asa insight
asa information 9月号⑨・後編 「選択しているのに、なぜ同じ選択を繰り返すのか?」 ― 意識の向け方と「真実を観る眼力」② ―
前編では、
「選択する前の認識」
に目を向けました。
私たちは、感じたことを観察し、考え、判断しています。
しかし、その「観察する自分」も、完全に中立とは限りません。
過去の経験や価値観、恐れ、期待、自己防衛などによって、
「何を見るのか」
「何を重要だと思うのか」
「何を見落とすのか」
が変わるからです。
では、
自分の認識を、どのように観ればよいのでしょうか。
意識は「何を見るか」を選んでいる
日常生活では、たくさんの情報が目の前を通り過ぎています。
そのすべてに注意を向けることはできません。
だから私たちは、無意識のうちに、
「これは重要」
「これは危険」
「これは関係ない」
と選びながら世界を見ています。
つまり、
意識をどこへ向けるかによって、
見えてくる現実そのものが変わってきます。
ここで重要なのは、
「正しい答えを最初から知ること」
ではありません。
むしろ、
自分に都合のよいものだけを見ないこと。
それが、認識を整える最初の一歩になります。
「自分」だけから、少し視野を広げる
たとえば、何かを決めるとき、
「自分にとって得か」
だけを見るのではなく、
「相手にとってはどうなのか」
「関係全体にはどんな影響があるのか」
「短期的にはよくても、長期的にはどうなのか」
「周囲や環境にはどんな影響があるのか」
と、視点を少しずつ広げてみる。
すると、同じ出来事でも違った姿が見えてきます。
これは、
「自分を犠牲にして他人を優先する」
ということではありません。
自分も、相手も、関係も、その先にある環境も、
同じ現実の中に存在しているものとして見る。
ということです。
生命は「関係」の中にある
生物学的に見ても、生命は孤立して存在しているわけではありません。
人間は他者との関係の中で生きています。
食べ物を得る。
空気を吸う。
水を使う。
微生物と共生する。
社会の中で協力する。
そして、環境から影響を受けながら生きています。
人間の進化を考えても、競争だけでなく、
協力や相互作用が重要な役割を果たしてきた
ことが研究されています。
だから、
「自分を大切にすること」と「他者や環境を大切にすること」は、
必ずしも対立するものではありません。
むしろ、
自分だけを切り離して考えることのほうが、生命の実際の姿から遠ざかってしまう
場合があります。
「宇宙秩序」という視点
ここからは、科学だけではなく、少し大きな視点から考えてみます。
自然界には、
生まれ、
成長し、
変化し、
循環し、
次の生命につながっていく、
という大きな流れがあります。
生命もまた、周囲との関係の中で存在しています。
このような、
「生命は関係の中で成り立っている」
という見方を、ここでは「宇宙秩序」という言葉で捉えてみます。
ただし、これは科学が証明した「道徳の法則」という意味ではありません。
自然界がそうなっているから、
「だから人間はこう生きるべきだ」
と直接結論づけることもできません。
それでも、
自分だけを切り離して世界を見るのではなく、自分を関係の中に置いて観る。
という視点は、人間の認識を広げるための一つの思想的な枠組みになります。
宇宙を観る...秩序について、考えて見る
「真実を観る眼力」とは何か
では、ここで本題に戻ります。
「真実を観る眼力」とは、
何でも疑うことでもありません。
自分の考えを否定することでもありません。
まして、
「自分だけが真実を知っている」
という特別な能力でもありません。
むしろ反対です。
自分の見方さえも、観察の対象にする力。
それが、「真実を観る眼力」の一つの核心ではないでしょうか。
「私は正しい」から、一歩離れてみる
何かについて、
「これは正しい」
と思ったとき。
その瞬間に、
「本当にそうだろうか?」
と疑う必要はありません。
まず、
「私は、なぜそう見ているのだろう?」
と問いかけてみる。
そして、
「自分に都合のよい情報だけを見ていないか」
「反対の情報を無視していないか」
「相手の立場から見たらどうなるか」
「短期的な結果だけを見ていないか」
「自分の恐れが判断を動かしていないか」
「この選択は、同じ状況で繰り返してもよいものなのか」
と、視野を広げていく。
ここで初めて、
「自分の認識を観る」
ということが具体的になってきます。
正邪善悪を「自分の都合」だけで決めない
「正しい」「間違っている」
「善い」「悪い」
という判断も、簡単ではありません。
自分にとって正しいことが、別の人にとっては負担になることがあります。
短期的には良い結果でも、長期的には問題を生むこともあります。
だからこそ、
「自分にとって都合がよいか」だけを判断基準にしない。
という姿勢が重要になります。
事実と解釈を分ける。
自分と相手の立場を分けて見る。
短期と長期を見る。
個人だけでなく、関係や環境への影響を見る。
そして、自分自身の欲求や恐れも含めて観察する。
その積み重ねによって、少しずつ判断の精度を高めていく。
それが、ここでいう「眼力」なのだと思います。
「量子」だから、意識が現実をつくるわけではない
ここで、少しだけ「量子」と「意識」の関係について触れておきたいと思います。
量子力学では、私たちの日常感覚では理解しにくい現象が起こります。
たとえば、電子のような非常に小さな世界では、測定するまで状態を一つに決められないように扱うことがあります。
こうした量子の世界の不思議さから、
「観測することが現実に影響するのなら、人間の意識が現実をつくっているのではないか?」
という疑問が生まれてきました。
ただし、ここには大切な注意点があります。
量子力学で「観測」が重要だからといって、それがそのまま「人間の意識が現実をつくる」という意味になるわけではありません。
「観測」という言葉も、量子力学では必ずしも「人間が意識して見ること」と同じ意味ではありません。
では、なぜ「量子」と「意識」が結びつけて語られることがあるのでしょうか。
「意識は、脳の中でどう生まれるのか?」
実は、ここにはまだ大きな謎があります。
たとえば、
「脳の神経細胞が活動すると、なぜ『痛い』『うれしい』『赤い』などの体験が生まれるのか?」
という問いです。
脳の働きについては多くのことが分かってきました。
それでも、
「物質としての脳」から「私が感じているという体験」が、どのように生まれるのか
については、現在もさまざまな研究が続いています。
そこで登場するのが、「量子の働きが意識に関係しているのではないか」という仮説です。
量子意識の一つの仮説
代表的なものの一つに、物理学者ロジャー・ペンローズと麻酔科医スチュアート・ハメロフが提唱してきたOrch OR(オーケストレーテッド・オブジェクティブ・リダクション)という仮説があります。
これは非常に簡単に言えば、
「意識は、脳の神経細胞の中にある微細な構造で起こる量子的な過程とも関係しているのではないか」
と考えるものです。特に、神経細胞の中にある「微小管(マイクロチューブル)」という構造に注目しています。(PubMed)
もちろん、これは「意識の正体が量子である」と証明されたという話ではありません。
この仮説そのものについても、科学的な妥当性をめぐって批判や議論が続いています。(PubMed)
つまり、
量子意識は「確立した答え」ではなく、意識とは何なのかを考えるために提案されている仮説の一つなのです。
それでも、興味深いところがある
ここで大切なのは、量子意識が正しいか、間違っているかを急いで決めることではありません。
このような仮説が生まれる背景には、
「そもそも意識とは何なのか?」
という、まだ完全には解けていない問いがあります。
私たちは普段、
「私は考えている」
「私は感じている」
「私は見ている」
と、ごく自然に言います。
しかし少し立ち止まってみると、
「考えている私」とは何なのか。
「感じている私」とは何なのか。
そして、
そのことに気づいている私は誰なのか。
という、少し不思議な問いが現れてきます。
ここが、今回のテーマである「観ている自分を観る」という話にもつながってきます。
量子力学が、この問いに最終的な答えを与えてくれたわけではありません。
けれども、量子と意識の関係を考えることによって、
「自分が世界を見ている」という当たり前の感覚そのものを、一度立ち止まって眺めてみることはできます。
だからこそ、
「量子だから、思ったことが現実になる」
と短絡するのではなく、
「意識とは何なのか。そして、私たちはどのように世界を認識しているのか」
という問いとして、量子と意識の関係を眺めてみる。
そのほうが、科学を神秘化することなく、科学から哲学へと自然に思考を広げていくことができます。
そして「真実を観る眼力」とは、
分からないものを分かったことにすることではなく、
「まだ分かっていない」という境界線も含めて、観ること。
そこにも、大切な意味があるのではないでしょうか。
東洋思想が見てきた「観る自分」
ここで、東洋思想の一つの考え方にも目を向けてみます。
インド哲学、とりわけヴェーダーンタの思想では、
感情や思考、欲望などの心の働きと、
それらを「観る」意識との関係が、長く考察されてきました。
そこでは、いわゆる「私」という感覚そのものも、観察の対象として考えられます。
現代科学がその哲学的な結論を証明したわけではありません。
しかし、
「自分の思考を観察するだけでなく、その思考を『自分』だと思っていること自体を観てみる」
という発想には、現代の認識を考えるうえでも興味深いところがあります。
観ることは、自分を否定することではない
ここまで来ると、
「では、自分の考えをすべて疑わなければならないのか」
と思うかもしれません。
そうではありません。
自分の感情も大切です。
身体感覚も大切です。
自分の願いも大切です。
自分を守ることも必要です。
ただ、
それらを「絶対的な真実」と同一視しない。
それだけでも、認識には大きな余白が生まれます。
「私は今、こう感じている」
「私は今、こう考えている」
「私は今、こうしたいと思っている」
そこに、
「でも、まだ他にも見えていないものがあるかもしれない」
という小さな余白を残しておく。
その余白が、「間」になります。
「意識を正しく向ける」とは
意識を正しく向けるという言葉を、
「正解を知っている方向へ意識を向ける」
と考える必要はありません。
むしろ、
自分に都合のよい方向だけに意識を向けないこと。
そして、
自分、相手、関係、社会、自然、未来まで、必要な範囲で視野を広げること。
そのうえで、
「今、何が事実なのか」
「何が自分の解釈なのか」
「自分は何を望んでいるのか」
「何を恐れているのか」
「何を見落としている可能性があるのか」
を観ていく。
その先に、
「では、どう選ぶか」
という問いが生まれます。
感じることから、観ることへ
ここまでの流れを、もう一度整理してみます。
⑦では、
自分を感じる。
⑧では、
感じたことを、そのまま真実にしないで観る。
そして⑨では、
観ている自分の認識そのものを観る。
つまり、
感じる
↓
気づく
↓
観察する
↓
考える
↓
自分が何を見ているのかを観る
↓
視野を広げる
↓
選択する
という流れです。
これは、選択肢を増やすだけの話ではありません。
「何に反応するか」から、「何を見て選ぶか」へ。
そして、
「自分のために選ぶ」から、「自分も含めた関係の中で選ぶ」へ。
認識の範囲を少しずつ広げていくことです。
自由とは、「何でも選べること」だけではない
自由というと、
「好きなものを選べること」
を思い浮かべるかもしれません。
けれど、もし自分の認識パターンに気づかないまま、
いつも同じ反応をし、
同じ判断をし、
同じ結果を生み出しているとしたら、
選択肢がたくさんあっても、実際には同じところを回り続けているかもしれません。
だから本当の意味での自由とは、
「自分を動かしている認識のパターンに気づき、そこから少し離れて選べること」
なのかもしれません。
「真実を観る眼力」は、まず自分自身を見る
外の世界の「正しさ」を見極めようとするとき、
私たちはつい、
「相手が間違っている」
「社会が間違っている」
「この考え方が間違っている」
と、外側に答えを探します。
しかし、
真実を観る眼力は、外の世界だけを見る力ではありません。
その世界を見ている、
自分自身の認識も観る力です。
自分の感情を観る。
自分の欲求を観る。
自分の恐れを観る。
自分の思い込みを観る。
そして、
「自分は何を見ようとしているのか」
まで観る。
そこまで含めて初めて、
「認識を観る」
ということができるのではないでしょうか。
「反応する人生」から、その先へ
190で考えた、
「反応する人生」から「選択する人生」へ。
そこから、さらに一歩進めるなら、
「選択する人生」から「認識を整えて選択する人生」へ。
感じることを否定しない。
考えることも否定しない。
自分を大切にすることも否定しない。
そのすべてを大切にしながら、
「今、自分は何を見ているのか」
を観る。
そして、自分だけではなく、
他者との関係、
社会、
自然、
未来
まで視野を広げてみる。
そのとき、選択は単なる「自分の意思」ではなく、
自分と世界との関係の中で生まれるもの
として見えてきます。
おわりに
感じる。
気づく。
観る。
考える。
そして、
観ている自分を観る。
その先で、ようやく選ぶ。
その選択が、いつも正解になるとは限りません。
人間である以上、認識の偏りから完全に自由になることも難しいでしょう。
だからこそ大切なのは、
「私は正しく見ている」
と思い込むことではなく、
「自分の見方も、もう一度観てみよう」
とできることなのかもしれません。
「真実を観る眼力」とは、
何か特別な答えを持つことではない。
自分の感じ方も、
自分の考えも、
自分の欲望も、
自分の正しさも、
いったん静かに観る。
そして、自分だけではなく、
その先にいる人、
関係しているもの、
そして生命や自然まで、
少しずつ視野を広げていく。
そのとき、
「選ぶ」という行為そのものが変わり始める。
⑦で「自分を感じる」ことから始まり、
⑧で「感じたことを観る」ことを学び、
⑨ではついに、
「観ている自分を観る」
ところまで来ました。
そして次に問われるのは、
「では、その意識を、どのように生きる方向へ向けていくのか」
ということなのかもしれません。
そこから先は、
個人の選択を超えて、
他者・身体・自然・社会との関係の中で、どのように生きるのか。
という、さらに大きなテーマへつながっていきます。
