asa insight

2026-09-27 17:40:00

asa information 9月号⑧ 「感じたこと」は、そのまま真実なのだろうか? ― 身体感覚と心のあいだにある「認識」というフィルター

asa information 9月号⑦「なんとなく調子が出ない」は、心の問題だけなのか?

では、身体を感じ、心を感じ、その両方から、秋の身体の不調に目を向け、

身体を感じる。

 ⬇

心を感じる。

 ⬇

気づく。

 ⬇

観察する。

 ⬇

考える。

 ⬇

そして、選択する。

という流れを見てきました。

身体の感覚に気づくこと。

心の変化に気づくこと。

それを無視せず、自分自身を観察してみること。

それは、自分を知るための大切な入口です。

けれど、ここで一つ、さらに深く考えてみたいことがあります。

それは、

私たちは、本当に身体や心を「ありのまま」に感じているのだろうか?

という問いです。

 

「感じる」とは、どういうことなのだろう?

たとえば、

「今日は身体が重い」

と感じたとします。

その感覚は確かに自分の中にあります。

けれど、その「重さ」は、一体何なのでしょう?

昨日あまり眠れなかったからでしょうか。

夏の疲れが残っているからでしょうか。

季節が変わったからでしょうか。

仕事へのストレスがあるからでしょうか。

それとも、これから始まる予定を考えて、気持ちが重くなっているのでしょうか。

私たちは、身体の感覚を感じると同時に、

「これは○○のせいだ」

「きっと○○だからだ」

と、その原因や意味を考え始めます。

つまり、

身体から届いた感覚と、その感覚について私たちが考えたことは、同じものではありません。

ここに、とても重要な「認識」の問題があります。

 

身体の感覚にも、脳は関わっている

私たちの身体には、心拍、呼吸、体温、消化管の状態など、さまざまな内部状態があります。

こうした身体内部からの情報を感じ取り、統合する働きは、

一般に「内受容感覚(interoception)」と呼ばれています。

近年の研究では、内受容感覚は単純に、

 「身体で起きたことが、そのまま脳に伝わり、私たちが感じる」

というだけの仕組みではないと考えられています。

身体から届く情報は、

過去の経験や現在の状況、予測などと関係しながら脳内で処理され、

主観的な身体感覚や感情経験につながっていくと考えられています。(PubMed)

つまり、

「感じる」ということ自体が、

すでに情報を受け取り、統合し、意味づけていく過程なのです。

これは、とても興味深いことではないでしょうか。

 

「身体を感じる」ことも、一つの認識

これまで「認識」という言葉は、

「物事を考えること」

「情報を理解すること」

のような意味で捉えてきました。

けれど、もっと身近なところにも「認識」はあります。

暑い。

寒い。

重い。

軽い。

苦しい。

心地いい。

落ち着かない。

安心する。

こうした身体感覚や感情も、私たちが世界や自分自身を受け取るための重要な情報です。

そして、その情報は、単純に身体から一方向に届いているだけではありません。

現在の身体の状態と、これまでの経験や予測などが関わりながら、

私たちが「今、自分はこういう状態だ」と感じる経験が形づくられていきます。(PubMed)

だから、

「身体を感じること」も、実は「自分を認識すること」の一部なのです。

ここまで来ると、9月号⑦で考えた「自分を感じる」というテーマが、少し違って見えてきます。

 

同じ身体でも、「感じ方」は変わる

たとえば、同じように心臓が速く動いていたとしても、

運動した後なら、

「身体を動かしたからだ」

と思うでしょう。

大切な人を待っているときなら、

「緊張しているのかな」

と思うかもしれません。

人前で話す直前なら、

「不安になっている」

と感じるかもしれません。

突然危険を感じたときなら、

「怖い」

と感じるかもしれません。

身体の変化そのものと、

その変化を「どう感じ、どう理解したか」

は、必ずしも同じではありません。

もちろん、これは「身体感覚は作り物だ」という意味ではありません。

身体では実際に何らかの変化が起きています。

ただ、

その変化が私たちの意識の中でどのような経験になるかには、

身体そのものだけではなく、

状況や過去の経験なども関係しています。

だからこそ、

「感じたこと」と「感じたことについての解釈」を分けてみること

が大切になります。

 

「なんとなく嫌だ」は、事実なのだろうか?

これは、人間関係でもよく起こります。

たとえば、ある人と話していると、

「なんとなく身体が緊張する」

と感じたとします。

その感覚は、自分にとって本物です。

でも、そこからすぐに、

「この人は自分を嫌っている」

「この人は信用できない」

「きっと自分に悪意がある」

と判断してしまったら、どうでしょう。

ここには、

感覚 → 解釈 → 判断

という流れがあります。

しかし、

「身体が緊張した」

ということと、

「あの人は危険な人だ」

ということは、同じではありません。

もしかすると、その人が苦手なのかもしれません。

過去に似た経験があったのかもしれません。

自分が疲れていて、いつもより緊張しやすくなっていたのかもしれません。

あるいは、本当に相手の言動に何か違和感があったのかもしれません。

この時点では、まだ決めつける必要はありません。

だからこそ、

感じたことを大切にしながら、感じたことをそのまま事実とは決めつけない。

その「間」が重要になります。

 

感覚を疑うのではなく、感覚を観察する

ここで、

「では、身体感覚や直感は信用しないほうがいいのか?」

という疑問が出てくるかもしれません。

そうではありません。

むしろ、身体感覚は、自分の状態を知るための大切な情報です。

疲れている。

緊張している。

安心している。

落ち着かない。

心地いい。

そうした感覚を無視してしまえば、自分自身の状態を知ることが難しくなります。

大切なのは、

感覚を否定することではなく、感覚と判断を分けること。

たとえば、

 「私は今、胸が少し苦しいと感じている」

ここまでは「感じていること」です。

そこから、

 「私は不安なのかもしれない」

と考える。

さらに、

 「昨日あまり眠れていないことも関係しているかもしれない」

 「仕事のことを考えているからかもしれない」

 「身体的な原因も考えられる」

と、いくつかの可能性を眺めてみる。

そして

必要な対応を選ぶ。

このように、

感じることと、

判断することの間に「観察」を置く。

それによって、

感覚に反応するだけではなく、

感覚を材料にして自分で考えられる、

ようになります。

 

「間」があると、選択できる

ここで、190で考えた

「反応する人生」から「選択する人生」へ

というテーマにつながってきます。

何かを感じる。

  ↓

すぐに反応する。

これが「反応する人生」です。

 

一方で、

何かを感じる。

 ↓

気づく。

 ↓

観察する。

 ↓

考える。

 ↓

選択する。

という流れもあります。

この違いは、ほんの少しの「間」です。

その間に、

「私は今、何を感じているのだろう?」

「なぜ、そう感じたのだろう?」

「この感覚に、どんな意味を与えているのだろう?」

「ほかの見方はないだろうか?」

と眺めてみる。

すると、

「感じたから、こうする」

ではなく、

「感じたことを知ったうえで、どうするかを選ぶ」

ことができるようになります。

 

「ありのままに感じる」とは、何なのか?

ここで、最初の問いに戻ってみます。

 私たちは、身体や心をありのままに感じているのでしょうか?

もしかすると、

完全に「ありのまま」ということは、難しいのかもしれません。

 

身体から届く情報は、神経系を通して処理されます。

       ⬇

そこには過去の経験や注意、期待、状況などが関わります。

       ⬇

そして私たちは、その感覚に言葉を与え、意味を与えます。

 

つまり、

「感じる」ということにも、すでに自分自身の認識が関わっている。

だから、

「ありのままに感じよう」と頑張ることよりも、

 「今、自分はこう感じている」と気づく

ことのほうが大切なのかもしれません。

 

「これが絶対的な真実だ」

ではなく、

「今の自分には、こう感じられている」

と捉える。

この違いは、とても大きいものです。

 

「私はこう感じている」と「これは真実だ」は違う

たとえば、

「自分は嫌われている気がする」

という感覚があったとします。

ここで、

「私は、嫌われていると感じている」

と言うのと、

「私は、嫌われている」

と言うのでは、意味が違います。

前者には、

「これは今の自分の感じ方なのだ」という

余白

があります。

後者では、

「自分の感じたこと=現実」

と、一気に結びついてしまいます。

この小さな違いが、

認識を観察できるかどうかを分ける

ことがあります。

「私は今、そう感じている」と

気づいた瞬間、

感じている自分と、

その感覚を観察している自分との間に、

ほんの少し「距離」ができます。

その距離が、

「間」

になります。

 

「感じる」ことから、「観る」ことへ

ここまで来ると、

「感じること」と「観ること」は、対立するものではないことが分かります。

感じる。

 ↓

気づく。

 ↓

観る。

「私は今、こう感じている」

と気づいたら、

「なぜだろう?」

「何が影響しているのだろう?」

「別の可能性はないだろう?」

と観察してみる。

そこで初めて、

感覚を情報として扱うこと

ができます。

感覚を無視するのでもない。

感覚に支配されるのでもない。

感覚を大切な情報として受け取りながら、その意味を慎重に観察する。

それが、

「感じる」と「考える」をつなぐこと

なのかもしれません。

 

身体も心も、「自分を知るための情報」

9月号⑦では、

「自分を感じる」

ことを考えました。

9月号⑧では、そこからもう一歩進んで、

「感じたものを、どう観るのか」

を考えています。

身体は、自分について多くの情報を届けてくれます。

心も、さまざまな感情を伝えてくれます。

けれど、それらをすぐに「真実」と決めつける必要はありません。

疲れた。

嫌だ。

怖い。

嬉しい。

安心する。

苦しい。

心地いい。

その一つひとつを、

「今の自分には、そう感じられている」

と受け取ってみる。

そして、

少し観察してみる。

すると、

「自分は何を感じているのか」

だけではなく、

「自分は、その感覚をどう解釈しているのか」

まで見えてきます。

ここに、認識を観るということの入り口があります。

 

「自分を観る」ということ

これまで「真実を観る眼力」では、

世界をどう見るのか。

人はなぜ思い込みにとらわれるのか。

なぜ同じ現実を見ても、人によって受け取り方が違うのか。

そして、自分とは何なのか。

そんな問いを重ねてきました。

けれど、世界を観るときだけではありません。

自分自身を感じるときにも、認識というフィルターが働いている。

そう考えてみると、

「自分を知る」

ということも、簡単ではないことが分かります。

身体を感じる。

心を感じる。

その感覚に気づく。

そして、

「私は今、何を感じているのだろう?」

と観る。

さらに、

「私は、この感覚をどう意味づけているのだろう?」

と観る。

ここまで来ると、観察の対象は「身体」や「心」だけではありません。

「身体や心を感じている自分自身」

まで、観察の対象になってきます。

 

「身体や心を感じている自分自身」を観察する

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そして、「選ぶ」ことへ

感じることは、大切です。

でも、感じたことだけで人生を決める必要はありません。

考えることも、大切です。

でも、考えたことだけで身体や心を無視する必要もありません。

感じる。

気づく。

観察する。

考える。

選ぶ。

この順番には、

身体と心を尊重しながら、それに支配されない

という意味があります。

「怖いから、やめる」

「嫌だから、逃げる」

「みんながそう言うから、そうする」

という反応だけではなく、

「怖さを感じている」

「嫌だと感じている」

「周囲の意見に影響されている」と

気づいたうえで、

「それでも、自分はどうするのか?」を

選ぶ。

そこに、自分の人生を自分で生きるということが始まるのかもしれません。

 

感じたことを、大切にする

「感じたことは、そのまま真実なのだろうか?」

この問いに、簡単な答えはありません。

身体感覚には身体からの情報があります。

そこには心の状態も関わります。

そして、その情報を私たちは脳の働きを通して受け取り、過去の経験や現在の状況などとともに意味づけています。(PubMed)

だから、

感じたことを疑いすぎる必要もない。

けれど、

感じたことを絶対視する必要もない。

その間に立つ。

「私は今、こう感じている」

と気づく。

そして、

「これは何なのだろう?」

と観察する。

必要なら、

考え直す。

そして、自分にとって必要な

選択をする。

その一つひとつの積み重ねが、

「反応する自分」から「観察して選択する自分」へ

移っていくための小さな一歩になるのかもしれません。

 

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「真実を観る」とは、自分の感じ方さえ観ること

私たちは、外の世界を「正しく見たい」と思います。

事実を知りたい。

本当のことを知りたい。

相手の本心を知りたい。

けれど、そのためには、

「自分は今、何を感じ、何を見て、何を意味づけているのか」

にも目を向ける必要があります。

外の世界だけではありません。

自分の身体も。

自分の心も。

自分の感情も。

そして、

「自分はこう感じている」と思っている、

その認識さえも、

一度、静かに観てみる。

そこには、

「感じる自分」と、

「その感じ方を観察する自分」

がいます。

その二つの間に生まれる、

ほんの小さな余白。

その「間」に立つことができたとき、

私たちは初めて、

感じたことにただ反応するのではなく、

感じたことを理解し、

自分で選ぶ

ことができるのかもしれません。

そして、そのときから、

「自分を感じる」ことは、

「自分を観る」ことへ。

「自分を観る」ことは、

「自分で選ぶ」ことへ。

少しずつつながっていきます。