asa insight
asa information 9月号⑨・前編 「選択しているのに、なぜ同じ選択を繰り返すのか?」 ― 意識の向け方と「真実を観る眼力」① ―
前回 9月号⑧は、
「感じたことは、そのまま真実なのだろうか?」
という問いから、身体感覚と心、そして認識の関係を考えました。
身体には、さまざまな情報があります。
疲れている。
緊張している。
なんとなく不安。
心地よい。
嫌な感じがする。
そうした感覚は、自分の状態を知るための大切な情報です。
けれど、
「私は今、こう感じている」
ということと、
「だから、現実はこうである」
ということは、同じではありません。
感じたことをいったん観察し、その意味を考える。
その「間」があることで、私たちは反応するだけではなく、選択することができるようになります。
では、それで十分なのでしょうか。
ここには、更に、もう一つ大切な問題があります。
「観察すれば、正しく選べる」のだろうか
たとえば、誰かの言葉に傷ついたとします。
「この人は自分を軽く扱っている」
そう感じた。
そこで、
「今、自分は傷ついている」
と気づき、
「なぜ自分はこんなに反応したのだろう」
と考える。
そして、
「感情に流されず、冷静に判断しよう」
とする。
一見すると、とても理性的です。
けれど、その「冷静に考えている自分」も、本当に何の偏りもなく現実を見ているのでしょうか。
ここに、認識の難しさがあります。
「観察する自分」にも、フィルターがある
私たちは、外の世界をそのまま見ているわけではありません。
目や耳、身体から入ってくる情報を、脳は過去の経験や期待、注意の向け方、現在の感情などと結びつけながら意味づけています。
つまり、
感じることだけではなく、観察することにも認識のフィルターがある、
ということです。
だから、
「自分は冷静に考えている」
と思っていても、実際には、
「自分にとって都合のよい情報を中心に見ている」
ことがあります。
あるいは、
「自分は正しい」
という前提に合う情報ばかりを集めていることもあります。
心理学では、すでに持っている望ましい結論に向かって、情報を選択的に解釈しようとする傾向が研究されています。
これは、特別な人だけに起こるものではありません。
人間の認識そのものに関わる問題です。
「考えたから正しい」とは限らない
ここで大切なのは、
考えることを否定することではありません。
むしろ、考えることは必要です。
ただ、
「考えた結果だから正しい」
とは限らない。
ここを区別する必要があります。
たとえば、
「自分は相手のためを思って言った」
という判断も、
「相手のため」という言葉の中に、
「自分の考えを認めてほしい」
「自分が正しいと思われたい」
という気持ちが混ざっているかもしれません。
本人には、それが見えないこともあります。
だからこそ、
「自分は何を考えているのか」
だけではなく、
「なぜ、自分はそう考えたのか」
を見る必要があります。
さらに一歩進めるなら、
「自分は、何を見て、何を見落としているのか」を見る。
ここから、「認識を観る」という作業が始まります。
同じ選択を繰り返す理由
私たちの人生には、ときどき不思議な繰り返しがあります。
相手は変わっているのに、同じような人間関係になる。
場所を変えても、同じような不満を感じる。
仕事を変えても、同じように疲れてしまう。
「今度こそ違う選択をしよう」
と思っているのに、気がつくと似たような選択をしている。
これは、
「選択する力がない」
ということではありません。
むしろ、
選択する前の「認識の仕方」が、以前と同じなのかもしれません。
選択の前には、認識がある
私たちの行動を単純化すると、
入力 (誰かの言葉を聞く)
↓
認識 (責められたor単に意見を言われた)受け取る
↓
判断 (反論しようor黙っていよう)
↓
行動
↓
結果 (次の経験となり、自分の認識に影響)
↓
次の入力
という循環として見ることができます。
たとえば、誰かの言葉を聞く。
それが「入力」です。
その言葉を、
「責められた」
と受け取るのか、
「単に意見を言われた」
と受け取るのか。
そこには認識があります。
そして、
「反論しよう」
「黙っていよう」
「話し合おう」
と判断する。
その結果として、行動が生まれます。
そして、その結果がまた次の経験となり、自分の認識に影響していきます。
つまり人生は、
選択の連続であると同時に、認識の循環でもある。
のです。
「自由に選んでいる」と思っていても
ここで、もう一つ見えてくることがあります。
私たちは、
「自分で考えて、自分で選んでいる」
と思っています。
それは確かに重要な側面です。
しかし、その選択が、
過去の経験、
習慣、
恐れ、
期待、
思い込み、
自己防衛、
「こうあるべき」という価値観
などに強く影響されているとしたらどうでしょう。
選択そのものは自由に見えても、
選択するまでの認識が、いつも同じ方向に傾いている。
その場合、結果として同じような選択を繰り返すことがあります。
だから、
「どう選ぶか」
だけを見るのではなく、
「選ぶ前に、自分は何を見ているのか」を見る
ことが大切になります。
「選択する前にある認識」を観る...正しい選択とは?
「自分を守ること」は悪いことではない
ここで、誤解してはいけないことがあります。
自分の利益を考えることや、自分を守ろうとすることそのものが悪いわけではありません。
生き物には、自分の生命を守ろうとする働きがあります。
人間にも、危険を避け、傷つかないようにし、自分の生活を守ろうとする自然な傾向があります。
問題になるのは、
「自分を守ること」が、いつの間にか「自分だけを見ること」になってしまうときです。
自分の立場だけを見る。
自分に都合のよい情報だけを見る。
相手の事情を見ない。
短期的な利益だけを見る。
そうなると、本人は「合理的に選んでいる」と思っていても、同じ認識のパターンを繰り返してしまうことがあります。
だから「選択」の前に、「見ること」がある
前回、
感じる
↓
気づく
↓
観察する
↓
考える
↓
選択する
という流れを考えました。
⑨では、そこにもう一段加えてみます。
感じる
↓
気づく
↓
観察する
↓
考える
↓
「自分は何を見ているのか」を観察する
↓
選択する
この一段が加わることで、
「自分は正しく考えている」
という思い込みそのものも、観察の対象になります。
それは、自分を疑い続けることではありません。
自分を責めることでもありません。
ただ、
「今の自分の見方にも、何らかのフィルターがあるかもしれない」と知っておく
ことです。
そこに、認識を変えていくための小さな「間」が生まれます。
そして、その「間」こそが、
「反応する人生」から「選択する人生」へ
進むための大切な場所になるのかもしれません。
では、その「間」で、私たちは何を見ればよいのでしょうか。
それが、後編のテーマになります。
