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真実を観る眼力 203【後編】 「自分の選択」と「他者の存在」 ― 自分らしく生きることと、誰かと生きることのあいだ ―
はじめに
前編では、
「自分は本当に何を望んでいるのか」
を見つめました。
誰かの期待ではないのか。
社会の常識ではないのか。
「こうするべき」という思い込みではないのか。
そして、
それらを観たうえで、自分はどう生きたいのか。
という問いです。
けれど、私たちの人生は、自分一人だけの世界ではありません。
誰かと暮らせば、相手がいます。
家族を持てば、家族がいます。
仕事をすれば、同僚や顧客がいます。
社会の中で生きれば、多くの人との関係があります。
だから、
「自分の人生だから、自分の好きなように生きればいい」
だけでは、すべてを語ることはできません。
ここからは、
「自分の選択」と「他者の存在」
について考えてみます。
第一章 「自分の人生」と「他者の人生」
自分の人生について、最終的に選択するのは自分です。
けれど、その選択が他者に影響することがあります。
自分が仕事を辞めれば、家族の生活が変わるかもしれません。
引っ越せば、誰かとの距離が変わるかもしれません。
結婚すれば、自分だけでなく相手の人生も変わります。
子どもを持てば、その選択には大きな責任が伴います。
つまり、
自分の選択は、自分だけの世界で完結しているわけではありません。
だからこそ、
「私はどうしたいのか」
と同時に、
「この選択によって、誰が影響を受けるのか」
を見ることが大切になります。
第二章 他者を考えることと、自分を犠牲にすることは違う
ここで、よくある誤解があります。
「相手を大切にするなら、自分は我慢しなければならない」
という考え方です。
けれど、自分を犠牲にし続ければ、やがて疲れてしまいます。
そして、その疲れが不満や怒りとなって、相手に向かうこともあります。
反対に、
「自分が幸せなら、それでいい」
と相手の気持ちや事情を無視してしまえば、関係は続きにくくなります。
だから大切なのは、
自分か、他者か
という二択ではありません。
自分も、他者も観ること。
自分の気持ちを大切にしながら、
「この選択は相手にどんな影響を与えるだろう?」
と考える。
それは、自分を犠牲にすることではありません。
第三章 境界線は、他者を拒絶するためではない
他者と生きるためには、
「ここまでは自分」
「ここからは相手」
という境界線も必要です。
相手の感情は相手のもの。
自分の感情は自分のもの。
相手の人生は相手のもの。
自分の人生は自分のもの。
この区別があるからこそ、互いを尊重することができます。
相手が不機嫌だからといって、
必ず自分が悪いとは限りません。
相手が望んでいるからといって、
自分も望まなければならないわけではありません。
相手の期待に応えられないからといって、
自分の価値がなくなるわけでもありません。
境界線は、冷たい壁ではありません。
互いを一人の人間として尊重するための、
静かな境目です。
第四章 「配慮」と「迎合」を分ける
他者を大切にするとき、もう一つ大切なのが、
配慮と迎合を分けることです。
配慮とは、
「相手はどう感じるだろう?」
と考えること。
迎合とは、
「嫌われたくないから、自分の考えを捨てること」
です。
この二つは似ていますが、まったく違います。
配慮には、
自分自身の意思があります。
「相手のことを考えたうえで、私はこうする」
と選んでいます。
一方、迎合では、
「嫌われたくない」
「怒られたくない」
「見捨てられたくない」
という恐れによって、自分の選択を手放してしまうことがあります。
だから、
他者を大切にするためにも、自分の意思が必要なのです。
第五章 「自分らしさ」は、他者との関係の中でも育っていく
前編では、
私たちは他者との関係の中で自分自身を知っていく、
ということを考えました。
これは後編でも重要な意味を持ちます。
誰かに愛されたとき、
「自分も誰かを愛したい」
と気づくことがあります。
誰かと衝突したとき、
「自分はこれを大切にしている」
と気づくこともあります。
誰かを助けたとき、
「人の役に立つことが好きなのだ」
と気づくこともあります。
つまり、
他者は、自分を知るための鏡にもなるのです。
だから、他者との関係をすべて「自分を縛るもの」と考える必要はありません。
人との関係の中で、
自分の価値観も、
自分の弱さも、
自分の優しさも、
自分の課題も、
見えてくることがあります。
第六章 自由とは、「誰にも影響されないこと」ではない
自由という言葉から、
「誰にも干渉されないこと」
を想像することがあります。
けれど、人間は完全に誰の影響も受けずに生きることはできません。
家族。
文化。
社会。
友人。
仕事。
過去の経験。
そして、自分自身の習慣。
私たちは、さまざまなものから影響を受けています。
だから、
自由とは、影響を受けないことではありません。
むしろ、
「私は今、何に影響されているのだろう?」
と気づくこと。
そして、
「それを受け入れるのか」
「変えるのか」
「距離を置くのか」
を自分で考えること。
そこに自由があります。
第七章 自由には「影響を見る責任」がある
「自分の自由なのだから、何をしてもいい」
というわけでもありません。
自分の選択が誰かに影響するなら、
その影響を見ようとする必要があります。
仕事で自分だけが楽をすれば、
誰かに負担がかかるかもしれません。
家庭で自分の希望だけを通せば、
家族が苦しくなるかもしれません。
便利さを求める行動が、
環境に負荷を与えることもあります。
だから、
自由には、責任が伴います。
ここでいう責任とは、
「誰かの期待に応え続けること」
ではありません。
自分の選択によって起こることを、
見ようとすること。
そして、
「それでも私は、この選択をする」
と決めることです。
第八章 「自分」と「他者」のあいだにあるもの
ここまで考えると、
「自分か、他者か」
という二択そのものが、少し違って見えてきます。
自分を大切にする。
相手も大切にする。
自分の自由を守る。
相手の自由も尊重する。
自分の気持ちを見る。
相手の気持ちも見る。
これは、どちらか一方を選ぶことではありません。
そのあいだにある関係性を見ることです。
人間は、一人で生きているようでいて、
実際には多くの人とのつながりの中で生きています。
食べ物も。
住まいも。
衣服も。
医療も。
交通も。
情報も。
多くの人の働きによって成り立っています。
だから、
自立とは、他者を必要としないことではありません。
必要なときには助けを求め、
自分も誰かを支え、
それぞれが自分の意思を持ちながら、
互いに関わって生きる。
そこには、
自立とつながりの両立
があります。
第九章 選択の先まで観る
「真実を観る眼力」を、ここでもう一段深く考えてみます。
自分の感情を見る。
自分の欲求を見る。
自分の認識を見る。
そして、
自分の選択が周囲にどんな影響を与えるのかを見る。
そこまで観て、初めて、
自分の選択をより立体的に捉えることができます。
目の前では自分にとって良い選択でも、
長い目で見ると関係を壊すかもしれません。
逆に、
今は少し難しい選択でも、
長い目で見ると互いの自由を守ることになるかもしれません。
だから、
「今、自分にとって得か」だけではなく、
「この選択の先に何が生まれるのか」
を観る。
それもまた、選択する力です。
第十章 「自分の幸せ」と「他者の幸せ」は重なることがある
誰かのために生きることを、
「自分を犠牲にすること」
と考える必要はありません。
家族の幸せが、自分の幸せになることがあります。
誰かの成長が、自分の喜びになることもあります。
社会がより良くなることを、自分自身の喜びとして感じることもあります。
つまり、
自分と他者は、完全に切り離された存在ではありません。
もちろん、それぞれ別の人間です。
だから境界線は必要です。
けれど、
その境界線の中にも、
「一緒に幸せになれる領域」
があります。
ここに、
「共に生きる」
という考え方が生まれてきます。
第十一章 自分の選択を、もう一度観てみる
人生で大きな選択をするとき、
こんな問いを持ってみるのもいいかもしれません。
私は、何を望んでいるのか?
そして、
その望みは、どこから生まれたのか?
過去の経験なのか。
不安なのか。
誰かの期待なのか。
社会の常識なのか。
それとも、今の自分が本当に大切にしたいことなのか。
さらに、
この選択によって、誰が影響を受けるのか?
そして、
相手のことを考えながらも、自分の意思を失っていないか?
最後に、
それらをすべて観たうえで、それでも私は何を選ぶのか?
この「間」が大切です。
感じる。
気づく。
観察する。
考える。
他者を見る。
そして、
選ぶ。
これが、
「反応する人生」から「選択する人生」へ進む一つの道なのかもしれません。
私が選んだ人生
おわりに 「自分らしく生きる」と「共に生きる」
私たちは、
「自分らしく生きたい」
と思います。
それは、とても自然な願いです。
けれど、
自分らしく生きることは、自分のことだけを考えることではありません。
そして、
他者を大切にすることは、自分を犠牲にすることでもありません。
自分を見る。
他者を見る。
自分の自由を見る。
相手の自由を見る。
自分の選択を見る。
その選択によって生まれる影響を見る。
そして、そのすべてを観たうえで、
自分自身の意思として選ぶ。
それが、
「自分で生きる」
ということなのではないでしょうか。
私たちは、一人で生きているようでいて、
実際には、たくさんの人との関係の中で生きています。
そして、ときには他者との関係を通して、
自分自身を知ることになります。
だから、
「自分か、他者か」
ではなく、
「自分と他者のあいだに、どんな関係をつくっていくのか」
を観てみる。
その視点を持つことで、
「自由」という言葉も少し違って見えてくるかもしれません。
自由とは、
誰にも影響されないことではない。
誰とも関わらないことでもない。
むしろ、
さまざまな関係の中にいながら、自分の意思を失わないこと。
そして、
相手にもまた、自分と同じように意思があることを認めること。
その両方があってこそ、
「自分らしく生きること」と「共に生きること」は両立していくのではないでしょうか。
真実を観る眼力とは
「真実を観る眼力」とは、
自分の考えを絶対に正しいと思うことではありません。
自分の感情も。
自分の欲求も。
自分の価値観も。
他者の意見も。
社会の常識も。
一度、少し離れて観てみることです。
そして、
「私は、何を見て、この選択をしているのだろう?」
と問いかける。
さらに、
「この選択は、私だけでなく、誰にどのような影響を与えるのだろう?」
と観る。
そして最後に、
「それらを観たうえで、私はどう生きたいのだろう?」
と、自分自身に戻ってくる。
自分を失わず、
他者も失わない。
自分の自由を守りながら、
他者の自由も尊重する。
その「あいだ」にあるものを観る。
そこに、
「自分らしく生きること」と「共に生きること」を両立させる知恵
があるのではないでしょうか。
