asa insight
asa information 10月号② 頭でわかることと、身体でわかることは、何が違うのか? ― 脳と身体のつながりから考える「認識」と「体験」の力 ―
プロローグ
「真実を観る眼力」で繰り返し扱ってきた認識とは何か、そして人間はどのように認識を深め、より良い選択ができるようになるのか。
その問いを、脳の働きと身体の経験という、日常に結びついた視点から考えます。
特に重要なのは、知識として知っていることと、身体を通して実際にわかることは、同じではないという点です。
たとえば、登山の知識として「疲れたら休むことが大切」と知っていても、実際に山を歩き、疲労や呼吸、足の運びの変化を体験して初めて、自分にとって適切な休み方がわかってくることがあります。
ただし、これは「思考より身体が正しい」という意味ではありません。身体感覚も、思い込みや過去の経験、体調などに左右されます。
知識と思考、感覚と経験を行き来しながら、両者を照らし合わせることが、認識を深める鍵になります。
はじめに
私たちは毎日の暮らしの中で、様々なことを知り、感じ、考え、選択しています。
本を読んで知識を得る。
人の話を聞いて理解する。
経験を振り返り、次はどうすればよいかを考える。
こうしたことを通して、私たちは世界を理解しようとしています。
けれども、ここで一つの疑問が浮かびます。
頭ではわかっているのに、実際にはできない。知識として知っているのに、本当の意味ではわかっていない。
そんな経験はないでしょうか。
たとえば、「無理をせず、休むことが大切」と知っていても、仕事をしていると、つい頑張りすぎてしまう。
「相手の立場になって考えよう」と理解していても、実際に自分が傷ついたときには、相手の気持ちを考える余裕がなくなってしまう。
なぜ、このようなことが起こるのでしょうか。
それは、知識として理解することと、実際に経験し、身体を通して理解することとでは、認識のあり方に違いがあるからかもしれません。
今回は脳と身体の関係から、私たちがものごとを認識する仕組みと、体験を通して学ぶことの意味を考えてみたいと思います。
1.人間は、考える前に動く生き物だった
人間は、考える生き物です。
言葉を使い、物事を比較し、未来を予測し、さまざまな可能性を検討することができます。
しかし、人間を含む動物は、もともと環境の中で動きながら生きる存在です。
危険を察知すれば逃げる。
食べ物を見つければ近づく。
身体の異変を感じれば、休んだり、身を守ったりする。
生きるためには環境の変化を感じ取り、それに応じて行動することが欠かせません。
生物の進化を考えると、感覚や運動を通して環境に適応する仕組みは、複雑な思考や言語が発達する以前から存在していました。
人間の脳も、単純に「古い脳から感性が生まれ、新しい脳から思考が生まれた」と分けられるものではありませんが、
脳の各領域は相互に結びつき、感覚、感情、運動、記憶、判断などを連携させています。
つまり、私たちが考えるときにも、感じるときにも、身体とのつながりが働いているのです。
人間は、頭だけで世界を理解しているのではありません。
身体を通して世界と関わりながら、理解を深めているのです。
2.知識としての認識と、体験を通した認識
では、頭で理解することと、体験を通して理解することには、どのような違いがあるのでしょうか。
ここでは、二つの認識の仕方として考えてみます。
① 知識や思考を通して理解する
本を読む、人の話を聞く、情報を集める、論理的に考える。
こうした方法では、言葉や概念、データを使って、ものごとの意味や仕組みを理解します。
たとえば、登山について学べば、標高が高くなるほど気温が下がることや、疲労をためないために適切な休憩が必要であることを知ることができます。
実際に登山をする前から、危険を予測し、準備を整えることもできます。
知識には、経験する前に危険を避けたり、選択肢を広げたりできるという大きな利点があります。
一方で、知識を得ただけでは、自分の身体がどのように反応するのか、どの程度の疲労を感じるのか、どのような状況で判断が難しくなるのかまでは、十分にわからないことがあります。
② 感覚や経験を通して理解する
実際に山を歩いてみると、坂道での呼吸の変化、足の運び、汗の量、疲労の蓄積、天候の変化などを、自分の身体を通して知ることになります。
そして、歩く速度を調整したり、早めに休んだり、水分や食事の取り方を工夫したりする中で、自分に合った方法を学んでいきます。
このとき得られるのは、単なる情報だけではありません。
自分の身体がどのような条件で、どのように反応するのかという、経験に根ざした理解です。
知識が「何が大切なのか」を教えてくれるとすれば、
体験は「それが自分にとって、どのような意味を持つのか」を教えてくれる
ことがあります。
もちろん、知識と体験は別々に働くものではありません。
知識が体験を理解する助けになり、体験が知識の意味を深める。
その往復によって、認識はより豊かなものになっていきます。
自然を感じるひととき 『In Harmony with a Tree』
3.脳は、現実をそのまま映しているわけではない
ここで、もう一つ大切な視点があります。
私たちは、自分が見たり、聞いたり、感じたりしたものを、そのまま現実だと思いがちです。
しかし、脳は外界から届く情報を、ただ受け取っているだけではありません。
感覚から得られる情報に加えて、過去の経験、記憶、期待、予測などを組み合わせながら、目の前で何が起きているのかを解釈しています。
たとえば、同じ坂道を見ても、登山経験の少ない人には「急で大変そうな道」に見え、経験を積んだ人には「ゆっくり歩けば登れそうな道」に見えるかもしれません。
同じ出来事でも、これまでの経験や、そのときの身体の状態によって、受け取り方が変わるのです。
脳科学では、私たちがものを見たり、感情を感じたりする仕組みについて、外から入ってくる情報だけでなく、脳の予測や身体の状態も関わっていることが研究されています。
つまり、私たちが感じている現実は、
外界からの情報をそのまま受け取るだけでなく、脳と身体がさまざまな情報を統合することで形づくられているのです。
ただし、現実は自分の思考だけで自由につくれるわけではありません。実際の環境や身体の状態にも左右されます。
だからこそ、自分の認識を絶対視せず、ほかの情報や経験と照らし合わせながら、確かめていくことが大切なのです。
4.身体の感覚は、自分を知るための情報でもある
私たちは外の世界だけでなく、自分の身体の内側からも、さまざまな情報を受け取っています。
- 呼吸の浅さ。
- 心臓の鼓動。
- 胃腸の違和感。
- 肩や首の緊張。
- 疲労感や眠気。
こうした身体内部の状態を感じ取る働きは、「内受容感覚」と呼ばれます。
内受容感覚は、身体の状態を把握し、感情や行動を調整することにも関係しています。
たとえば、忙しいときには気づかなかった疲労に、仕事が一段落した途端に気づくことがあります。
頭では「まだ大丈夫」と考えていても、身体はすでに休息を必要としているのかもしれません。
反対に、緊張しているときには、心臓の鼓動が速くなったり、呼吸が浅くなったりします。
その身体の変化を「危険なことが起こる兆候だ」と解釈する場合もあれば、「大事な場面だから緊張しているのだ」と理解する場合もあります。
身体の感覚そのものと、それに対する解釈は、必ずしも同じではありません。
だからこそ、身体の声に耳を傾けることと、その意味を冷静に確かめることの両方が必要です。
身体を感じることは、自分を知るための入り口です。
そして、その感覚を観察し、考え、確かめることが、認識を深めることにつながります。
5.体験は、どのように学びへと変わるのか
実際に何かを経験すれば、それだけで認識が深まるのでしょうか?
必ずしも、そうとは限りません。
同じ失敗を何度も繰り返してしまうこともあれば、つらい経験をした結果、かえって苦手意識や思い込みが強くなることもあります。
大切なのは、経験したことそのものだけでなく、
その経験をどのように受け止め、振り返り、次の行動に生かすかということです。
たとえば、人間関係で相手の言葉に傷ついたとします。
そのとき、「あの人は自分を大切にしていない」と結論づけることもできます。
しかし、少し時間を置いて振り返れば、別の可能性も見えてくるかもしれません。
相手は本当に自分を軽視していたのだろうか。
自分は、どの言葉に反応したのだろうか。
過去の経験が、今回の受け取り方に影響していなかっただろうか。
自分の気持ちを、相手に伝える必要はないだろうか。
こうして、感情を無理に否定するのではなく、
その感情と出来事を分けて観察することで、最初とは異なる認識が生まれる
ことがあります。
体験から学ぶとは、単に経験を積み重ねることではありません。
経験する、
感じる、
振り返る、
考える、
確かめる、
そして次の行動を選ぶ。
この循環が、経験を学びへと変えていきます。
そして、次の行動によって得られた結果が、また新しい学びになります。
6.認識が変わると、選択が変わる
私たちは、何かを選択するとき、自分では自由に判断しているつもりでも、実際には、そのときの認識に大きく影響されています。
疲れているときには、目の前の仕事を負担に感じ、先延ばしにしたくなるかもしれません。
不安が強いときには、失敗の可能性ばかりに目が向き、挑戦を避けたくなるかもしれません。
反対に、身体に余裕があり、気持ちが落ち着いているときには、同じ状況でも、別の選択肢が見えてくることがあります。
つまり、選択を変えるためには、行動だけを無理に変えようとするのではなく、
自分が何を感じ、
何を見て、
どのように解釈しているのかを知る
ことも大切なのです。
そのために、日常の中で次のような問いを持ってみるのもよいでしょう。
-
今、自分の身体はどのような状態だろうか。
-
自分は何を感じ、何に反応しているのだろうか。
-
その受け止め方は、事実なのか、それとも自分の解釈なのか。
-
これまでの経験や思い込みが、判断に影響していないだろうか。
-
別の見方をすれば、どのような選択肢が見えてくるだろうか。
こうした問いは、自分の感覚を疑って否定するためのものではありません。
感覚も思考も大切な情報として受け止めながら、
それらを一つの結論に急いで結びつけず、
より広い視点から選択する
ためのものです。
7.人間は、体験を通して進化していくのか
ここまで考えてくると、もう一つの問いが浮かびます。
人間は、身体を使い、さまざまな経験や体験を重ねることによって、進化していくのでしょうか?
この問いには、いくつかの意味があります。
生物学でいう進化とは、長い時間をかけて、親から子へと受け継がれる特徴が、世代を重ねる中で少しずつ変化していくことです。
そのため、一人の人間がさまざまな経験を積み、知識や知恵を身につけたとしても、その変化がそのまま遺伝子に受け継がれ、
生物としての進化につながるわけではありません。
一方、個人の学習や発達という意味では、経験は重要な役割を果たします。
- 身体を動かすことによって運動技能が身につく。
- 人との関わりによって、相手の気持ちを理解する力が育つ。
- 失敗を振り返ることによって、判断の仕方が変わる。
- 異なる文化や価値観に触れることによって、自分の考えの偏りに気づく。
こうした変化は、学習や発達を通して起こります。
さらに、人間は、個人の経験を言葉や知識、教育、文化として次の世代に伝えることができます。
自分が経験していないことでも、他者の経験から学ぶことができるのです。
つまり、人間の成長には、自分自身の体験だけでなく、他者の知識や経験を取り入れ、それを自分の現実に照らし合わせる働きも欠かせません。
体験は認識を深める大切な機会ですが、体験だけですべてがわかるわけではありません。
知識、
身体感覚、
他者の視点、
そして
振り返りが結びつくことで、
学びはより豊かなものになります。
この意味で、人間の進化を、生物学的な進化だけでなく、認識や学習、社会や文化の発達という広い視点から考えることもできるのではないでしょうか。
おわりに ― 自分の現実を、もう一度観てみる
私たちは、頭で考えることによって、多くのことを理解できます。
しかし、知識として理解したことが、いつも実際の行動に結びつくとは限りません。
- 身体を通して感じること。
- 自分で試してみること。
- 他者と関わること。
- 経験を振り返り、別の可能性を考えること。
その一つひとつが、認識を深める機会になります。
そして、認識が深まれば、これまで当然だと思っていたことを、別の角度から見られるようになるかもしれません。
「自分は正しい」と思っていたことに、別の見方があると気づく。
「自分にはできない」と思っていたことに、少しずつ可能性を見いだす。
「相手が悪い」と決めつけていたことに、自分の受け止め方も関係していたと気づく。
そうした小さな変化が、日々の選択を変えていきます。
大切なのは、
頭で考える事と、身体で感じる事の、どちらか一方を優先することではありません。
感じる。
気づく。
観察する。
考える。
試してみる。
そして、もう一度観る。
この循環を重ねることで、私たちは自分の認識を少しずつ見直し、より柔軟に、より広い視点から物事を捉えられるようになるのではないでしょうか。
日常の何気ない経験にも、自分を知り、世界を理解し直すための手がかりが隠れています。
頭で知っていることを、身体を通して確かめる。
身体で感じたことを、思考によって見つめ直す。
その往復の中にこそ、認識を深め、よりよい選択へとつなげていく、人間の学びの力があるのだと思います。
参考資料
-
Barrett, L. F. & Simmons, W. K. “Interoceptive predictions in the brain.” Nature Reviews Neuroscience (2015). 脳が身体内部の信号と予測を統合する仕組みについて。
-
Khalsa, S. S. et al. “The Emerging Science of Interoception: Sensing, Integrating, Interpreting, and Regulating Signals within the Self.” Trends in Neurosciences (2021). 内受容感覚と、身体の状態・感情・行動の関係について。
-
Castro-Alonso, J. C. et al. “Research Avenues Supporting Embodied Cognition in Learning and Instruction.” Educational Psychology Review (2024). 身体を伴う認知と学習についての研究レビュー。
※記事の中心となる考え方は、脳科学で研究されている「身体と認知の相互作用」や「内受容感覚」「身体化された認知」に関連しています。ただし、これらの研究が、人間の認識や意識の仕組みをすべて解明しているわけではありません。科学的に確かめられている知見と、そこから考えられる哲学的な問いを区別して読むことが大切です。
