asa insight
asa information 9月号⑦ 私たちは、なぜ「自分で考えている」と思い込むのか? ― 情報社会・SNS・AIがつくる「見えない認識のフィルター」 ―
スマートフォンを開く。
ニュースを見る。
SNSを見る。
動画を見る。
誰かの意見を読む。
そして、
「なるほど」
と思う。
その後、
その考えを、
いつの間にか、
「これは、自分で考えて決めたことです」
そう思うことは、
ごく自然なことです。
けれど、
少し立ち止まって考えてみると、
こんな疑問が浮かんできます。
その「考え」は、
本当に自分だけから生まれたものなのでしょうか?
家族から聞いた言葉。
学校で教えられた価値観。
テレビや新聞から得た情報。
広告から受け取ったイメージ。
SNSで繰り返し目にする意見。
検索結果に並ぶ情報。
そして、
AIから提示される答え。
このように、
私たちの「考える」という行為には、
想像以上に多くのものが入り込み
日々触れている情報によって、
大きく影響されています。
つまり、
私たちは、
完全に何もないところから、
自由に考えているわけではありません。
しかも現代では、
それらの情報が、
一人ひとりに合わせて選ばれ、届けられる時代
になりました。
ここに、
これまでとは違う問題があります。
それは、
「自分で考えている」と思いながら、
知らないうちに考え方の方向を誘導される可能性
です。
今回のasa informationでは、
9月号⑤で考えた、
「現実をありのままに見ることの難しさ」
そして、
9月号⑥で考えた、
「他人との比較」
から、
さらに一歩進んで、
「そもそも、自分の考えとは何なのか?」
という問題を考えてみたいと思います。
第1章 「自分で考える」とは、本当はどういうこと?
例えば、
SNSを見ていて、
ある化粧品が何度も表示されたとします。
最初は、
「こんな商品があるんだ」
という程度だったのに、
何度も見ているうちに、
「これ、良さそう」
と思うようになる。
そして、
実際に購入する。
もちろん、
その商品が本当に必要だった可能性もあります。
しかし、
ここで一度、
考えてみたいのです。
「欲しい」と思ったきっかけは、
どこから来たのでしょうか?
自分の内側から生まれたのでしょうか。
それとも、
外から繰り返し与えられた情報によって、
「欲しい」という感覚が強くなったのでしょうか。
これは、
「広告はすべて悪い」
という話ではありません。
問題は、
自分の判断が、どのような情報環境の中で生まれたのか
を自分自身が知らないことです。
第2章 私たちは「見たもの」をそのまま見ているわけではない
人間の脳は、
目や耳から入ってきた情報を、
そのまま保存しているわけではありません。
過去の経験。
記憶。
期待。
感情。
価値観。
知識。
そうしたものを使いながら、
入ってきた情報に意味を与えています。
だから、
同じニュースを見ても、
人によって受け取り方が違う。
同じ出来事を見ても、
「良いこと」と感じる人もいれば、
「危険なこと」と感じる人もいます。
つまり、
私たちは、
単純に「現実」を見ているのではありません。
情報を受け取り、
脳の中で意味づけされた「現実」を見ている
とも言えます。
ここが、
「認識」を考えるうえで、
とても重要なポイントです。
第3章 そして現代には「アルゴリズム」が加わった
ここから、
現代社会ならではの問題が出てきます。
インターネットでは、
私たちがどんな情報に関心を持ったのかが、
さまざまな形で利用されています。
例えば、
-
検索した言葉
-
閲覧したページ
-
購入した商品
-
SNSで見た投稿
-
「いいね」をした内容
-
動画の視聴履歴
-
長く見ていたコンテンツ
などです。
こうした情報をもとに、
システムは、
「この人は、これにも興味を持つかもしれない」
と予測します。
そして、
関連する情報が、
次々に表示されます。
これは便利な仕組みです。
自分が探していた情報を、
簡単に見つけられることもあります。
しかし、
便利さの裏側には、
一つの問題があります。
第4章 「自分が選んでいる」のではなく、「選ばれたものから選んでいる」?
ここは、
現代社会でとても大切な視点です。
私たちは、
画面を見ながら、
「自分で選んでいる」
と思っています。
しかし、
その前に、
何を見ることができるのか
という段階があります。
例えば、
100万件の情報が存在していても、
私たちの目の前に表示されるのは、
そのごく一部です。
つまり、
私たちは、
100万件の中から自由に選んでいるのではなく、
何らかの仕組みによって選ばれた情報の中から選んでいる
のです。
この違いは、
とても大きなものです。
第5章 「あなたが興味を持ちそうなもの」が、あなたの世界をつくっていく
例えば、
ある健康情報を検索したとします。
すると、
その後、
似たような健康情報が、
次々に表示されることがあります。
最初は、
一つの情報を調べただけだった。
ところが、
次から次へと似た情報が現れる。
すると、
いつの間にか、
「世の中には、こういう情報ばかりある」
と感じるようになる。
さらに、
同じような意見を何度も見ていると、
こう思うかもしれません。
「みんな、そう考えているんだ」
しかし、
本当に「みんな」がそう考えているのでしょうか?
そうとは限りません。
単に、
自分の目の前に、
似た情報が集中的に表示されている
可能性があります。
第6章 「繰り返し見る」ことが、認識を強くする
人間は、
同じ情報に何度も接触すると、
その情報に親しみを感じやすくなることがあります。
最初は、
「本当かな?」
と思っていた情報でも、
何度も目にしているうちに、
「聞いたことがある」
「よく見る情報だ」
という感覚が生まれます。
そして、
いつしか、
「たぶん本当なのだろう」
と感じてしまう。
ここで注意したいのは、
「よく見る」ことと「正しい」ことは、別だということです。
情報が繰り返し表示されることと、
その情報の真偽が証明されることは、
まったく違います。
第7章 「洗脳」という言葉を考えてみる
歴史を振り返ると、
人間の認識を特定の方向へ変えようとする、
さまざまな情報操作が行われてきました。
一つの情報だけを繰り返し伝える。
反対意見を見えなくする。
恐怖を利用する。
敵と味方を分ける。
権威を利用する。
「みんながそう思っている」と思わせる。
こうした方法は、
過去のプロパガンダや、
さまざまな心理的操作の中でも見られてきました。
しかし、
現代社会では、
少し事情が変わっています。
昔は、
「誰かが情報を選んで、大勢の人に同じものを届ける」
という形が中心でした。
現在は、
「一人ひとりに異なる情報が届けられる」
ようになっています。
ここが、
現代の大きな特徴です。
第8章 AIによって「自分に合った答え」が、さらに身近になる
そして、
ここにAIが加わります。
現在のAIは、
Transformerなどのモデル構造を利用し、
大量のデータから言語のパターンを学習して、
人間の入力に応じた文章などを生成します。
また、
RLHF(人間のフィードバックによる強化学習)のような手法によって、
人間にとって望ましい応答になるよう調整されることがあります。
これは、
「AIが人間を洗脳するための仕組み」
という意味ではありません。
しかし、
AIとの対話が、
私たちの情報環境をさらに変えていく可能性はあります。
なぜなら、
これまでなら、
自分で検索し、
複数のページを読み、
比較しなければならなかったことを、
AIが、
「あなたの質問に対する答え」
という形で、
目の前にまとめて提示できるからです。
便利です。
非常に便利です。
だからこそ、
もう一つの問いが生まれます。
「その答えを、どう判断するのか?」
です。
第9章 「もっともらしい答え」と「真実」は同じではない
AIは、
とても自然な文章を作ることができます。
そのため、
人間は、
文章が流暢であるほど、
「正しそうだ」
と感じることがあります。
しかし、
文章が自然であることと、
内容が真実であることは別問題です。
これは、
SNSでも、
ニュースでも、
動画でも、
同じです。
「分かりやすい」
「説得力がある」
「たくさんの人が言っている」
「AIがそう答えた」
ということだけで、
正しいとは限りません。
だから、
情報が増えるほど、
必要になる能力があります。
それが、
「見極める力」
です。
第10章 「考えさせられている」のに、「自分で考えている」と感じる
ここに、
今回の特集の最も重要な問いがあります。
人は、
自分の頭の中に浮かんだ考えを、
「自分の考え」
だと思います。
しかし、
その考えが生まれるまでには、
さまざまな情報が影響しています。
家庭。
学校。
社会。
広告。
ニュース。
SNS。
友人。
周囲の価値観。
そして、
アルゴリズム。
AI。
つまり、
「自分の頭の中にある」というだけでは、
それが完全に「自分自身から生まれた考え」とは限らない
のです。
これは、
とても怖い話でもあります。
同時に、
自分を責める必要のない話でもあります。
人間は、
周囲から情報を受け取りながら生きる存在だからです。
大切なのは、
その事実に気づく
ことです。
第11章 では、どうすれば「自分で考える」ことができるのか?
「誰にも影響されない人間になる」
必要はありません。
そんなことは、
おそらく不可能です。
大切なのは、
影響を受けていることに気づくこと。
そして、
一度立ち止まることです。
例えば、
こんな問いを持ってみます。
なぜ、自分はこれを信じているのだろう?
その情報は、どこから来たのだろう?
反対の情報はあるだろうか?
事実と意見が混ざっていないだろうか?
恐怖や怒りを刺激されていないだろうか?
「みんなが言っている」というだけではないだろうか?
そして、
もう一つ。
「分からない」
と言えることも、
大切な知性です。
第12章 「正しい情報」を探すだけでは足りない
ここで、
「真実を観る眼力」
というテーマにつながります。
真実を観るということは、
単に、
「正しい情報を集める」
ことではありません。
情報には、
事実もあれば、
意見もあります。
善意もあれば、
悪意もあります。
誤解もあれば、
意図的な操作もあります。
そして、
同じ事実であっても、
切り取り方によって、
受け取る印象は大きく変わります。
だから必要なのは、
情報量だけではありません。
その情報を、どう観察するか。
誰が、何のために伝えているのか。
何が語られ、何が語られていないのか。
自分自身の感情が、判断を動かしていないか。
こうしたことを、
一つ一つ確かめていく力です。
第13章 「正邪善悪を観る眼力」とは、誰かを裁くことではない
ここは、
「真実を観る眼力」の意味を、
誤解されないようにするためにも、
大切な部分です。
正邪善悪を観るというのは、
すぐに、
「これは悪だ」
「この人は悪い」
と、
誰かを裁くことではありません。
むしろ、
その逆です。
「感情に流されず、事実を観察する。」
一つの情報だけで決めつけない。
自分に都合のよい情報だけを集めない。
相手の立場も見る。
その情報によって、誰が利益を得るのかを見る。
そして、
必要なら、
「これは自分の認識が間違っていたかもしれない」
と修正する。
それこそが、
本当の意味での、
「自分で考える力」
なのではないでしょうか。
第14章 女性だからこそ、ではなく「一人の人間」として
現代の女性は、
美容。
健康。
仕事。
結婚。
子育て。
人間関係。
お金。
生き方。
自己実現。
SNS。
さまざまな情報に囲まれています。
「もっと美しく」
「もっと若く」
「もっと健康に」
「もっと働いて」
「もっと自分らしく」
「もっと幸せに」
そんなメッセージが、
日々、
さまざまな形で届いてきます。
もちろん、
そのすべてが悪いわけではありません。
でも、
ふと立ち止まってみます。
「もっと」という言葉は、
本当に自分が望んでいるものなのだろうか?
それとも、
誰かによって作られた「理想」を、
いつの間にか、
自分の願いだと思っているのでしょうか?
ここに、
「比較」の問題も、
「認識」の問題も、
「アルゴリズム」の問題も、
つながってきます。
シャットダウン
第15章 情報社会で、本当に守るべきもの
これからの時代、
情報は、
さらに増えていくでしょう。
AIも、
さらに身近になるでしょう。
そして、
一人ひとりに合わせて、
情報が届けられる時代も、
さらに進んでいくでしょう。
そのとき、
重要になるのは、
「どれだけ多くの情報を持っているか」
だけではありません。
むしろ、
どの情報を信じるのか。
何を疑うのか。
何を選ぶのか。
そして、
自分の認識そのものを観察できるか。
という能力です。
最終章 「その考えは、本当に自分自身のものですか?」
SNSを見る。
検索する。
ニュースを見る。
動画を見る。
AIに質問する。
私たちは、
毎日のように、
大量の情報を受け取っています。
その中には、
役に立つ情報もあります。
人を助ける情報もあります。
新しい可能性を教えてくれる情報もあります。
だから、
情報そのものを恐れる必要はありません。
AIを恐れる必要もありません。
SNSを否定する必要もありません。
大切なのは、
「受け取った情報を、そのまま自分の認識にしないこと」
です。
一度、
間を置く。
観察する。
問い直す。
比較する。
確かめる。
そして、
自分自身で判断する。
「自分で考える」とは、影響を受けないことではない。
影響を受けている自分に気づき、
その影響を含めて、自分自身で確かめること。
それが、
「自分で考える」
ということなのかもしれません。
そして、
そのために必要なのが、
真実を観る眼力。
単に、
「正しい・間違っている」
だけを見るのではなく、
事実と意見を見分け、
善意と悪意を見分け、
正邪善悪を見極め、
自分自身の思い込みさえも観察する力。
それは、
誰かを疑うための力ではありません。
誰かを攻撃するための力でもありません。
自分自身の認識を、自由に保つための力です。
情報が増えるほど、
AIが賢くなるほど、
アルゴリズムが高度になるほど、
私たちに必要になるのは、
「もっと多くの情報」ではなく、
「情報を観る眼」
なのかもしれません。
そして最後に、
こんな問いを残したいと思います。
あなたが「自分で考えた」と思っているその考えは、
本当に、あなた自身のものなのでしょうか?
それとも、いつの間にか、
誰かがつくった「見えない道」の上を歩いているのでしょうか?
asa information 9月号⑥ なぜ人間は、比較することをやめられないのか? ― SNS時代に失われる「自分自身の価値」―
朝、
スマートフォンを開く。
すると、
誰かの楽しそうな旅行の写真が目に入ります。
おしゃれなレストラン。
幸せそうな家族。
充実した仕事。
美しい景色。
そして、
ふと、
こんな気持ちになることがあります。
「みんな、私より充実しているように見える」
「自分だけが取り残されているような気がする」
「もっと頑張らなければならないのだろうか」
SNSを見ること自体が、
悪いわけではありません。
遠く離れた人とつながることができる。
新しい情報を知ることができる。
美しい景色や、
楽しい出来事を共有することもできる。
しかし、
便利な道具であるSNSが、
いつの間にか、
「他人と自分を比較する場所」
になってしまうことがあります。
私たちは、
なぜ、
これほどまでに、
他人と自分を比較してしまうのでしょうか。
そして、
比較することで、
私たちは、
本当に幸せになれるのでしょうか。
今回のasa informationでは、
脳科学。
進化心理学。
SNS社会。
子どもたちの心。
そして、
私たちの日常生活を通して、
「比較する人間の心」
について考えてみたいと思います。
第1章
比較することは、人間の「悪い癖」なのか?
「あの人は自分よりきれい」
「あの人は仕事ができる」
「友人は素敵な家庭を持っている」
「自分より収入が多い」
私たちは、
日常生活の中で、
知らないうちに、
さまざまな比較をしています。
しかし、
比較することは、
必ずしも、
人間の悪い性格だから起こるわけではありません。
人間には、
自分が周囲の人々と比べて、どのような位置にいるのかを知ろうとする働き
があります。
人類は、
長い間、
集団の中で生活してきました。
その中で、
誰が信頼できるのか。
誰と協力するのか。
自分には、
どのような役割があるのか。
周囲の人を見ることは、
社会の中で生きるために、
必要な能力でもありました。
つまり、
「比較する能力そのものは、人間に備わった自然な働きの一つ」
なのです。
問題は、
比較することそのものではありません。
比較によって、自分自身の価値まで決めてしまうこと
なのかもしれません。
第2章
なぜ「自分より上の人」が気になるのか
私たちは、
自分より少し収入が高い人。
自分より若く見える人。
自分より仕事が成功している人。
自分より人気がある人を見ると、
無意識のうちに、
自分と比較することがあります。
心理学では、
自分より優れているように見える相手と比較することを、
「上方比較」
と呼びます。
しかし、
上方比較が、
必ず悪いわけではありません。
「あの人のようになりたい」
「自分も挑戦してみよう」
という、
成長のきっかけになることもあります。
問題は、
比較によって、
いつの間にか、
「自分には価値がない」
「自分は劣っている」
と考えてしまうことです。
そして、
ここで、
一つ大切なことがあります。
私たちが比較しているのは、
必ずしも、
相手の人生そのものではない
ということです。
SNSで見えるのは、
その人の人生の、
ほんの一部分です。
楽しい瞬間。
成功した瞬間。
美しく見える瞬間。
私たちは、
自分の人生のすべてと、
誰かの人生の、
最も輝いて見える瞬間
を比較している
ことがあります。
これは、
最初から、
自分にとって不利な比較
なのです。
第3章
SNSは「比較を終わらせない社会」をつくった
昔も、
人間は比較していました。
しかし、
比較する相手は、
家族。
学校。
職場。
地域。
など、
比較できる範囲には、
ある程度の限界がありました。
ところが、
SNSの登場によって、
私たちは、
世界中の人々と、
いつでも比較できるようになりました。
美容。
ファッション。
仕事。
結婚。
子育て。
旅行。
住宅。
料理。
趣味。
体型。
スマートフォンを開けば、
次々と、
「自分より素敵に見える人」
が現れます。
しかも、
そこに表示されるのは、
多くの場合、
その人が選んだ、
人生の「最も良く見える場面」(映え)です。
そのため、
私たちは、
比較を終わらせることが難しくなっています。
比較する相手が、身近な数人から、世界中の人々へ広がった。
これが、
SNS時代の大きな変化です。
第4章
「いいね」の数で、自分の価値を測っていないだろうか
SNSには、
さまざまな数字があります。
「いいね」の数。
フォロワー数。
再生回数。
コメント。
ランキング。
数字は、
とても分かりやすいものです。
しかし、
分かりやすいからこそ、
私たちは、
人間の価値まで、
数字で測り始めてしまうことがあります。
「いいね」が多い。
↓
人気がある。
フォロワーが多い。
↓
価値がある。
再生回数が多い。
↓
成功している。
しかし、
本当に、
そうでしょうか?
「いいね」の数は、
その人の優しさを測ることはできません。
フォロワー数は、
その人が、
本当に愛されているかどうかを、
測ることもできません。
年収や肩書きも、
人生の幸福を、
そのまま表しているわけではありません。
数字は、
ある一つの側面を示すことはできます。
しかし、
人間の価値そのものを測ることはできません。
👍 イイね!
第5章
女性ほど「比較の基準」が増えやすい社会
これは、
「女性が比較しやすい性格だから」
ということではありません。
現代社会では、
女性に対して、
非常に多くの価値基準が、
同時に求められることがあります。
美しくあること。
若々しくあること。
仕事でも活躍すること。
家庭も大切にすること。
子育ても頑張ること。
経済的にも自立すること。
そして、
いつも、
楽しそうに見えること。
しかし、
これほど多くの理想像を、
一人の人間が、
すべて満たすことはできるのでしょうか?
SNSには、
理想化された人生が、
次々と流れてきます。
美しい。
スタイルが良い。
仕事も充実している。
家庭も幸せ。
旅行にも行く。
料理も上手。
しかし、
誰も、
24時間、
完璧な人生を送っているわけではありません。
疲れる日もあります。
失敗する日もあります。
部屋が片付いていない日もあります。
何もしたくない日もあります。
それが、
人間です。
第6章
子どもたちは、早い段階から比較されている
9月号④では、
子どもたちの心の問題について考えました。
現代の子どもたちは、
非常に早い段階から、
比較される環境の中で生活しています。
テストの点数。
偏差値。
運動能力。
学校での人気。
容姿。
SNSの反応。
「いいね」の数。
そして、
進学。
就職。
子どもたちは、
常に、
「評価される社会」
の中で成長しています。
もちろん、
評価そのものが、
悪いわけではありません。
学校や社会では、
一定の評価が必要な場合もあります。
しかし、
問題は、
「評価されることと、自分自身の存在価値を混同してしまうこと」
です。
テストで悪い点を取った。
それは、
「今回のテストの結果」です。
しかし、
いつの間にか、
「自分はダメな人間だ」
という認識に変わってしまうことがあります。
ここには、
大きな違いがあります。
結果には、良い結果と悪い結果がある。
しかし、
人間そのものに、点数をつけることはできない。
これは、
子どもたちだけではありません。
私たち大人にも、
同じことが言えるのではないでしょうか。
第7章
比較すると、脳の中では何が起きているのか
私たちが、
他人と自分を比較するとき、
脳は、
単純に情報を処理しているだけではありません。
そこには、
感情も関係しています。
自分より成功している人を見る。
「すごい」
と思う。
しかし、
同時に、
「うらやましい」
「自分も頑張らなければ」
「自分は遅れているかもしれない」
という感情が生まれることがあります。
また、
SNSでは、
他者からの反応が、
繰り返し気になることがあります。
通知が来る。
↓
気になる。
↓
スマートフォンを見る。
↓
「いいね」が増えている。
↓
少しうれしくなる。
このような経験には、
報酬や期待、
学習などに関係する、
脳の働きが関係しています。
例えば、
ドーパミンは、
単純な「快楽物質」ではなく、
期待や動機づけ、
報酬を予測する働きなどにも関係しています。
そのため、
私たちは、
「次は何か反応があるかもしれない」
という期待から、
何度もSNSを確認してしまうことがあります。
つまり、
SNSは、
私たちの注意を、
外側の評価へ向け続けやすい環境
でもあるのです。
第8章
「もっと欲しい」が終わらない理由
比較には、
一つ大きな特徴があります。
それは、
終わりがない
ということです。
年収が増えた。
しかし、
もっと収入が多い人がいる。
家を買った。
しかし、
もっと大きな家に住んでいる人がいる。
美しくなった。
しかし、
もっと美しい人がいる。
成功した。
しかし、
もっと成功している人がいる。
比較を基準に、
幸福を求め始めると、
私たちは、
いつまでも、
「自分より上の人」
を見つけることができます。
ある目標を達成しても、
次の比較対象が現れます。
そして、
再び、
「もっと」
が始まります。
「比較によって手に入れた満足は、
新しい比較によって失われることがある。」
第9章
「あの人」と比べて、疲れていませんか?
比較は、
激しい競争心から、
始まるとは限りません。
むしろ、
日常の、
何気ない場面から始まります。
朝、
鏡を見る。
「最近、少し老けたような気がする」
SNSを開く。
すると、
同年代なのに、
とても若々しく見える人がいる。
「私も、もっと頑張らなければ」
と思ってしまう。
友人と、
久しぶりに会う。
子どもの進学の話。
仕事の話。
旅行の話。
新しく買った家の話。
誰かが、
自慢しているわけではありません。
自分自身も、
何か失敗したわけではありません。
それでも、
家に帰る頃には、
なぜか少し疲れている。
そんな経験はないでしょうか。
心の中では、
いつの間にか、
こんな比較が始まっているのかもしれません。
「あの人は充実している」
「私は、何をしているのだろう」
「自分だけ遅れているのではないか」
比較は、
実は、
「負けたくない」
という気持ちだけではなく、
「私は、このままで大丈夫なのだろうか?」
という、
小さな不安から始まることもあります。
第10章
「みんなと同じ」が、本当に幸せとは限らない
友人が、
海外旅行へ行っている。
素敵な家に住んでいる。
高級なバッグを持っている。
仕事で成功している。
すると、
「自分も、あのようになりたい」
と思うことがあります。
しかし、
ここで、
一度だけ、
自分自身に問いかけてみることも大切です。
「私は、本当にそれが欲しいのだろうか?」
それとも、
「周囲の人が持っているから、自分も欲しいと思っているのだろうか?」
例えば、
友人が、
海外旅行の写真を投稿している。
それを見て、
「うらやましい」
と思う。
しかし、
よく考えてみると、
自分は、
遠くへ旅行するより、
静かな温泉で、
ゆっくり過ごす方が好きかもしれません。
誰かにとっての幸せが、
必ずしも、
自分にとっての幸せとは限りません。
第11章
比較から「自分自身」へ戻る
比較をしているとき、
私たちの意識は、
頭の中へ入り込みやすくなります。
過去の自分。
未来の自分。
誰かの人生。
まだ起きていない未来。
さまざまな思考が、
頭の中を巡ります。
そんなときは、
少しだけ、
身体へ意識を戻してみましょう。
ゆっくり、
息を吸う。
そして、
ゆっくり吐く。
足の裏が、
床に触れている感覚を感じる。
背中が、
椅子に触れている感覚を感じる。
窓を開け、
外の空気を感じる。
比較しているとき、
私たちは、
「頭の中の世界」に生きています。
しかし、
身体感覚に意識を戻すことで、
「今、この瞬間」へ戻りやすくなることがあります。
これは、
9月号③で紹介した、
「体感から直接感じる力」
ともつながっています。
第12章
自分の人生には、自分のペースがある
花を見ても、
私たちは、
「なぜ、この花は、あの花より早く咲かないのだろう」
とは思いません。
桜には、
桜の季節があります。
紫陽花には、
紫陽花の季節があります。
コスモスには、
コスモスの季節があります。
人間も、
同じではないでしょうか。
早く答えを見つける人もいます。
時間をかけて、
自分の道を見つける人もいます。
40代になって、
新しい仕事を始める人。
50代になって、
新しい趣味を見つける人。
子育てが一段落してから、
初めて、
自分自身の時間を持つ人。
人生には、
「正しい順番」はありません。
成長する時期。
休む時期。
挑戦する時期。
立ち止まる時期。
すべての人が、
同じ時期に、
同じように花を咲かせる必要はありません。
人には、それぞれの人生があります。
そして、それぞれの時間があります。
第13章
比較から少し自由になるための5つのヒント
① 「比べている自分」に気づく
まず、
比較してはいけない、
と自分を責める必要はありません。
「あ、今、私は、あの人と自分を比較している」
そう気づくだけで、
無意識に比較の中へ入り込んでいた自分から、
少し距離を取ることができます。
② 他人の「一場面」と、自分の「すべて」を比較しない
SNSに映っているのは、
多くの場合、
人生の一場面です。
しかし、
私たちは、
自分の人生については、
すべてを知っています。
疲れ。
失敗。
不安。
迷い。
そのため、
一度、
こう考えてみましょう。
私は、他人の人生の「表紙」と、
自分の人生の「すべて」を比較していないだろうか。
③ 身体の感覚へ戻る
比較が始まったら、
一度、
呼吸を感じます。
足の裏を感じます。
身体が、
椅子に触れている感覚を感じます。
頭の中の比較から離れ、
今、ここに存在する、
自分自身の身体へ戻る。
それだけでも、
思考との距離をつくることができます。
④ 「私は、本当は何を望んでいるのか」を問いかける
高収入。
有名になること。
大きな家。
高級な車。
多くのフォロワー。
それらが、
悪いわけではありません。
しかし、
一度、
静かに問いかけてみる。
「これは、本当に私が望んでいる人生なのだろうか?」
それとも、
「誰かの価値観を、自分の価値観だと思い込んでいるだけなのだろうか?」
この問いが、
自分自身の人生を取り戻す、
一つの入り口になるかもしれません。
⑤ 自然の中へ戻る
森を歩く。
空を見る。
海を見る。
山へ行く。
そこには、
偏差値もありません。
フォロワー数もありません。
大きな木。
小さな草。
鮮やかな花。
名も知らない植物。
すべてが、
それぞれの場所で、
それぞれの生命を生きています。
自然は、
私たちに、
静かに教えてくれるようにも思えます。
すべてが同じである必要はない。
すべてが一番になる必要もない。
最終章
「誰かになる」ことから、「自分を生きる」ことへ
私たちは、
幼い頃から、
比較の中で生きています。
「あの子より成績が良い」
「あの人より成功している」
「もっと美しくならなければ」
「もっと若く見えなければ」
「もっと幸せに見えなければ」
しかし、
人生とは、
本当に、
誰かとの競争なのでしょうか?
もちろん、
他人から学ぶことは大切です。
誰かに憧れることもあります。
競争が、
成長につながることもあります。
問題は、
「他人を見すぎるあまり、自分自身を見失うこと」
です。
9月号⑤では、
私たちは、
過去の記憶。
感情。
価値観。
思い込み。
こうした、
さまざまなフィルターを通して、
世界を認識していることを考えました。
そして、
今回の9月号⑥では、
さらに、一つの問いを加えます。
「私たちは、他人と比較することによって、
自分自身を見失ってはいないだろうか?」
誰かの人生を見て、
自分の人生の価値を決める。
誰かの評価によって、
自分の存在価値を決める。
数字によって、
自分の幸福を測る。
しかし、
人生は、
ランキングではありません。
あなたには、あなたの時間があります。
あなたには、あなたの季節があります。
そして、あなたには、あなたにしか歩めない人生があります。
比較することを、
完全にやめる必要はないのかもしれません。
比較することは、
人間に備わった、
自然な能力の一つだからです。
しかし、
比較の中に、自分の価値を預ける必要はありません。
大切なのは、
誰かより優れた自分になることではなく、
誰かの人生を追いかけ続けることでもありません。
「自分自身が、本当に大切にしたいものは何か。」
「自分自身は、どのように生きたいのか。」
その問いに、
少しずつ耳を傾けていくこと。
「誰かになる」ことから、
「自分を生きる」ことへ。
それが、
比較の多い現代社会の中で、
私たちが、
自分自身の人生を取り戻すための、
大切な一歩なのかもしれません。
asa information 9月号⑤ 私たちは、なぜ現実をありのままに見ることが難しいのか? 「こころ」と「意識・認識」の違いから考える、真実を観る力
私たちは、
毎日、
さまざまな出来事を経験しています。
人と会う。
言葉を聞く。
景色を見る。
ニュースを読む。
そして、
その一つひとつに対して、
何かを感じ、
考え、
意味を与えています。
しかし、
ここで、
一つの大切な疑問が生まれます。
「私たちが見ている世界は、本当に "現実そのもの" なのでしょうか?」
それとも、
私たちは、
自分自身の内側を通して、
世界を見ているのでしょうか。
9月号④から、9月号⑤へ
9月号④では、
子どもたちの自殺や、
心の不調を通して、
現代社会が抱える問題について考えました。
そこでは、
強いストレス。
不安。
孤立。
人間関係。
情報環境。
そして、
自然とのつながりを失いつつある現代社会について触れました。
では、
そもそも、
私たちが「苦しい」と感じるとき、
その苦しさは、
どこで生まれているのでしょうか。
出来事そのものが、
私たちを苦しめているのでしょうか。
それとも、
その出来事を、
私たちがどのように受け取るかによって、
苦しさが生まれているのでしょうか。
ここで、
「こころ」と、
「意識・認識」という、
非常に重要なテーマが見えてきます。
第1章
「こころ」とは何だろう
私たちは、
日常的に、
「心が疲れた」
「心が傷ついた」
「心が落ち着く」
という言葉を使います。
しかし、
「こころとは何か」
と尋ねられると、
簡単には答えられません。
現代科学では、
「こころ」という、
一つの臓器が存在するわけではありません。
私たちが「こころ」と呼んでいるものには、
さまざまな働きが含まれています。
例えば、
感情。
思考。
記憶。
欲求。
意欲。
想像。
判断。
これらは、
脳のさまざまな働きと、
身体の状態、
そして、
人間関係や環境との相互作用の中で生まれます。
つまり、
「こころ」は、
一つの場所に存在するものというより、
「感じ、考え、記憶し、反応する、私たちの内面的な働き全体」
として捉えることができます。
第2章
では、「意識」とは何か
では、
「意識」とは何でしょうか?
例えば、
今、
あなたは、
この記事を読んでいます。
文字が見えている。
文章の意味を理解している。
椅子に座っている感覚がある。
周囲の音が聞こえる。
これらの体験を、
「自分はいま経験している」と気づいている状態。
それが、
意識の一つの側面です。
簡単に言えば、
「意識とは、"今、自分が何かを経験している” と気づいている状態」
と考えることができます。
しかし、
意識には、
まだ多くの謎があります。
脳科学が大きく進歩した現在でも、
「なぜ脳の活動から主観的な体験が生まれるのか」という問題について、
完全な答えは見つかっていません。
第3章
「認識」とは何か
「認識」は、
意識とよく似た言葉ですが、
少し意味が異なります。
例えば、
一輪の花を見る。
まず、
目から、
色や形などの情報が入ります。
そして、
脳が、
「これは花だ」
と理解する。
さらに、
「きれいだ」
「春らしい」
「昔の思い出を思い出す」
など、
さまざまな意味づけが起こります。
このように、
外の世界から入ってきた情報を、
自分の経験や知識と結びつけ、
「何であるか」を理解する働き。
これが、
認識です。
つまり、
非常に簡単に整理すると、
| こころ | 感情・思考・欲求・記憶などを含む内面的な働き |
| 意識 | 自分や周囲で起きていることに気づいている状態 |
| 認識 | 入ってきた情報を理解し、意味づけする働き |
もちろん、
実際には、
この三つを、
完全に分けることはできません。
それぞれは、
互いに深く関係しています。
第4章
「認識」は、こころの作用なのか
ここで、
最初の疑問に戻ります。
認識とは、こころの作用なのでしょうか?
広い意味では、
そう考えることができます。
私たちが、
何かを認識するとき、
単純に、
カメラのように、
現実を記録しているわけではありません。
そこには、
過去の記憶。
経験。
知識。
価値観。
感情。
期待。
恐怖。
願望。
など、
さまざまなものが影響しています。
つまり、
認識は、
「こころ」から完全に独立しているわけではありません。
例えば、
同じ言葉を聞いても、
人によって受け取り方は違います。
「大丈夫?」
という一言でも、
ある人は、
「心配してくれている」
と感じる。
しかし、
別の人は、
「自分は弱いと思われているのではないか」
と感じるかもしれません。
言葉は同じです。
しかし、
認識は違います。
なぜでしょうか?
それは、
その人が、
過去に経験してきたことや、
現在の感情、
そして、
自分自身が持つ価値観によって、
受け取り方が変わるからです。
第5章
私たちは「現実」を見ているのか
ここからが、
今回の最も重要なテーマです。
私たちは、
世界を、
そのまま見ているのでしょうか?
例えば、
道を歩いているとします。
向こうから来た知人が、
こちらに気づいたように見えた。
しかし、
挨拶をしなかった。
このとき、
さまざまな解釈ができます。
「嫌われているのかもしれない」
「怒っているのだろうか」
「何か悪いことをしただろうか」
しかし、
実際には、
相手は、
考え事をしていて、
気づかなかっただけかもしれません。
ここで、
実際に起きた事実は、
「相手が挨拶をしなかった。」
ということだけです。
しかし、
私たちの内側では、
その瞬間に、
さまざまな物語が作られます。
「嫌われたのかもしれない」
「自分は悪く思われている」
この、
「出来事」と、
「出来事について自分が作り出した意味」は、
同じではありません。
第6章
私たちは「フィルター」を通して世界を見る
人間は、
一度に、
すべての情報を処理することはできません。
そのため、
脳は、
必要と思われる情報を選び、
重要なものに注意を向けています。
さらに、
過去の経験や記憶を利用して、
次に何が起こるのかを予測します。
これは、
私たちが生きていくために必要な能力です。
しかし、
この働きによって、
私たちは、
現実を、
完全にそのまま見ているわけではありません。
私たちは、
ある意味で、
「自分自身の記憶や経験というフィルターを通して、世界を見ている」
のです。
例えば、
過去に人間関係で傷ついた経験がある人は、
他人の何気ない言葉に対しても、
警戒心を持つことがあります。
過去に失敗した経験が強ければ、
新しいことに挑戦するとき、
「また失敗するかもしれない」
と考えやすくなることがあります。
これは、
弱さではありません。
人間の脳が、
過去の経験から、
未来を予測しようとする、
自然な働きの一つなのです。
第7章
感情は、認識を変える
私たちは、
感情によっても、
世界の見え方が変わります。
悲しいとき。
不安なとき。
怒っているとき。
同じ出来事でも、
違った意味に見えることがあります。
例えば、
不安が強いときには、
小さな出来事でも、
大きな危険に感じることがあります。
反対に、
安心しているときには、
同じ出来事を、
それほど重大に感じないこともあります。
つまり、
「私たちは、世界を見ていると同時に、自分自身の心の状態を通して世界を見ている」
とも言えるのです。
第8章
「ありのままに見る」とは、どういうことか
では、
「現実をありのままに見る」とは、
一体、
どういうことでしょうか。
それは、
感情をなくすことではありません。
思考を止めることでもありません。
また、
「何も考えない」
ということでもありません。
むしろ、
大切なのは、
「今、自分が何を感じ、何を考え、どのように解釈しているのかに気づくこと」
です。
例えば、
「自分は嫌われている」
と思ったとします。
そのとき、
すぐに、
「これは事実だ」
と決めるのではなく、
少し立ち止まってみる。
そして、
自分自身に問いかけます。
「実際に起きたことは何だろう。」
「自分は、それをどのように解釈したのだろう。」
この二つを分けて考えてみる。
それだけでも、
私たちは、
自分の認識のフィルターに、
少しずつ気づくことができます。
第9章
「考える前に感じる」
ここで、
9月号③のテーマ、
身体感覚を感じる力
が、
再び重要になります。
私たちは、
不安になると、
考えます。
「どうしよう」
「なぜこんなことになったのだろう」
「これからどうなるのだろう」
しかし、
思考が強くなりすぎると、
私たちは、
自分自身の身体の状態を、
感じにくくなることがあります。
そんなとき、
少しだけ、
身体へ意識を戻してみます。
呼吸を感じる。
足の裏を感じる。
手の温度を感じる。
肩の緊張を感じる。
お腹の動きを感じる。
ここでは、
「良い」
「悪い」
と判断する必要はありません。
ただ、
「今、どのような感覚があるのか。」
それを、
そのまま感じます。
これは、
9月号③で紹介した、
自律訓練法ともつながっています。
第10章
「感じる」と「考える」の間にある「間」
ここで、
これまで取り上げてきた、
「間」という考え方が重要になります。
何かが起きる。
↓
すぐに反応する。
通常、
私たちは、
このような反応を繰り返しています。
しかし、
その間に、
少しだけ、
「間」をつくることができます。
何かが起きる。
↓
まず感じる。
↓
少し立ち止まる。
↓
考える。
↓
行動する。
この、
わずかな「間」が、
私たちに、
自分自身の心の動きを観察する時間を与えてくれます。
怒りを感じた。
すぐに反応するのではなく、
まず、
「今、自分は怒っている」
と気づく。
不安になった。
すぐに、
未来を想像し続けるのではなく、
まず、
「今、自分は不安を感じている」
と気づく。
この、
自分自身を観る力は、
心理学でいう、
メタ認知
にもつながります。
第11章
東洋思想が考える「心」
東洋思想では、
「心」を、
単純に脳だけの働きとして考えません。
人間の身体。
呼吸。
感情。
精神。
そして、
自然環境。
これらを、
相互につながるものとして考えてきました。
アーユルヴェーダでは、
身体と精神は、
切り離されたものではなく、
互いに影響し合うものと考えられています。
また、
中国の伝統的な思想では、
季節。
自然。
身体。
感情。
これらの関係性が、
長い時間をかけて観察されてきました。
秋には、
空気が乾燥し、
気温が下がる。
日照時間も変化する。
こうした自然環境の変化の中で、
人間の心身も、
何らかの影響を受けます。
ここで重要なのは、
東洋思想が、
人間を、
「自然から切り離された存在ではなく、自然の循環の中で生きる存在」
として考えてきたことです。
第12章
ヴェーダの視点から見る「意識」
ヴェーダ哲学には、
「意識」について、
非常に深い探究があります。
ここでは、
現代科学とは異なる視点から、
人間の内面が考えられてきました。
ヴェーダーンタなどの思想では、
私たちが、
「自分自身だ」と思っているものについて、
さらに深く問いかけます。
身体。
感情。
思考。
記憶。
これらは、
すべて変化します。
しかし、
その変化を、
「自分は変化している」と気づいているものは、
何なのでしょうか。
例えば、
私たちは、
「私は悲しい」
と言います。
しかし、
「悲しみ」そのものは、
永遠に続くわけではありません。
悲しみが現れる。
そして、
変化していく。
その変化に、
気づいている存在がいる。
ヴェーダ哲学では、
この「気づいている」
という働きそのものについて、
深く探究してきました。
このような問いは、
現代の意識研究とも、
どこかで接点を持つ可能性があります。
第13章
真実を観るために、まず自分の認識を観る
私たちは、
社会問題について考えます。
地球環境について考えます。
政治。
経済。
科学。
人間関係。
しかし、
ここで、
一つの重要な問題があります。
「私たちは、それらを、どのような認識を通して見ているのでしょうか。」
どれほど情報を集めても、
自分自身の思い込みに気づかなければ、
都合のよい情報だけを、
集めてしまうかもしれません。
不安が強ければ、
危険な情報ばかりに、
注意が向くかもしれません。
自分の考えを守りたければ、
反対の意見を、
受け入れにくくなるかもしれません。
だから、
「真実を観る」ということは、
単に、
多くの情報を集めることではありません。
「自分自身が、どのようなフィルターを通して世界を見ているのかを知ること。」
それもまた、
「真実を観る力」の一つではないでしょうか。
最終章
現実を変える前に、現実の見え方に気づく
私たちは、
世界を変えようとします。
社会を変えようとします。
誰かを変えようとします。
しかし、
その前に、
一度、
自分自身に問いかけてみる。
「自分は、本当に現実をそのまま見ているのだろうか。」
「それとも、自分の記憶や経験、感情を通して見ているのだろうか。」
もちろん、
人間が、
完全にフィルターをなくすことは、
おそらくできません。
私たちは、
経験を持つ人間だからです。
しかし、
自分のフィルターの存在に気づくことはできます。
そして、
気づくことで、
私たちは、
少しだけ、
自分の思考から自由になれる
かもしれません。
自然を感じる。
身体を感じる。
感情を感じる。
思考を観る。
そして、
自分自身が、
どのように世界を見ているのかを観る。
それは、
すぐに答えを出すためではありません。
「ありのままを観るために、まず、自分自身の "観方” に気づく。」
これこそが、
「真実を観る眼力」へ向かう、
新しい第一歩なのかもしれません。
Feel the Autumn
asa information 9月号⑤
私たちは、なぜ現実をありのままに見ることが難しいのか
― 「こころ」と「意識・認識」の違いから考える、真実を観る力 ―
9月号①から⑤までの流れ
| 特集 | テーマ | 視点 |
|---|---|---|
| ① | 大雨・洪水・地球温暖化 | 地球と人類 |
| ② | 季節の変化と身体を整える力 | 自然と身体 |
| ③ | 自然の力を感じる力 | 身体感覚 |
| ④ | なぜ、子どもたちの心は追い詰められるのか | こころと社会 |
| ⑤ | 私たちは、なぜ現実をありのままに見ることが難しいのか | 意識と認識 |
9月号全体は、
単なる時事情報や健康情報ではなく、
「外側の世界を観ることから始まり、次第に人間の内面へと向かっていく旅」
になっています。
そして、
最終的に、
「世界を観ている自分自身とは何者なのか」
という、
より深い問いへと進んでいきます。
asa information 9月号④ なぜ、子どもたちの心は追い詰められるのか ― 自殺・心の不調から見えてくる現代社会と、「自然とのつながり」を取り戻す意味 ―
私たちは便利になった社会を生きています。
いつでも、
誰とでも連絡を取ることができる。
知りたい情報は、
スマートフォンですぐに手に入る。
医療も進歩し、
生活はかつてないほど便利になりました。
しかし、その一方で、
私たちの「心」は、
本当に豊かになっているのでしょうか。
特に今、
見過ごすことのできない問題があります。
それが、
子どもや若者たちの心の問題です。
警察庁の統計では、2025年(令和7年)の自殺の状況が公表されています。近年、日本全体の自殺者数が長期的には減少傾向を示してきた一方で、子ども・若年層の自殺は深刻な社会問題として高い水準が続いています。政府の自殺対策白書でも、「若者の自殺」は重要な課題として取り上げられています。
(厚生労働省)
そして、この問題を、
単純に、
「本人の心が弱いから」
「家庭環境の問題だから」
「学校が悪いから」と、
一つの原因だけで説明することはできません。
そこには、
家庭。
学校。
人間関係。
経済的な問題。
将来への不安。
SNS。
情報環境。
孤立。
そして、
現代社会そのもののあり方が、
複雑に関係している可能性があります。
今回のasa information 9月号④では、
自殺や精神的な不調という深刻な問題から、現代社会と人間の心身の関係を考えます。
そして、
科学的な視点だけではなく、
これまで人間と自然の関係を大切にしてきた、
東洋思想やヴェーダの視点からも、
「人間が心身ともに健やかに生きるために必要なもの」を考えてみたいと思います。
第1章
日本の子どもたちに何が起きているのか
子どもの自殺という問題は、
単なる統計上の数字ではありません。
その一つひとつの数字の向こう側には、
かけがえのない人生があります。
日本政府も、
子ども・若者の自殺を、
重要な社会課題として位置づけています。
2025年版の自殺対策白書でも、若者の自殺をめぐる状況が大きく取り上げられています。(厚生労働省)
世界に目を向けても、
思春期のメンタルヘルスは、
大きな問題となっています。
世界保健機関(WHO)によれば、
世界では10~19歳のおよそ7人に1人が精神的な健康問題を経験するとされています。
また、
うつや不安などの精神的な問題は、
思春期の健康に大きな影響を与える重要な要因です。
つまり、これは、
一部の特別な人だけに起きる問題ではありません。
現代社会に生きる、
多くの子どもたちに関わる問題なのです。
第2章
自殺は、一つの原因だけでは起こらない
ここで、
非常に大切なことがあります。
自殺を、
一つの原因で説明してはいけません。
例えば、
「いじめがあったから」
「勉強が苦しかったから」
「SNSが原因だから」
というように、
単純化することはできません。
人が追い詰められていく背景には、
複数の要因が重なっていることがあります。
例えば、
【家庭の問題】
家庭内の不和。
経済的な困難。
虐待。
親との関係。
【学校での問題】
成績へのプレッシャー。
友人関係。
いじめ。
進路への不安。
集団生活への適応の難しさ
【社会的な問題】
将来への不安。
貧困。
孤立。
相談できる人がいないこと。
【情報環境の問題】
SNSによる人間関係の負担。
他人との比較。
誹謗中傷。
「常に誰かとつながっていなければならない」という圧力。
そして、
こうした要因が、
一つではなく、
いくつも重なったとき、
人の心は大きな負担を受ける可能性があります。
だからこそ、
この問題を、
個人の「心の弱さ」として片付けてはいけないのです。
「子ども達が苦しんでいるという事は、子どもだけの問題ではない。」
「私たちの社会そのものに、何かを問いかけている可能性がある。」
第3章
「考えすぎる脳」は、なぜ疲れてしまうのか
私たちの脳は、
常に情報を処理しています。
学校では、
勉強。
テスト。
成績。
友人関係。
家に帰れば、
スマートフォン。
SNS。
動画。
ゲーム。
ニュース。
メッセージ。
現代の子どもたちは、
大人以上に、
膨大な情報環境の中で生活しています。
そして、
人間の脳は、
単に情報を受け取っているだけではありません。
その情報に対して、
常に意味を与えています。
「あの人は自分をどう思っているのだろう」
「自分は嫌われていないだろうか」
「成績が下がったらどうしよう」
「将来は大丈夫だろうか」
「みんなは楽しそうなのに、なぜ自分だけ……」
このような思考が、
繰り返されることがあります。
脳は「今ここ」にいない
人間には、
過去を思い出す能力があります。
そして、
未来を想像する能力もあります。
これは、
人類が発展するために、
非常に重要な能力でした。
しかし、
その能力が過剰に働くと、
私たちは、
「今ここ」ではなく、
過去や未来の中で生き続けることになります。
過去を思い出して後悔する。
未来を想像して不安になる。
他人と自分を比較する。
そして、
自分自身を責める。
身体は、
今ここに存在しています。
しかし、
意識だけが、
過去と未来を行ったり来たりしている。
これが長く続けば、
心身は休まりにくくなります。
第4章
ストレスと脳・身体の関係
強いストレスを受けると、
私たちの身体では、
さまざまな反応が起こります。
脳は危険を察知すると、
身体を、
「戦う」
「逃げる」
ための状態へ準備させます。
心拍数が変化する。
筋肉が緊張する。
呼吸が浅くなる。
身体は、
緊張状態へと入ります。
これは、
本来、
生命を守るために備わった重要な仕組みです。
しかし、
現代社会のストレスは、
猛獣から逃げれば終わるようなものではありません。
学校。
仕事。
人間関係。
将来への不安。
経済的な問題。
SNS。
こうしたストレスは、
何日も、
何週間も、
場合によっては何年も続きます。
すると、
脳も身体も、
十分に休息できなくなることがあります。
脳内物質だけで「心」は説明できない
精神的な不調について、
セロトニンやドーパミンなどの、
「脳内物質」だけで説明されることがあります。
確かに、
神経伝達物質は、
気分や意欲、
感情、
睡眠などに深く関わっています。
しかし、
「セロトニンが少ないから、うつ病になる」
というような単純な説明だけでは、
人間の心を理解することはできません。
精神の状態には、
脳の働きだけではなく、
睡眠。
身体活動。
人間関係。
生活環境。
ストレス。
遺伝的要因。
過去の経験。
社会的な環境。
さまざまな要素が関係しています。
つまり、
心は、
脳だけで孤立して存在しているのではありません。
「脳は身体とつながり、身体は環境とつながっている。」
この視点が、
これからますます重要になるのではないでしょうか。
第5章
思考から「身体感覚」へ戻る
ここで、
9月号③で取り上げた、
身体感覚を感じる力
が重要になります。
私たちは、
苦しくなると、
さらに考えます。
「どうすればいいのだろう」
「なぜ自分はこうなのだろう」
「これからどうなるのだろう」
もちろん、
問題を考えることは必要です。
しかし、
心が極度に疲れているとき、
さらに考え続けることで、
思考の迷路から抜け出せなくなることもあります。
そんなとき、
一度、
意識を身体へ戻してみる。
足が地面に触れている。
背中が椅子に触れている。
手は温かいのか。
冷たいのか。
呼吸は浅いのか。
深いのか。
肩に力が入っているのか。
こうした、
身体から届く情報に注意を向けます。
これは、
「悩みを考えないようにする」
ということではありません。
まず、
自分が今、
どのような状態にあるのかを、
身体から感じ取ることです。
第6章
自律訓練法と「身体へ意識を戻す」ということ
9月号③では、
身体感覚を感じる方法の一つとして、
自律訓練法を紹介しました。
自律訓練法では、
手足の重さ。
温かさ。
呼吸。
心臓の動きなどに、
静かに注意を向けます。
すると、
普段は、
外の世界や思考に向かっていた意識が、
少しずつ、
自分自身の身体へ戻ってきます。
ここで重要なのは、
「何か特別な感覚を得ること」ではありません。
今、身体で何が起きているのかに気づく。
それだけでも、
一つの大切な訓練になります。
ただし、自律訓練法は医療や心理療法そのものの代替ではありません。精神的な症状が強い場合や自傷・自殺を考えている場合には、自己流で抱え込まず、医療機関や専門の相談窓口につながることが重要です。
第7章
日本には「あるがまま」を大切にする思想がある
日本には、
独自の心理療法として、
「森田療法」
があります。
森田療法では、
不安や恐怖、
不快な感情を、
無理に消そうとすることよりも、
まず、
その感情の存在を認め、
現実の生活の中で、
できることに取り組んでいく考え方を大切にします。
ここでいう、
「あるがまま」とは、
何もしないということではありません。
不安がある。
苦しみがある。
しかし、
その感情を完全に消そうとして、
さらに苦しむのではなく、
まず、
「今、自分は不安を感じている」と気づく。
そのうえで、自分が今できることを行う。
これは、
9月号③で取り上げた、
「感じる」
というテーマとも、
深くつながっています。
第8章
自然から離れた人間
ここで、
もう一度、
人間と自然の関係について考えてみたいと思います。
現代社会では、
私たちは、
自然をコントロールする能力を高めてきました。
暑ければ、
エアコンを使う。
暗ければ、
照明をつける。
遠くへ行くために、
車や飛行機を使う。
食べ物は、
季節を問わず手に入ります。
これは、
人類の大きな進歩です。
しかし、
私たちは、
便利になった一方で、
自然のリズムから、
少しずつ離れてきたのかもしれません。
朝日とともに目覚める。
太陽の光を浴びる。
風を感じる。
歩く。
季節の食べ物を食べる。
夜になれば、
身体を休める。
かつての人間は、
自然の変化の中で生活していました。
そして、
その自然との関係を、
古代の人々は、
医学や哲学の中にも取り入れてきました。
第9章
ヴェーダが考える「人間と自然」
アーユルヴェーダでは、
人間を、
自然から切り離された存在とは考えません。
人間の身体も、
自然界と同じ法則の中にある
と考えます。
空。
風。
火。
水。
地。
五大元素は、
単なる物質の分類ではありません。
自然界の性質を理解するための、
一つの世界観です。
例えば、
秋から冬にかけて、
空気は、
乾燥し、
冷たくなります。
風も強くなります。
アーユルヴェーダでは、
こうした、
乾燥。
冷え。
動き。
不規則性といった性質が、
ヴァータと関連づけられます。
そして、
人間もまた、
自然環境の変化から影響を受ける存在として考えられます。
これは、
現代医学とは異なる、
伝統医学の概念です。
しかし、
そこには、
一つの重要な視点があります。
「人間は、自然の外側に存在しているわけではない。」
ということです。
Protecting lives
第10章
東洋思想が見ていた「季節と心」
中国の五行思想でも、
自然界と人間は、
相互に関係するものとして考えられてきました。
木。
火。
土。
金。
水。
これらの変化と循環の中に、
人間の身体や感情も位置づけられています。
秋は、
「金」と関連づけられ、
伝統的には、
肺や、
「悲しみ」「憂い」との関係が語られてきました。
もちろん、
現代科学の立場から、
「秋だから悲しくなる」と、
単純に断定することはできません。
しかし、
季節の変化が、
私たちの睡眠、
活動量、
光への曝露、
生活リズムなどに影響し、
心身の状態と関係することは十分に考えられます。
東洋思想は、
何千年も前から、
人間を、
自然から切り離さず、
「環境との関係の中で生きる存在」
として見てきました。
この考え方には、
現代社会が、
もう一度考えるべき大切な視点があるのかもしれません。
第11章
子どもたちに必要なのは「もっと頑張ること」なのか
子どもたちは、
常に評価されています。
成績。
偏差値。
運動能力。
学校生活。
人間関係。
そして、
SNSの世界では、
見た目。
人気。
「いいね」の数。
フォロワーの数まで、
比較の対象になることがあります。
しかし、
人間の価値は、
数字だけで測れるのでしょうか。
効率。
成果。
競争。
比較。
こうした価値観だけが強くなると、
人間は、
「できる自分」と、
「できない自分」を比較し続けることになります。
そして、
「できない自分には価値がない」
と考えてしまう人も出てくるかもしれません。
しかし、
本来、
人間は、
機械ではありません。
疲れることもあります。
失敗することもあります。
休みたい日もあります。
悲しい日もあります。
自然界に、
一年中、
花を咲かせ続ける植物はありません。
春には芽吹き、
夏には成長し、
秋には実り、
冬には休む。
人間もまた、
常に成長し続けなければならない存在ではないのかもしれません。
第12章
「自然の中で生きる」ということ
自然に触れることだけで、
精神疾患や自殺を防げる、
ということではありません。
これは、
絶対に単純化してはいけません。
深刻な精神疾患には、
適切な医療や心理的支援、
社会的支援が必要です。
しかし、
私たちは、
心身の健康を考えるとき、
「薬」や「治療」だけではなく、
日常生活の環境にも、
もう少し目を向ける必要があるのではないでしょうか。
十分な睡眠。
適度な運動。
安心できる人間関係。
孤立しない環境。
自然光を浴びる。
外を歩く。
季節の変化を感じる。
土に触れる。
風を感じる。
これらは、
特別なことではありません。
しかし、
人間が、
人間らしく生きるための、
基本的な環境
なのかもしれません。
第13章
「感じる力」を取り戻すこと
現代社会では、
私たちは、
「考える能力」を、
非常に高めてきました。
しかし、
考えることばかりに意識が集中すると、
自分自身の身体が発している声を、
聞き逃してしまうことがあります。
疲れている。
しかし、
頑張る。
眠れていない。
しかし、
スマートフォンを見る。
苦しい。
しかし、
誰にも言わない。
身体は、
さまざまなサインを出しています。
心もまた、
何らかの形で、
助けを求めているかもしれません。
だからこそ、
必要なのは、
「もっと強くなること」だけではありません。
時には、
立ち止まる。
呼吸を感じる。
身体を感じる。
自然を感じる。
そして、
「今、自分はどうしているのだろう」
と、自分自身に問いかけることです。
最終章
子どもたちの自殺という問題は、社会への問いかけである
子どもが、
未来を生きることに希望を見いだせなくなっているとしたら。
それは、
子どもだけの問題ではありません。
家庭だけの問題でもありません。
学校だけの問題でもありません。
社会全体が、
自分自身に問いかけなければならない問題です。
私たちは、
何を大切にしてきたのか。
何を豊かさと考えてきたのか。
子どもたちに、
どのような社会を残そうとしているのか。
科学技術は、
これからも進歩するでしょう。
AIも、
さらに発展するでしょう。
社会は、
ますます便利になるでしょう。
しかし、
どれほど社会が便利になっても、
人間が、
自分自身の身体を感じられない。
他人とのつながりを感じられない。
自然とのつながりを感じられない。
そして、
生きていることそのものを感じられないとしたら、
私たちは、
本当に豊かになったと言えるのでしょうか?
ヴェーダや東洋思想は、
長い歴史の中で、
人間を、
自然の一部として捉えてきました。
人間は、
自然を支配する存在ではない。
自然と切り離された存在でもない。
人間もまた、自然の循環の中に生きる存在である。
この視点を、
私たちは、
もう一度取り戻す必要があるのかもしれません。
asa information 9月号④
なぜ、子どもたちの心は追い詰められるのか
9月号①では、
地球環境を見つめました。
9月号②では、
季節の変化と身体の関係を考えました。
9月号③では、
自然と身体を感じる力について考えました。
そして、
9月号④では、
その先にある、
人間の心と社会の問題
に目を向けました。
自然を感じること。
身体を感じること。
自分自身の心の状態に気づくこと。
それは、
すべての問題を解決する魔法ではありません。
しかし、
私たちが、
自分自身を見失わないための、
大切な第一歩になるのではないでしょうか。
そして、
一人ひとりが、
自分の苦しみに気づき、
誰かの苦しみにも気づくことのできる社会へ。
それこそが、
これからの時代に必要な、
新しい豊かさなのかもしれません。
【大切なお知らせ】
この記事は、自殺や精神的な不調について考えるための一般的な情報です。自分自身や身近な人に「死にたい」「消えたい」などの切迫した気持ちがある場合は、一人で抱え込まず、家族、学校、医療機関、地域の相談窓口など、信頼できる人や専門機関に早急につながってください。
子ども・若者の自殺は、個人の問題としてではなく、社会全体で取り組むべき重要な課題です。政府も自殺対策白書を通じ、若者の自殺を重点的な課題として位置づけています。
(厚生労働省)
asa information 9月号 ③ 自然の力を感じる力
自然の変化を感じ取る力
現代社会では、
私たちは、
かつてないほど快適な環境の中で生活しています。
暑ければ、
エアコンをつける。
寒ければ、
暖房をつける。
夜になっても、
照明によって明るい生活を送ることができます。
これは、
科学技術がもたらした大きな恩恵です。
しかし、
便利で快適な生活の中では、
自然の変化を、
自分自身の身体で感じ取る機会が、
少しずつ減っているのかもしれません。
都市生活の中で失われつつある「身体感覚」
都市で生活していると、
一日の大部分を、
建物の中で過ごすことも珍しくありません。
朝起きる。
室内で過ごす。
車や電車で移動する。
職場や店舗に入る。
そして、
再び室内へ戻る。
そこでは、
気温が管理され、
照明によって明るさが保たれています。
さらに、
私たちの周囲には、
スマートフォン。
パソコン。
インターネット。
SNS。
動画。
ニュース。
広告。
さまざまな情報が、
絶え間なく流れています。
現代人は、
かつてないほど多くの刺激の中で、
生活しています。
問題は、
科学技術そのものではありません。
スマートフォンも、
インターネットも、
私たちの生活を豊かにする、
素晴らしい道具です。
しかし、
常に外から情報が入ってくる環境では、
自分自身の内側から届く、
小さな感覚に注意を向ける時間が、
少なくなってしまうことがあります。
私たちは「感じる前に考えている」のかもしれない
例えば、
外へ出て、
冷たい風が肌に触れたとします。
その瞬間、
本来は、
まず、
「冷たい」
という身体的な感覚が起こります。
しかし私たちは、
すぐに、
「今日は寒いな」
「もう秋になった」
「風邪をひくかもしれない」
と、
次々に考え始めます。
つまり、
身体が感じたものに、
すぐ思考が加わるのです。
もちろん、
考えることは悪いことではありません。
人間は、
経験をもとに考え、
判断し、
未来を予測する能力を持っています。
しかし、
私たちは時として、
実際に身体が感じているものよりも、自分の考えや過去の経験を通して世界を見ていることがあります。
例えば、
身体が疲れている。
しかし、
「まだ頑張らなければならない」
と考える。
眠い。
しかし、
「もう少しスマートフォンを見よう」
と考える。
お腹が空いていない。
しかし、
「食事の時間だから食べなければならない」
と考える。
身体から発せられる感覚よりも、
頭の中にある「こうあるべき」が優先されてしまう。
このような状態が続けば、
自分自身の身体が何を感じ、
何を必要としているのか、
分かりにくくなっていくかもしれません。
「ありのままに感じる」とは何か
では、
ありのままに感じるとは、
一体どういうことでしょうか?
それは、
特別な能力ではありません。
また、
思考を完全になくすことでもありません。
大切なのは、
何かを感じた瞬間に、
すぐ判断を下さないことです。
例えば、
「今日は何となく身体が重い」
と感じたとします。
そのとき、
すぐに、
「病気かもしれない」
「年齢のせいだ」
「疲れているに違いない」
と結論づけるのではなく、
まず、
その感覚を観察してみる。
身体のどこが重いのか。
昨日と何が違うのか。
冷えているのか。
眠いのか。
筋肉が疲れているのか。
気持ちが沈んでいるのか。
ただ、
自分自身の内側で起きていることを、
丁寧に観察する。
これが、
「感じる力」を取り戻す、
一つの入り口になるのではないでしょうか。
思考のフィルターを一度外してみる
私たちは、
常に世界を、
「自分」というフィルターを通して見ています。
過去の経験。
成功した記憶。
失敗した記憶。
知識。
常識。
好き嫌い。
価値観。
こうしたものが、
私たちのものの見方をつくっています。
例えば、
雨が降っている。
ある人は、
「嫌な天気だ」
と感じる。
別の人は、
「植物にとって恵みの雨だ」
と感じる。
さらに別の人は、
雨音を心地よいと感じるかもしれません。
同じ雨を見ても、
人によって感じ方は異なります。
つまり、
私たちは、
雨そのものを見ているだけではありません。
そこに、
自分自身の記憶や価値観を重ねています。
だからこそ、
時には、
自分の判断を少し脇に置いて、
目の前にあるものを、
もう一度見てみることも大切です。
「これは何だろう?」
と考える前に、
まず、
「今、何を感じているのだろう?」
と問いかけてみる。
この小さな違いが、
感性を磨くための、
大切な第一歩になるかもしれません。
「体感から直接感じる力」を磨く
では、
実際に、
どのようにすれば、
身体からの感覚を感じ取りやすくなるのでしょうか。
特別な修行をする必要はありません。
日常生活の中で、
少し意識を変えるだけでも、
自分自身の感覚に気づきやすくなります。
① 五感を意識して自然に触れる
自然の中を歩くとき、
「何キロ歩いた」
「何分歩いた」
ということだけに意識を向けるのではなく、
五感を使ってみます。
風は、
どの方向から吹いているのか。
肌に触れる空気は、
冷たいのか。
湿っているのか。
乾燥しているのか。
空には、
どのような雲があるのか。
どのような音が聞こえるのか。
木々は、
どのように揺れているのか。
重要なのは、
「これは何という鳥だろう」
「この木は何という名前だろう」
と知識を増やすことだけではありません。
まずは、
名前をつける前に、感じる。
ことです。
ただ、
見る。
聞く。
触れる。
香りを感じる。
これだけでも、
普段とは違った感覚が、
少しずつ開かれていくかもしれません。
② 身体の内部に意識を向ける
私たちは、
外側の世界には、
非常に注意を向けています。
スマートフォンの画面。
ニュース。
他人の言葉。
仕事。
予定。
しかし、
自分の身体の内部には、
意外なほど注意を向けていません。
そこで、
時々、
静かに座り、
自分の身体に意識を向けてみます。
呼吸は、
浅いのか。
深いのか。
肩に力が入っているのか。
顎を噛み締めていないか。
手足は冷えていないか。
心臓は、
どのように動いているのか。
お腹は、
緊張しているのか。
リラックスしているのか。
こうした、
身体の内部の状態を感じ取る能力は、
内受容感覚(インターオセプション)
と呼ばれています。
自分の身体から発せられる、
小さなサインに注意を向けることは、
自分自身の状態を知るためにも役立ちます。
③ 感じたことを、すぐ言葉にしない
これは、
非常に簡単でありながら、
現代人にとって難しい訓練かもしれません。
何かを感じたとき、
すぐに、
「暑い」
「寒い」
「気持ちいい」
「嫌だ」
と、
言葉にしない。
ほんの数秒だけ、
その感覚を、
言葉にする前に観察してみます。
例えば、
風を感じたとき。
「涼しい」
と判断する前に、
肌に触れている感覚を、
そのまま味わってみる。
呼吸をするとき。
「深呼吸しよう」
と考える前に、
空気が鼻から入り、
胸やお腹が動き、
そして、
息が出ていく過程を感じてみる。
私たちは、
言葉によって世界を理解しています。
しかし、
言葉になる前の、
身体的な感覚にも、
大切な情報が含まれています。
④ 「判断しない時間」をつくる
人間の脳は、
常に、
判断しています。
これは危険か。
これは安全か。
好きか。
嫌いか。
必要か。
必要ではないか。
生きていくために、
判断する能力は必要です。
しかし、
一日の中で、
少しだけ、
判断しない時間をつくってみる。
空を見て、
評価しない。
花を見て、
名前を調べない。
音を聞いて、
何の音か考えない。
ただ、
そこにあるものを感じる。
これは、
自然を理解するためというよりも、
自分自身の意識が、
常に「考えること」に占領されないための時間です。
⑤ 自律訓練法で「身体の声」を感じる
ここまで、
自然に触れる。
五感を使う。
身体の内部に意識を向ける。
すぐに判断しない。
という方法をご紹介してきました。
そして、
もう一つ、
「身体感覚を感じる力」を磨くために役立つ方法があります。
それが、
『自律訓練法』
です。
自律訓練法というと、
「リラックスするための方法」
というイメージを持つ人が多いかもしれません。
もちろん、
心身をリラックスさせることも大切な目的の一つです。
しかし、
自律訓練法には、
もう一つ重要な側面があります。
それは、
普段は意識することの少ない、自分自身の身体感覚に注意を向けること
です。
自律訓練法とは何か
自律訓練法は、
20世紀初頭にドイツの精神科医ヨハネス・ハインリヒ・シュルツによって体系化された心理生理学的なリラクセーション法です。
身体のある部分に意識を向けながら、
一定の言葉を心の中で静かに繰り返します。
例えば、
「右腕が重たい」
「右腕が温かい」
と、
ゆっくり心の中で感じていきます。
すると、
普段はほとんど意識していない、
腕の重さ。
皮膚の温度。
血流の感覚。
筋肉の緊張。
身体の内側の変化などに、
少しずつ注意が向くようになります。
重要なのは、
「本当に重たくしよう」
「温かくしよう」と、
無理に身体を変えようとすることではありません。
あくまでも、
「今、自分の身体で何が起きているのかを静かに感じる。」
これが、
自律訓練法の大切なポイントです。
なぜ身体感覚を感じやすくなるのか
私たちは、
外の世界から、
膨大な情報を受け取っています。
スマートフォンの画面。
仕事。
会話。
音。
映像。
ニュース。
人間関係。
こうした外部からの情報に意識が集中していると、
身体から送られてくる小さな情報は、
意識されにくくなります。
しかし、
自律訓練法では、
一度、
外の世界から少し距離を置き、
注意を自分の身体へ向けます。
すると、
脳は、
身体から送られてくる情報を、
より丁寧に処理するようになります。
身体感覚と脳の関係
私たちの身体には、
常にさまざまな感覚情報があります。
例えば、
皮膚から伝わる、
温度。
圧力。
触れられた感覚。
筋肉や関節から伝わる、
身体の位置。
筋肉の緊張。
手足の動き。
さらに、
心臓の鼓動。
呼吸。
胃腸の状態など、
身体の内側からも、
多くの情報が脳へ送られています。
こうした身体からの情報は、
脳のさまざまな領域で処理されています。
その一つが、
体性感覚野
です。
体性感覚野とは
体性感覚野は、
主に脳の頭頂葉にある領域で、
身体から送られてくる、
触覚。
温度感覚。
圧力。
痛覚。
身体各部の位置に関する感覚などの処理に重要な役割を果たしています。
例えば、
目を閉じていても、
自分の手が、
どこにあるのか分かります。
これは、
筋肉や関節などから送られてくる情報を、
脳が処理しているからです。
また、
腕に意識を向けることで、
今まで気づかなかった、
筋肉の緊張や、
皮膚の温度、
腕の重さなどを感じることがあります。
自律訓練法は体性感覚野を「活性化する」のか
ここで、
少し大切なことがあります。
自律訓練法によって、
体性感覚野だけが単純に「オンになる」と考えるのは正確ではありません。
脳は、
一つの部分だけが独立して働いているわけではないからです。
しかし、
身体の特定の部位に注意を集中させることによって、
その身体からの感覚情報に関係する神経ネットワークの活動や情報処理が高まると考えられます。
例えば、
右腕に意識を向ける。
すると、
皮膚。
筋肉。
関節などから伝わる感覚情報に、
脳の注意が向きます。
つまり、
自律訓練法では、
単に「リラックスする」のではなく、
意識を身体へ向ける
ということを繰り返しています。
この繰り返しによって、
普段は思考や外部情報に向いている注意を、
自分自身の身体感覚へ向ける練習になるのです。
身体を「考える」のではなく、身体を「感じる」
例えば、
自分の右腕に意識を向けたとします。
そのとき、
「右腕は筋肉と骨でできている」
「上腕二頭筋がある」
と考える必要はありません。
それは、
身体についての知識です。
自律訓練法で大切なのは、
知識ではなく、
体感です。
右腕は、
重く感じるだろうか。
温かいだろうか。
冷たいだろうか。
力が入っているだろうか。
何も感じないだろうか。
どのような感覚でも構いません。
大切なのは、
「正しく感じなければならない」と考えないことです。
自律訓練法を始めてみましょう
それでは、
初心者でも取り組みやすい、
基本的な方法をご紹介します。
最初は、
1回5分程度から始めても十分です。
【準備】
静かで、
比較的リラックスできる場所を選びます。
椅子に座っても、
ベッドや床に横になっても構いません。
ただし、
眠ってしまうほど疲れているときや、
眠気が強いときは、
椅子に座って行うほうがよいでしょう。
服装は、
身体を締めつけないものが理想です。
そして、
スマートフォンは、
できれば少し離れた場所に置きます。
第1段階
「手足が重たい」
まず、
目を軽く閉じます。
無理に深呼吸する必要はありません。
普段どおりの自然な呼吸を続けます。
そして、
心の中で、
ゆっくりと、
こう唱えます。
「右腕が重たい」
「右腕が重たい」
最初は、
何も感じなくても構いません。
次に、
左腕。
右脚。
左脚へと、
ゆっくり意識を向けていきます。
あるいは、
初心者の場合は、
全身に向けて、
「手足が重たい」
と繰り返してもよいでしょう。
ここで大切なのは、
身体を本当に重くしようとしないことです。
ただ、
身体に意識を向けます。
すると、
筋肉の力が少し抜け、
「何となく重い」
という感覚が現れることがあります。
第2段階
「手足が温かい」
次に、
身体の温かさに意識を向けます。
心の中で、
静かに、
「右腕が温かい」
「右腕が温かい」
と繰り返します。
その後、
左腕、
両手、
そして、
手足へと、
意識を広げていきます。
このときも、
「絶対に温かくならなければならない」
と思う必要はありません。
実際には、
温かさを感じる日もあれば、
何も感じない日もあります。
冷たさを感じることもあります。
どのような感覚も、
そのときの自分自身の身体から届いた情報です。
重要なのは、
結果をつくることではありません。
今、身体が何を感じているのかを観察すること。
です。
第3段階
呼吸を感じる
次に、
呼吸へ意識を向けます。
ここでも、
無理に呼吸をコントロールする必要はありません。
吸おう。
吐こう。
深く呼吸しよう。
と、
意識的に操作しなくても大丈夫です。
ただ、
呼吸を観察します。
空気が、
鼻から入ってくる。
胸やお腹が、
ゆっくり動く。
そして、
息が出ていく。
心の中で、
次のように感じます。
「呼吸が静かに行われている」
自分が呼吸をしているというよりも、
身体が、
自然に呼吸をしている。
そのように、
ただ観察してみましょう。
第4段階
心臓の鼓動を感じる
次に、
心臓の働きに意識を向けます。
無理に、
心拍数を数える必要はありません。
ただ、
胸のあたり。
あるいは、
身体全体の中に、
脈動のような感覚があるか、
静かに感じてみます。
心の中で、
「心臓は静かに動いている」
と、
観察します。
ここでも、
何も感じなくても構いません。
「感じなければならない」
という努力が、
かえって身体を緊張させることがあります。
最後は必ず「覚醒」する
自律訓練法を終えるときは、
急に立ち上がらないようにします。
まず、
手を軽く握ったり、
開いたりします。
腕をゆっくり動かします。
背伸びをします。
そして、
ゆっくり目を開けます。
これを、
消去動作
と呼びます。
自律訓練法によって、
深くリラックスした状態から、
再び日常の意識へ戻るための大切な動作です。
自律訓練法
自律訓練法は「感じる訓練」である
自律訓練法の最大の特徴は、
何か特別な能力を身につけることではありません。
また、
身体を完全にコントロールすることでもありません。
むしろ、
その反対です。
普段、
私たちは、
身体を動かそうとします。
心をコントロールしようとします。
問題を解決しようとします。
しかし、
自律訓練法では、
まず、
何かを「しよう」とすることを、
少し手放します。
そして、
身体に意識を向けます。
重いだろうか。
温かいだろうか。
呼吸はどうだろうか。
今、身体はどのような状態だろうか。
その答えを、
頭で考えるのではありません。
身体から感じ取ります。
「感じる力」は、一度失われても取り戻せる
現代人は、
考えることに多くの時間を使っています。
仕事のことを考える。
将来のことを考える。
過去のことを考える。
人間関係について考える。
そして、
スマートフォンから、
さらに多くの情報が入ってきます。
脳は、
常に外側へ向かっています。
だからこそ、
意識を、
一度、
自分自身の身体へ戻してみる。
それが、
自律訓練法です。
最初は、
何も感じないかもしれません。
しかし、
それでも構いません。
「何も感じない」
ということも、
一つの大切な気づきだからです。
毎日、
数分間でも、
自分の身体に意識を向ける。
すると、
少しずつ、
これまで気づかなかった変化に気づくことがあります。
肩が緊張していた。
呼吸が浅かった。
手足が冷えていた。
疲れが溜まっていた。
あるいは、
思っていた以上に、
身体がリラックスしていた。
「身体感覚を感じる」ことから始まる
私たちは、
世界を理解するために、
多くの知識を身につけてきました。
しかし、
どれほど多くの知識を持っていても、
自分自身の身体で、
今、
何が起きているのかを感じ取れなければ、
その知識を、
自分の人生に十分に生かすことはできません。
だからこそ、
まず、
感じる。
そのあとで、
考える。
自律訓練法は、
そのための、
一つのシンプルなレッスンなのかもしれません。
身体は、常に何かを語っています。
しかし、その声を聞くためには、まず、静かに耳を傾ける必要があります。
【実践する際の注意】
自律訓練法は一般的なリラクセーション法ですが、強い不安や恐怖感が生じる場合、過去のつらい記憶が強くよみがえる場合、また精神的・身体的な疾患の治療中で不安がある場合は、無理に続けず、医師や専門家に相談してください。また、車の運転中、入浴中、高所など、注意力が必要な状況では行わないようにしましょう。
「自然の中に身を置く」という訓練
都市生活をしていると、
毎日、
山や森へ行くことはできません。
しかし、
大自然の中に行かなければ、
自然を感じられないわけでもありません。
朝、
窓を開ける。
空を見る。
風を感じる。
太陽の光を浴びる。
近くの公園を歩く。
雨の音を聞く。
夜空を見る。
身近な自然に、
意識を向けることはできます。
重要なのは、
自然がないことではなく、
自然に注意を向けているかどうか
なのかもしれません。
同じ場所を歩いていても、
スマートフォンを見ながら歩けば、
周囲の変化には気づきにくくなります。
一方、
数分間だけでも、
スマートフォンをしまい、
周囲を静かに感じてみる。
それだけで、
これまで聞こえなかった音や、
見えていなかった変化に、
気づくことがあります。
涸沢ヒュッテ展望テラス
感性を磨くとは、「特別なものを見ること」ではない
感性が豊かになるというと、
特別な能力を身につけることのように思われるかもしれません。
しかし、
本当に必要なのは、
新しい何かを加えることではないのかもしれません。
むしろ、
私たちの中にすでに存在している、
「感じる力」を、
もう一度使うことです。
忙しさ。
情報。
思考。
先入観。
こうしたものによって覆われている、
身体本来の感覚に、
もう一度耳を傾ける。
空気の変化に気づく。
身体の冷えに気づく。
呼吸の浅さに気づく。
疲れに気づく。
そして、
心の小さな変化にも気づく。
そのためには、
「もっと感じなければならない」
と頑張る必要はありません。
まずは、
ほんの少し、
立ち止まることです。
自然を感じることは、自分自身を感じること
秋になると、
風が変わります。
空気が変わります。
光が変わります。
虫の声が変わります。
そして、
その変化を感じている自分自身の身体も、
同じように変化しています。
外の自然と、
自分自身の身体。
まったく別のもののように見えます。
しかし、
私たちは、
自然の外側に存在しているわけではありません。
自然の中で、
呼吸し、
食べ、
眠り、
季節の変化を受けながら生きています。
だからこそ、
外側の自然を丁寧に感じることは、
自分自身の内側で起きている変化に気づくことにもつながります。
そして、
その第一歩は、
難しいことではありません。
今日は、
いつもより身体が冷えている。
少し疲れが残っている。
眠りが浅くなっている。
食欲が変化している。
気分が沈みやすい。
こうした、
小さな身体と心の変化に気づくこと。
それは、
病気を診断することとは違います。
また、
感じたことだけで、
すべてを判断することでもありません。
しかし、
自分自身の身体と向き合うためには、
とても大切なことです。
情報にあふれ、
常に何かを考え続ける現代だからこそ、
時には、
「考えること」を少し休ませてみる。
そして、
目の前にある自然を感じる。
自分の身体を感じる。
呼吸を感じる。
感じる。
そのあとで、
考えればいいのかもしれません。
「ありのままを観る」とは、特別なものを見ることではない。
思考によって答えを出す前に、まず、今ここで起きていることを丁寧に感じることなのかもしれません。






