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真実を観る眼力 98 人生の選択⑨ 意識のクオリティーと滲み出る行為の差とは
間とは静止した中心に在ること、
静止した中心とは、
意識の軸であり、
それを肉体で体現したものが身体の軸(体幹)。
その中心から自然に発する行為が間のある行為で、
間のある行為は、秩序・コヒーレンスが整っている。
なのですが、静止した中心に在る意識の軸は、人により意識の質が異なるため、間(中心)から滲み出る行為自体にも人それぞれクオリティの違い(差)があると思われます。
例えば、意識のクオリティの差として、
Aさんは、利己的、欲望、執着が主たる意識で、意識が定まらない、
Bさんは、利他的、欲望や執着を手放す努力、ヤマ・ニヤマを意識に置いて、良心に沿う生き方を実践する、
このような根本的な意識のクオリティーの違いがあっても、Aさんが間にとどまり体現を続けていけば秩序・コヒーレンスが整うので、滲みでる行為は、Aさん、Bさん共に、クオリティの差はないのでしょうか?
間にとどまりながら体現を続けていれば、AさんもBさんも滲み出る行為は秩序・コヒーレンスが整うので、その行為の違いはなくなる(クオリティーの差がない)、とするなら、意識自体のクオリティを上げる努力の必要性はあるのか?という疑問が生じます。
1. 意識のクオリティ(波動)とは何か
「意識の波動の高・低」とは、能力や知識量ではありません。
意識のクオリティ(波動)の違いとは
- 透明度
- 歪みの少なさ
- 自己中心的なフィルターの薄さ
- 恐れ・欲・防衛反応の混入度
つまり、
波動が低い人とは、
中心に在っても、
その中心自体(意識そのもの)が「濁っている・揺れている」
波動が高い人とは、
中心(意識)が澄み、静かで、広がりをもつ
という違いです。
2. 両者とも「間」には在れるのか?
両者とも「間」には在れます。
なぜなら
間は能力ではなく、位置(戻る場)だからです。
・誰でも
・どんな状態でも
・一瞬なら必ず戻れる
それが「間」です。
3.どこに差が出るのか?
差が出るのは、行為の「質」=「滲み出る行為のクオリティー」と「影響範囲」です。
① 意識のクオリティが低い場合
行為は一応、中心から出ている
しかし…
✔ 微細な恐れ
✔ 自己防衛評価への執着
✔ 無意識の緊張
が滲みとして行為に混入します。
結果として:
行為は整って見えるが、
周囲には「微細な違和感」や「閉じた感じ」を残す。
② 意識のクオリティが高い場合
- 中心が澄んでいる
- 行為に「余白」と「抜け」がある
- 自分を通して場が整う
結果として:
行為は静か
しかし影響が深く、広い
周囲の人の呼吸や判断まで自然に整う
③ 比喩で言うと
同じ「中心」からの行為でも…
濁った水の泉
→ 水は湧くが、遠くまで澄んでは届かない
澄んだ山の湧水
→ 音もなく、長く、広く潤す
泉の位置は同じでも、水質が違うのです。
④ 意識のクオリティーの「高い・低い」は優劣なのか?
👉 NO 優劣ではありません。
なぜなら:
✔ 意識のクオリティは固定ではない
✔ 間に在り続けるほど自然に澄む
✔ 無理に上げるものではない
むしろ、
間に正直である時間の総量が、意識の透明度を育てる
という関係です。
⑤ 差が生じる結論
「間」とは動かない中心であり、行為はそこから選ばれるのではなく、滲み出るものです。
なので「間そのもの」ではなく、「そこから滲み出る質」に差が生じると言えます。
以上を理解の上、
✅ 意識自体のクオリティを上げる努力の必要性について
🔶 先に結論と要点
✔ 間にとどまり体現を続ければ、行為の粗さは確実に減る
しかし
✔ 意識のクオリティ(透明度・深度)そのものは、意識の在り方の選択によって差が出続ける
よって
✔「間の体現」だけでも整うが、「生き方の質」を伴うことで深まりが起こる
🔷「静止した意識の軸そのもののクオリティを上げる努力は必要」である理由
① 間にとどまれば滲み出る行為の差はなくなるか?
👉 No なくならない。
理由は明確。
(間の性質)
- 間=反応以前の静止点
- 誰にとっても等しい
- 評価・善悪を含まない
しかし
「間に戻る頻度・深さ・滞在時間」
そして
「間から出た後、どんな選択を許しているか」
これが意識のクオリティを決めます。
② 利己的な意識の人が「間」を体現し続けた場合
こうなる:
✔ 反応は減る
✔ 行為は荒くなくなる
✔ 衝動的破壊は起きにくくなる
しかし、
- 利益・優位・自己保存を最終基準にする癖
- 欲望や執着を「手放さずに抑える」状態
が残るため、
👉 行為は整うが、透明にはならない=意識は濁ったまま
という段階に留まります。
これは「制御された自己中心性」です。
③ 利他・良心・ヤマ・ニヤマを指針にしている人の場合
この場合、間の体現が別の働きをします。
間に戻るたびに
- 不純物(恐れ・執着・自己正当化)が自然に浮かび
- 手放されやすくなる
なぜなら、
「何を大切にして生きるか」が
間から出た後の選択基準として働くから
結果として、
👉 中心そのものが澄んでいく=意識が清明
関連リンク:真実を観る「眼力」44 利他と利己3 ヤマ・ニヤマと良心
https://asa2000-cure.com/diary/171133
④ なぜ「生き方」が意識の軸の質を変えるのか
💡ここが重要
- 意識の軸は「固定点」ではない
- 静止しているが同時に「蓄積」する
何が蓄積されるか?
✔ 日々許した思考
✔ 日々選んだ動機
✔ 日々正当化した欲望
これらが軸の透明度を左右します。
⑤ ヤマ・ニヤマの本質的役割
ヤマ・ニヤマは道徳規範ではありません。
それは、
間に戻ったとき、
中心が濁らないための生活上のフィルター
です。
- 嘘をつかない
- 奪わない
- 過剰に求めない
- 誠実であろうと努力する(裏表がない)
これらはすべて、
👉 中心に戻ったとき、余計な波が立たないため
⑥ 意識の軸のクオリティーを上げる「努力」は必要か?
誤解しやすい点:
❌ 力んでクオリティを上げようとする努力
✔ 理想像を作る
✔ 自己否定を伴う
✔ 比較が生じる
これは逆効果です。
⭕ 正しい意味での努力
- 日常で「何を通すか」を選ぶ
- 動機に気づいたら戻る
- 正しさより「澄み」を優先する
意識の軸
総まとめ
間にとどまりながら体現を続けていれば、滲み出る行為のクオリティ差はなくなるのか?
表面的な差は縮まるが、
深度と影響力の差は残る。
静止した意識の軸のクオリティを上げる努力は大切か?
👉 Yes
ただし「上げる」のではなく、
「濁らせない生き方を選び続ける」事が本質= 「清明な意識で在るための選択」
間は平等だが、
その間に戻る人間の「在り方」は平等ではない。
そして、
「在り方」とは、
日々どんな動機を許したかによって静かに形づくられる。
