asa insight

2026-09-29 21:05:00

asa information 9月号⑨・番外編 「私たちの『選択』は、本当に自分自身のものなのか?」 ― 認識をつくる情報と、意図的に方向づけられる社会 ―

前編では、

「選択しているのに、なぜ同じ選択を繰り返すのか?」

という問いから、人間の認識について考えました。

私たちは、何かを感じ、気づき、観察し、考え、そして選択します。

しかし、その「考える」という働きそのものにも、フィルターがあります。

過去の経験。

価値観。

恐れ。

期待。

欲求。

そして、

「こうであってほしい」

という気持ち。

心理学では、人間が自分の望む結論に沿うように情報を選択したり解釈したりする「動機づけられた推論(motivated reasoning)」が研究されています。

つまり、人間は必ずしも「事実を集めてから結論を出す」だけの存在ではありません。時には、先にある目的や望ましい結論が、情報の受け取り方に影響します。 (PubMed)

これは、特別な人だけに起こる現象ではありません。

人間の認識そのものに関わる問題です。

そして、この人間の性質は、個人の生活だけでなく、社会や政治の中でも利用されてきました。

 

「認識のフィルター」は、個人だけの問題ではない

たとえば、ある人が一つのニュースだけを見て、

「これは危険だ」

と思ったとします。

別の情報を知らなければ、その判断はますます確かなものに感じられるかもしれません。

さらに周囲の人も同じ情報を受け取り、

「やはり危険なのだ」

と言い始める。

新聞もラジオも同じ方向の情報を流す。

学校でも同じ考え方が教えられる。

反対の意見を言う人が少なくなっていく。

すると、

「みんながそう言っている」

という事実そのものが、さらにその認識を強化します。

ここまで来ると、個人の認識の偏りが、社会全体の認識環境へと広がっていきます。

そして歴史を振り返ると、国家権力がこの仕組みを意図的に利用した例があります。

 

ナチス・ドイツに見る「情報を一方向にする」という方法

その典型的な例の一つが、ナチス・ドイツです。

1933年、ヒトラー政権は国会議事堂放火事件を利用して、いわゆる「国会議事堂放火令」を成立させ、言論・出版・集会などの自由を大きく制限しました。

さらに同年3月には「全権委任法」が成立します。

この法律によって、政府は国会の同意なしに法律を制定できるようになり、ナチス独裁体制を構築する重要な基盤となりました。法案成立の過程では、共産党議員や社会民主党議員への逮捕・排除など、威圧と迫害も行われています。

そして、その後に行われたのが、「何を考えるか」だけではなく、「何を見ることができるか」を管理することでした。

新聞。

ラジオ。

映画。

出版。

学校教育。

芸術。

文化。

さまざまな情報経路が国家の思想に沿うよう統制されました。

ナチスは1933年に国民啓蒙・宣伝省を設置し、新聞やラジオ、映画、出版、芸術などを通じて国民の世論と行動に影響を与えようとしました。反対する新聞は閉鎖・接収され、ジャーナリストには政府の指示に従うことが求められました。

教育も例外ではありませんでした。

学校ではナチスの世界観、指導者への服従、人種主義、反ユダヤ主義などが教えられ、子どもたちを対象とした組織や教材も利用されました。(ホロコースト百科事典)

ここで重要なのは、

人々に一つの答えを直接命令するだけではなかった、

ということです。

むしろ、

「その答え以外を考えるための情報が入りにくい環境」

をつくることでした。

 

「選択肢」を減らせば、人は選びやすくなる

ここに、⑨前編との重要なつながりがあります。

私たちは、

「自分で選んだ」

と思っていても、

そもそも何を選択肢として認識していたのかを考える必要があります。

たとえば、

AかBかを選んでいるつもりでも、

本当はCという選択肢が存在していることを知らなかった。

あるいは、

「Aを選ばなければ危険だ」

と繰り返し伝えられていた。

すると、Aを選ぶことは、

本人にとっては「自分自身の判断」に感じられるかもしれません。

ここで問題になるのは、

「選択したかどうか」だけではありません。

「選択する前に、どのような情報環境に置かれていたのか」です。

 

戦後日本でも、占領下の情報・教育政策が行われた

日本の戦後史にも、この問題を考えるうえで重要な事例があります。

1945年の敗戦後、日本は連合国軍の占領下に置かれました。

GHQ/SCAPは、新聞・ラジオなどの報道に対して指令を出し、1945年9月19日には「Press Code for Japan(日本に対するプレスコード)」を発令しました。

その中には、

  • 報道は真実に厳密に従うこと

  • 占領軍への不信や憤りを招く内容を掲載しないこと

  • 連合国への「破壊的批判」を掲載しないこと

  • 宣伝目的でニュースを歪めないこと

などが定められていました。

国立国会図書館も、SCAPIN-33を含む占領期のSCAP指令を収録しており、1945年9月10日のSCAPIN-16には報道・出版などについての統制に関する指示が、9月19日のSCAPIN-33にはプレスコードが記録されています。

(国立国会図書館サーチ(NDLサーチ))

つまり、占領下の日本で報道が自由に行われていたわけではありません。

実際、占領期には民間検閲局(CCD)による出版物などの検閲が行われ、研究では1945年9月から1949年10月までの印刷物について、その実態が検証されています。 (CiNii)

 

教育も大きく変えられた

教育についても、GHQの政策は大きな影響を与えました。

1945年10月の教育指令では、軍国主義的・超国家主義的な思想や教育を排除し、民主主義、人権、国際平和などに沿った教育を促す方針が示されました。

さらに、修身、日本史、地理の授業停止や教科書・教材の回収なども行われました。文部科学省の資料にも、これら一連の教育政策と、その後の教員審査などについて記録されています。 (文部科学省)

つまり、占領当局が報道・出版・教育を管理し、特定の情報を制限していたという事です。

 

「ウォー・ギルト・プログラム」という問題

日本は第二次世界大戦に至る経緯や戦後の占領政策で、一方的な解釈が教え込まれたり、「自虐史観」と呼ばれる、自身の歴史に対して過度に否定的な見方を植え付けられ、国家としての誇りや自主独立への気概を失ってしまいました。

戦後占領期にGHQによって実施された「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」、これは、日本人に戦争に対する罪悪感を植え付け、自国の歴史や文化に誇りを持つことを困難にするための組織的な洗脳プログラムでした。

このプログラムは、日本人が二度と強い国家になることを防ぐために、意図的に自虐志向を植え付けるもので、このプログラムの効果は、戦後80年がたった現在でも、日本人の意識の深層に根強く残っています。

 

「グローバリスト」(既得権益層=支配層)が支配する社会構造

そして第二次世界大戦後、GHQによって、全く異質の支配構造が重ねて作られました。官僚、財界、メディアが癒着した、いわゆる戦後レジームと呼ばれるシステムです。このシステムは、日本をアメリカのコントロール下に置き、二度と欧米の脅威とならないように設計されたものでした。

*現代の日本で戦後レジームの意味するところは主に、第二次世界大戦での日本降伏後、GHQによる占領下で出来上がった日本国憲法を始めとする憲法や法令即ち自由民主主義の体制、テレビや新聞などのマスコミ、経済や金融では通貨発行権や通貨管理権の所在を意味する言葉として使われている。(Wikipedia)

そして、このシステムを利用し、アメリカの「ジャパンハンドラー」達の意向にそって、アメリカの国益のために日本を積極的に傷付ける政治が行われてきました。「ハンドラー」とは「操る者」という意味であり、「ジャパンハンドラー」とは「日本を操る者」の意。

アメリカには国際開発庁(USAID)という組織があります。表向きは、世界各国への人道支援や、開発援助を行う機関とされていますが、実際の活動はそれだけではありません。このような国際的な資金提供において、とても大きな役割を果たしているのが、巨額の資産を持つ財団を運営している著名な投資家です。この財団の表向きは、世界各国での人権保護や民主化支援を行っているとされていますが、実際にはその資金が、各国の政府に批判的な活動や、特定の政治思想を広める団体に提供されています。この資金が、日本国内の一部の市民活動団体にも流れているという情報があります。

この財団が掲げる理念は、開かれた社会を目指すという美しい言葉ですが、実際には各国の伝統的な価値観や文化を否定し、グローバル化された統一的な価値観を押し付けるという意味合いが強いものです。彼の財団が支援する活動は、各国の愛国的な政治勢力や伝統的な価値観を重視する勢力に対して批判的な立場を取る傾向があるのです。

戦後、日本がアメリカに支配されてきた背景にあるものが、このような経済的利益の最大化を究極的目標とし、「地球全体を一つの共同体として、国境の垣根を取り払い、特定の国家の主権や権力が及ばないような統一された市場メカニズムをつくり、人・物・金・情報を自由に動かそうという考え方」、すなわちグローバリズム社会です。

その超国家的な機構を志向する人々「グローバリスト」(既得権益層=支配者)が階級社会を生み出し、この階級社会の上位者である「グローバリスト」が、これから先の政治や経済の動向を決める会議を行い、その会議の方針によって実際に世界が運営されるという、ピラミッド型の世界支配構造が現状です。

一つのルールで地球全体を統治するというのがグローバリズムで、グローバリズムは国家を弱体化させ、その国の歴史や文化や伝統、そしてその国の強みを、次々と壊していく。なぜなら、「経済的利益を最大化」するために、こういうものが邪魔だからです。

グローバリズム社会も、意図的につくられる、社会の「認識のフィルター」と言えます。

 

ここに「認識を塗り替える」ことの怖さがある

人間は、同じ情報を繰り返し受け取ると、それを身近で重要な情報として認識しやすくなります。

そこに、

  • 情報源の集中

  • 反対意見へのアクセス制限

  • 教育による反復

  • 恐怖や不安の利用

  • 集団への帰属意識

  • 権威による正当化

などが重なると、

「自分で考えている」ように見える認識が、実は非常に狭い情報環境の中で形成されているということが起こり得ます。

ここから学ぶべきなのは、

普通の人間の認識が、情報環境によってどこまで方向づけられ得るのかという問いです。

これは、昔の話だけでなく、現代でも行われている「認識を塗り替える」という洗脳の手法です。

 

認識のフィルターを観察する 「目覚め」

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「洗脳されない人」になる必要はない

ここで、もう一度、個人の認識に戻ります。

「自分は騙されない」

「自分は情報を見抜ける」

そう思った瞬間にも、注意が必要です。

なぜなら、

「自分だけは真実を知っている」

という認識もまた、新しいフィルターになるからです。

これは、とても重要なところです。

プロパガンダを批判している人が、別のプロパガンダを無批判に信じてしまう。

「メディアは嘘をつく」と思って、SNS上の情報をそのまま信じてしまう。

「政府は信用できない」と考えて、政府に反対する情報だけを集めてしまう。

これも、

「望む結論に向かって情報を選択する」

という同じ認識の構造になり得ます。

つまり、

プロパガンダを見抜く眼力と、自分の認識を観る眼力は、セットなのです。

 

本当に怖いのは「一つの情報」ではない

情報操作で最も注意したいのは、

「嘘を一つ流されること」

だけではありません。

むしろ、

何を見せるか。

何を見せないか。

何を繰り返すか。

何を話題にしないか。

誰の意見を権威あるものとして扱うか。

という、

「情報の環境そのもの」です。

人間は、存在を知らない選択肢を選ぶことができません。

だから、

選択の自由を守るためには、選択肢そのものを知る自由が必要です。

そして、

選択肢を知るためには、異なる情報へアクセスできる環境が必要です。

このことは、私たちが最近経験したワクチン接種の問題にもつながる話です。

 

「正しい認識」とは、一つの答えを信じることではない

ここで、「真実を観る眼力」というテーマに戻ります。

真実を観るということは、

「この情報が正しい」

と決めることだけではありません。

むしろ、

① これは事実なのか、解釈なのか

② その情報は誰が発信しているのか

③ 何を根拠にしているのか

④ 反対の資料や証言は存在するのか

⑤ 何が語られていて、何が語られていないのか

⑥ 自分は、この情報を信じたいと思っていないか

⑦ この情報を信じることで、誰が利益を得るのか

⑧ 自分自身が見たい情報だけを集めていないか

こうした問いを持つことです。

これは「何も信じない」ということではありません。

「信じる前に、一度観る。」

という姿勢です。

 

歴史から学ぶべきこと

ナチス・ドイツの歴史を見ると、

非常時を理由に自由を制限すること(緊急事態条項)、

メディアを統制すること、

教育を一方向にすること、

反対意見を排除すること、

特定の集団を敵として描くこと、

そして国家の物語を繰り返し伝えることが、

社会の認識を大きく変える力を持っていたことが分かります。

戦後日本の占領政策を見ても、

報道規制、

検閲、

教育改革、

情報政策

によって、人々が触れる情報環境が大きく変化しました。

しかし、ここで大切なのは、

「だから、この歴史認識だけが正しい」

と結論づけることではありません。

むしろ逆です。

歴史そのものを、

誰が、いつ、どのような立場から、どの資料を使って語っているのか

まで含めて観察する。

それが、歴史から学ぶということではないでしょうか。

 

「選択する自由」を守るために

⑨前編では、

「選択の前に認識がある」

と考えました。

番外編では、さらに一歩進めることができます。

個人だけではなく、

社会にも「認識のフィルター」がある。

そして、そのフィルターは自然にできる場合もあれば、

誰かによって意図的につくられる場合もある。

だからこそ、

自分が何を選んだのかだけではなく、

「なぜ、それを選択肢として認識したのか」

を見ることが大切なのです。

 

おわりに

人間は、

感じる。

考える。

判断する。

そして、選択する。

しかし、その前には、

「何を見るのか」

という段階があります。

そして、その「見るもの」が誰かによって一方的に決められてしまえば、

選択そのものが自由に見えていても、

その選択はすでに狭い枠の中に置かれているかもしれません。

だから、

「私は自分で選んでいる」

と思ったときこそ、

一度立ち止まってみる。

これは誰かに教えられた考えなのか。

自分自身の経験から生まれたものなのか。

他の見方はないのか。

反対の情報は存在するのか。

そして何より、

「私は、この結論を信じたいと思っていないだろうか?」

と自分自身に問いかけてみる。

それは、他人を疑うためではありません。

自分自身の認識を守るためです。

「真実を観る眼力」とは、

誰かの思想を信じる力ではない。

政府を疑う力だけでもない。

メディアを疑う力だけでもない。

SNSを疑う力でもない。

そのすべてを含めて、

「自分は、何を根拠に、何を信じ、何を選ぼうとしているのか」を観る力

です。

そして、その眼力があって初めて、

「選択しているのに、なぜ同じ選択を繰り返すのか?」

という⑨前編の問いが、個人の人生だけではなく、

人類社会そのものの問題

として見えてきます。

「選択する自由」とは、単に選べることではない。

自分で考えるために、

できるだけ多様な情報に触れ、

異なる視点を比較し、

自分自身の認識の偏りまで観察できること。

その環境を守ることもまた、

一人ひとりの「認識革命」の重要なテーマなのかもしれません。