ―
はじめに
「これが欲しい」
そう思って買ったものなのに、しばらくすると、それほど必要ではなかったことに気づく。
新しい服。
高価なバッグ。
最新のスマートフォン。
人気の美容商品。
旅行。
高級なレストラン。
資格や学び。
もっと広い家。
もっと良い車。
もっと評価される仕事。
私たちは、日々たくさんの「欲しい」に出会っています。
そして、その多くは、
「自分が欲しいと思ったのだから、自分の本当の欲求なのだ」
と考えます。
けれど、少し立ち止まってみると、不思議なことに気づきます。
その「欲しい」は、
本当に自分の内側から生まれたものなのでしょうか。
広告を見たから。
誰かが持っていたから。
SNSで話題になっていたから。
周囲から「持っていると素敵」と思われるから。
「これを持てば、もっと幸せになれる」と感じたから。
そう考えると、
「欲しい」という感情にも、さまざまなものが混ざっている
ことが見えてきます。
今回考えたいのは、
「欲しいものを我慢しましょう」
という話ではありません。
むしろ、
「私は本当に何を欲しいと思っているのだろう?」
という問いです。
第一章 「欲しい」は、どこからやってくるのか
私たちは普段、
「欲しい」という気持ちは、自分の中から自然に生まれるものだと思っています。
けれど、人間の欲求は、それほど単純ではありません。
お腹が空いた。
喉が渇いた。
眠りたい。
安心したい。
誰かとつながりたい。
こうした身体や心に直接関係する欲求もあります。
一方で、
「もっと良いものが欲しい」
「人から羨ましがられるものが欲しい」
「今より上の生活をしたい」
という欲求もあります。
そして後者には、
社会の価値観や周囲の人々、広告、メディアなどから影響を受けている部分があります。
つまり、
「欲しい」という気持ちは、自分だけで作っているわけではないのです。
第二章 「みんなが持っている」と、欲しくなる
たとえば、友人が新しいバッグを持っていたとします。
「素敵だな」
と思う。
そのうち、
「私も欲しい」
と思い始める。
さらにSNSを開くと、同じようなバッグを持っている人がたくさんいる。
すると、
「やっぱり今は、これが人気なんだ」
と思う。
そして、いつの間にか、
「持っていない自分のほうが遅れている」
ような気持ちになってくる。
でも、最初はどうだったでしょう。
本当に必要だったのでしょうか。
それとも、
「みんなが持っている」
という情報に触れたことで、欲しくなったのでしょうか。
もちろん、流行しているものを好きになることが悪いわけではありません。
問題は、
「欲しい」という気持ちが、どこから生まれたのかを知らないまま、
その気持ちを自分の本心だと思ってしまうことです。
第三章 SNSは「欲しい」を増幅する
SNSでは、毎日のように誰かの生活が目に入ります。
素敵な服。
美しい部屋。
おしゃれな食事。
旅行先の風景。
美容。
健康。
仕事の成功。
充実した休日。
それらを見ていると、
「私もこんな生活をしたい」
と思うことがあります。
それ自体は自然なことです。
しかしSNSで目にするのは、その人の人生全体ではありません。
その人が切り取った一場面です。
それでも、繰り返し見ていると、
「これが幸せな生活なのだ」
というイメージが、自分の中に少しずつ入り込んできます。
そして、
「私も、こうならなければ」
という新しい欲求が生まれることがあります。
つまりSNSは、
「欲しいもの」を見せるだけではなく、
「どんな人生を欲しいと思うか」そのものにも影響する
可能性があるのです。
第四章 「欲しい」と「必要」は同じではない
ここで、一度、
「欲しい」と「必要」を分けてみる
ことができます。
たとえば、新しい服が欲しい。
それは悪いことではありません。
おしゃれを楽しむことも、生活の喜びの一つです。
ただ、
「今ある服では本当に困っているのか?」
と考えてみる。
新しいスマートフォンが欲しい。
では、
「今のものでは、何が足りないのだろう?」
と考えてみる。
もっと大きな家が欲しい。
「本当に広さが必要なのか、それとも『豊かな暮らし』というイメージが欲しいのか?」
と考えてみる。
ここで大切なのは、
欲しいものを否定することではありません。
「私はなぜ、それを欲しいと思ったのだろう?」
と、その欲求を少し深く観てみることです。
第五章 物が欲しいのではなく、「気持ち」が欲しいことがある
ここには、もっと興味深いことがあります。
私たちは、物そのものを欲しがっているようで、
その「物によって得られる感情や状態を欲しがっている」
ことがあります。
新しい服が欲しい。
その奥には、
「きれいに見られたい」
「自信を持ちたい」
「気分を変えたい」
という気持ちがあるかもしれません。
高価なバッグが欲しい。
その奥には、
「認められたい」
「自分に自信を持ちたい」
「大切に扱われたい」
という気持ちがあるかもしれません。
旅行に行きたい。
その奥には、
「日常から離れたい」
「自由になりたい」
「自然の中で安心したい」
という願いがあるかもしれません。
すると、
「何が欲しいのか?」
という問いが、
「私は、どんな感覚を求めているのだろう?」
という問いに変わります。
ここから、本当の欲求が見え始めることがあります。
第六章 「もっと欲しい」の奥には、何があるのか
「もっと欲しい」
という気持ちは、際限なく続くことがあります。
一つ手に入れる。
しばらく満足する。
そして、また次のものが欲しくなる。
もっと良いもの。
もっと新しいもの。
もっと大きなもの。
もっと評価されるもの。
なぜでしょうか。
一つの理由として、
「手に入れたもの」そのものより、
「手に入れたときに感じる自分」を求めている
場合があります。
「これを手に入れれば、自分はもっと価値のある人間になれる」
「これがあれば、人から認めてもらえる」
そんな期待があると、手に入れた瞬間には満足しても、その感覚は長く続かないことがあります。
そして、また次を探す。
もちろん、欲望そのものが悪いわけではありません。
人間の欲求は、行動や成長の原動力にもなります。
ただ、
「これを手に入れれば、自分は十分になる」
という考えを繰り返していると、
いつまでも「足りない自分」を感じ続ける
ことがあります。
本当に「欲しい」は何? 本当の願いを見つめる
第七章 「誰かに認められたい」という欲求
人間には、
「人から認められたい」
という自然な欲求があります。
褒められると嬉しい。
感謝されると嬉しい。
評価されると自信が持てる。
これは、人間関係の中で生きる私たちにとって、ごく自然なことです。
けれど、
「人からどう見られるか」
が自分の欲求の中心になると、
「自分が好きだから」
ではなく、
「人から評価されるから」
という理由で、物や仕事、生活スタイルを選ぶようになることがあります。
すると、
自分の人生を生きているようで、
実は「他人から見た自分」を生きている。
193で考えた、
「いい人を演じること」
ともつながっています。
「いい人に見られたい」
「素敵に見られたい」
「成功しているように見られたい」
という気持ちが、自分の選択に入り込んでくるのです。
第八章 「本当に欲しいもの」を見つける方法
では、どうすれば、
「自分が本当に欲しいもの」と、
「欲しいと思わされているもの」
を見分けられるのでしょうか。
一つの方法は、
すぐに決めないこと
です。
「欲しい!」
と思った瞬間に買うのではなく、
少し時間を置いてみる。
そして、こう問いかけます。
「私は、なぜこれが欲しいのだろう?」
さらに、
「これを手に入れたら、どんな気持ちになりたいのだろう?」
と考えてみる。
「素敵に見られたい」
「安心したい」
「自信を持ちたい」
「自由になりたい」
「認められたい」
など、さまざまな答えが出てくるかもしれません。
そして、もう一歩。
「その気持ちは、別の方法でも得られるだろうか?」
と考えてみる。
たとえば「自由になりたい」という気持ちなら、必ずしも高価なものを買う必要はないかもしれません。
自然の中を歩く。
一人で静かな時間を過ごす。
予定を一つ減らす。
誰かの期待から少し離れる。
そうしたことで、求めていた感覚が得られることもあります。
第九章 「欲しいもの」を減らすことが目的ではない
ここで注意したいのは、
「欲望をなくしましょう」
という話ではないことです。
欲しいものがあっていい。
買っていい。
楽しんでいい。
美しいものを求めてもいい。
豊かな暮らしを望んでもいい。
新しいことに挑戦してもいい。
大切なのは、
「誰かに与えられた欲望なのか、自分が選んだ欲望なのか」を知る
ことです。
自分で選んだのであれば、
それを楽しめばいい。
その選択に納得できるのであれば、
堂々と欲しがっていい。
反対に、
「本当はそれほど欲しくないのに、周囲に合わせている」
と気づいたなら、
手放してもいい。
つまり、
欲望を減らすことではなく、
欲望との関係を自分で選べるようになること、
が大切なのです。
第十章 「本当に欲しいもの」は、物とは限らない
ここまで考えてくると、
「本当に欲しいもの」
という言葉の意味も変わってきます。
欲しいのは、
物ではないかもしれません。
安心かもしれない。
自由かもしれない。
つながりかもしれない。
自信かもしれない。
静けさかもしれない。
自然とのつながりかもしれない。
自分らしくいられる時間かもしれない。
誰にも評価されなくても、自分が心地よく感じられる生活かもしれません。
そう考えると、
「何を買うか」よりも、
「どんな状態で生きたいのか」
のほうが大切になってきます。
そして、それが分かると、
物を選ぶときにも、人間関係を選ぶときにも、仕事を選ぶときにも、
少しずつ基準が変わっていきます。
最終章 「欲しい」は、本当に私の声なのだろうか?
私たちは毎日、
たくさんの「欲しい」に囲まれています。
「これがあれば幸せになれる」
「これを持っていれば素敵に見える」
「これを手に入れれば、もっと豊かになれる」
「もっと頑張れば、もっと認めてもらえる」
そんなメッセージを、さまざまな場所から受け取っています。
それらをすべて否定する必要はありません。
広告も、SNSも、社会の価値観も、
私たちの人生にとって必ずしも悪いものではありません。
問題は、
それらから受け取ったものを、自分の本心だと思い込んでしまうこと
です。
だから、ときどき立ち止まってみる。
「私は、本当にこれが欲しいのだろうか?」
そして、
「これを手に入れたら、私はどんな自分になりたいのだろう?」
さらに、
「その気持ちは、別の方法でも満たせるのだろうか?」
と問いかけてみる。
すると、
「欲しいもの」の奥に、
自分が本当に大切にしているものが見えてくる
かもしれません。
「欲しいもの」ではなく、「どう生きたいか」を観る
189から続いてきた今回の流れを振り返ってみましょう。
189では、
「自分とは何なのか」
を問い直しました。
190では、
「反応する人生」から「選択する人生」へ。
191では、
「自分を大切にする」
ということを考えました。
192では、
疲れていると、世界の見え方まで変わる
ことを観ました。
193では、
「いい人」を演じることから少し自由になる
ことを考えました。
194では、
「何かをしている自分でなければならない」という思い込み
から離れてみました。
そして195では、
「欲しいと思っているもの」さえ、
自分の認識を通して生まれている
ことに気づきます。
ここに、「真実を観る眼力」の大切な働きがあります。
それは、
「欲しいものを我慢すること」ではありません。
「物を持たないこと」でもありません。
まして、
「欲望をなくすこと」でもありません。
自分の欲望さえ、一度観察してみること。
「私は、なぜこれを欲しいと思ったのだろう?」
「誰かにそう思わされていないだろうか?」
「その奥で、私は何を求めているのだろう?」
そうやって、
自分の欲望を少し離れて観てみる。
すると、
「物が欲しかった」のではなく、
「安心したかった」。
「羨ましがられたかった」のではなく、
「自分に自信を持ちたかった」。
「もっと豊かになりたかった」のではなく、
「もっと自由に生きたかった」。
そんな、本当の願いが見えてくることがあります。
そして、その願いが分かったとき、
初めて、
「では、私はどう生きたいのだろう?」
という次の問いが生まれます。
欲しいものを追いかける前に、
その「欲しい」は、どこから来たのかを観てみる。
その奥にある、本当の願いを見つめてみる。
そして、自分にとって本当に大切なものを、自分自身で選んでいく。
それは、
「他人が望む人生」から
「自分が選ぶ人生」へ
移っていくということでもあります。
そして、
自分の「欲しい」さえも観る
ことができたとき、
「真実を観る眼力」は、さらに一歩深くなっていくのです。
真実を観る眼力 194 何もしない時間が、なぜ不安なのか? ― 「何かをしなければ」という思い込みから、ただ在る時間へ ―
はじめに
何も予定がない休日。
やるべき仕事もない。
誰かと会う約束もない。
スマートフォンを置いて、ただ窓の外を眺めている。
そんな時間を過ごしていると、
「何かしなければ」
「こんなことをしていていいのかな」
「時間を無駄にしているのでは?」
と、落ち着かなくなることがあります。
せっかく休んでいるのに、休んでいることに罪悪感を覚える。
少し時間が空けば、スマートフォンを見る。
動画を見る。
SNSを確認する。
ニュースを読む。
家の片づけを始める。
仕事のことを考える。
そして気づけば、
「何もしない」という時間が、ほとんどなくなっている。
なぜ私たちは、何もしないことに、これほど不安を感じるのでしょうか。
その背景には、
「何かをしている自分には価値がある」
という、現代社会の見えない価値観があるのかもしれません。
第一章 「何もしない=無駄」という思い込み
私たちは幼い頃から、
「勉強しなさい」
「頑張りなさい」
「時間を大切にしなさい」
と教えられてきました。
大人になれば、
「仕事をする」
「家事をする」
「勉強する」
「運動する」
「成長する」
「将来のために準備する」
というように、時間を何かにつなげることが求められます。
もちろん、努力することには意味があります。
何かを学ぶことも、働くことも、誰かのために行動することも大切です。
けれど、そこから少しずつ、
「何かをしていない時間には価値がない」
という考えが入り込んでくることがあります。
すると、
休んでいる時間まで、
「もっと有効に使わなければ」
と思ってしまう。
本来なら何もしなくてもいい時間なのに、
「何をすれば有意義になるか」
を考え始めるのです。
第二章 「忙しいこと」が安心感になる
不思議なことに、人は忙しいと、
「自分はちゃんと生きている」
と感じることがあります。
朝から仕事をして、
予定をこなして、
誰かのために動いて、
夜になれば疲れて眠る。
「今日もよく頑張った」
と思える。
ところが、何も予定がない日になると、
「今日は何をしていたんだろう」
と感じてしまう。
これは、
行動の量によって、自分の存在価値を確認している状態
とも考えられます。
「これだけやった」
「これだけ役に立った」
「これだけ頑張った」
というものがあると、自分を肯定しやすい。
反対に、何もしていないと、
「自分には何もない」
ように感じてしまう。
でも、
人間の価値は、行動量で決まるものではありません。
何もしない時間があるからといって、自分の価値が減るわけではないのです。
第三章 スマートフォンは「空白」を埋めてくれる
今では、ほんの数分の空白さえ、スマートフォンで埋めることができます。
電車を待っているとき。
信号を待っているとき。
食事が運ばれてくるまで。
ベッドに入ってから眠るまで。
少しでも時間が空くと、
スマートフォンを手に取る。
そこには、
ニュースがあります。
SNSがあります。
動画があります。
メッセージがあります。
次々と新しい情報が流れてきます。
それによって、私たちは「退屈」を感じにくくなりました。
しかし同時に、
何もない時間に自分自身と向き合う機会も減っています。
静かになると、不安になる。
暇になると、落ち着かない。
だから、また何かを見る。
こうして、
「空白が生まれる → 不安になる → 何かで埋める」
という習慣ができていくことがあります。
第四章 「何もしない」と「何もしていない」は違う
ここで、少し見方を変えてみましょう。
何もしない時間は、本当に「何もしていない時間」なのでしょうか。
たとえば、窓の外を眺めている。
温かいお茶を飲んでいる。
静かな音楽を聴いている。
木々の揺れる様子を見ている。
何となく空を眺めている。
外から見れば、
「何もしていない」
ように見えます。
しかし、そのとき身体は呼吸しています。
音を聞いています。
光を感じています。
温度を感じています。
身体の緊張が少しずつゆるむこともあります。
頭の中に浮かんでいた考えが、自然に消えていくこともあります。
つまり、
「行動していないこと」と「何も起きていないこと」は同じではありません。
何もしない時間にも、私たちの内側ではさまざまな変化が起きています。
第五章 静かになると、自分の本音が聞こえてくる
忙しくしていると、
自分が本当は何を感じているのかに気づきにくくなります。
疲れている。
寂しい。
本当は嫌だった。
少し休みたい。
誰かに話を聞いてほしい。
本当は、あれをやってみたい。
そんな小さな気持ちは、忙しさの中では後回しになりやすい。
ところが、何もしない時間ができると、
それまで聞こえなかった自分の声が、少しずつ聞こえてくることがあります。
だからこそ、
「何もしない時間」が不安になることもある
のです。
そこには単なる退屈ではなく、
「本当の自分を感じることへの戸惑い」
が含まれている場合があります。
第六章「暇」が怖いのではなく、自分と向き合うのが怖いのかもしれない
予定がいっぱい入っていると、
自分自身について深く考える必要がありません。
次の予定。
次の仕事。
次の連絡。
次の用事。
目の前にあるものを一つずつ処理していけばいい。
ところが、すべてが静かになると、
「私は、本当はどうしたいのだろう?」
という問いが浮かんでくる。
そこで初めて、
「この仕事を続けたいのだろうか」
「この人間関係は、自分にとってどうなのだろう」
「今の生活に満足しているのだろうか」
「私は何を大切にしたいのだろう」
と、自分自身の問題が見えてくることがあります。
だから、
忙しさは、ときとして自分自身から目をそらすための場所
にもなります。
もちろん、忙しいことすべてが逃避というわけではありません。
ただ、
「忙しくしていることで、考えずに済んでいることはないだろうか?」
と、一度観てみる価値はあります。
第七章 何もしない時間は、「自分を観る時間」になる
193では、
「いい人」を演じること
について考えました。
人にどう見られるかを気にして、
「嫌われないための自分」
を演じ続けることがあります。
そして194では、
それとよく似たものとして、
「何かをしている自分でなければならない」
という認識を観てみます。
仕事をしている自分。
役に立っている自分。
頑張っている自分。
成長している自分。
忙しい自分。
そうした「自分」でいることに慣れていると、
何もしていない自分を、そのまま受け入れることが難しくなる。
でも、
何かをしていなくても、自分は自分です。
行動を止めた瞬間に、存在まで止まるわけではありません。
第八章 「何もしない」は、人生を止めることではない
「何もしない時間を大切にする」と聞くと、
「怠けることでは?」
と思う人もいるでしょう。
しかし、何もしないことと、何も考えずに無責任に過ごすことは同じではありません。
必要な仕事をする。
人との約束を守る。
やるべきことをする。
そのうえで、
何の目的もない時間を持つ。
それだけです。
散歩をしてもいい。
お茶を飲んでもいい。
窓の外を眺めてもいい。
何となく音楽を聴いてもいい。
あるいは、本当に何もしなくてもいい。
「この時間から何かを得なければ」
と考えなくてもいい。
その時間そのものを、そのまま過ごす。
それもまた、一つの生き方です。
第九章 「生産性」から少し離れてみる
現代社会では、
「効率」
「成果」
「生産性」
という言葉が、さまざまな場面で使われます。
もちろん、仕事や社会活動では大切な考え方です。
しかし、
人生そのものまで、すべてを生産性で測る必要はありません。
夕焼けを見ることに、どんな成果があるのでしょう。
花を眺めることに、どんな効率があるのでしょう。
家族と何気ない話をすることに、どんな生産性があるのでしょう。
それでも、
それらには人間が生きるうえで大切な意味があります。
人生には、
「役に立つ時間」だけではなく、
「ただ味わう時間」
も必要なのです。
「何もしない、という贅沢」
第十章 何もしない時間が、選択する力を取り戻してくれる
何もしない時間には、もう一つ大切な意味があります。
それは、
「反応する時間」から離れること
です。
通知が来たから見る。
メッセージが来たから返信する。
ニュースが流れてきたから読む。
誰かが何かを投稿したから反応する。
そうしているうちに、一日はたくさんの「反応」で埋まっていきます。
しかし、静かな時間を持つと、
「今、本当にこれをしたいのだろうか?」
と考える余地が生まれます。
これは、190で考えた
「反応する人生」から「選択する人生」へ
というテーマにもつながっています。
何もしない時間とは、
何も選ばない時間ではありません。
むしろ、
「自分で選ぶための余白を取り戻す時間」
なのです。
最終章 何もしない時間に、不安にならなくてもいい
何もしない時間が不安になるのは、
「何もしないことが悪いから」
ではありません。
そこには、
「時間を無駄にしてはいけない」
「役に立たなければならない」
「成長しなければならない」
「忙しくしていなければならない」
という、さまざまな思い込みがあるのかもしれません。
そして、その思い込みに気づかないまま、
私たちは自分自身を走らせ続けます。
でも、一度立ち止まってみる。
何も決めない。
何も生み出さない。
誰かの期待にも応えない。
ただ、そこにいる。
すると最初は、
「何をしているんだろう」
という落ち着かなさが出てくるかもしれません。
それでも、そのまま少し静かにしてみる。
呼吸を感じる。
身体を感じる。
周囲の音を聞く。
光を見る。
そして、
「今、私はここにいる」
と気づく。
それだけでもいいのです。
「何もしない時間」は、自分を取り戻す時間
189では、
「自分とは何なのか」
を問い、
190では、
「反応する人生」から「選択する人生」へ
と進みました。
191では、
「自分を大切にする」
ことを考え、
192では、
疲れているときには、世界の見え方まで変わる
ことを考えました。
193では、
「いい人」を演じることから少し自由になる
ことを考えました。
そして194で見えてくるのは、
「何かをしている自分」でなければならない、という思い込み
です。
私たちは、
何かをしているから価値があるのではありません。
誰かに認められているから存在しているのでもありません。
役に立っているから、生きていていいのでもありません。
何もしない時間にも、
自分は存在しています。
だから、
何もしない時間を、無駄な時間にしなくてもいい。
何かを生み出さなくてもいい。
誰かの期待に応えなくてもいい。
ただ、自分と一緒にいる時間があってもいい。
その静かな時間の中で、
「本当は何を感じているのだろう」
「何を大切にしたいのだろう」
「これから、どう生きたいのだろう」
という問いが、自然に浮かんでくるかもしれません。
そして、その問いにすぐ答えなくてもいい。
答えを急がず、自分の中に生まれたものを観ている。
それもまた、
「真実を観る」ということなのです。
何もしない時間は、人生を止める時間ではない。
外側から与えられる「こうしなければ」を少し静かにして、
自分自身の声を聴くための時間なのです。
何もしないことに不安を感じたとき、
「何かしなければ」
ではなく、
「今、何もしないことを怖がっている自分がいる」
と観てみる。
その一歩だけでも、
「しなければならない人生」から、
「自分で選んで生きる人生」へ、
静かに戻っていくことができます。





