asa insight

2026-09-15 17:20:00

真実を観る眼力189【後編】 「自分」とはいったい何なのでしょうか? ― 「今ここ」にある意識と、「自分」を観察する私 ―

はじめに

中編では、

「今に生きる」とは、

過去や未来を消すことではなく、

過去や未来が意識に現れていることに気づき、今へ戻ってくること

だと考えてきました。

そして、

もう一つの問いにたどり着きました。

怒りに気づいている。

悲しみに気づいている。

思考に気づいている。

記憶に気づいている。

では、

その「気づいている私」とはいったい何なのでしょうか?

ここからは、

「自分」をさらに一歩、

外側から観察してみます。

 

第30章「観察する私」とはいったい何なのか?

怒っている。

そして、

その怒りに気づいている。

悲しい。

そして、

その悲しみに気づいている。

考えている。

そして、

その考えに気づいている。

このとき、

「怒り」と、

「怒りに気づいていること」は、

同じなのでしょうか?

少なくとも、

私たちの日常経験では、

少し違うように感じられます。

怒りが生まれても、

しばらくすると、

怒りが消えることがあります。

不安も、

時間とともに変化します。

考えも、

次々と変わります。

それでも、

「自分はそれらに気づいていた」

という感覚があります。

では、

その「気づいているもの」は何なのか?

ここから、

科学と哲学の境界にある、

非常に深い問いが始まります。

 

第31章「自分」は脳のどこにあるのか?

「自分」という、

小さな司令塔が、

脳のどこかに存在している。

そんなイメージを、

私たちは持ちやすいかもしれません。

しかし現在の科学では、

「ここが自分です」

と一か所を示すことはできません。

自己感覚には、

身体感覚。

記憶。

感情。

注意。

社会的関係。

自己についての思考。

さまざまな働きが関係しています。

つまり、

「自分」は、

一つの場所にある固定された物体というより、

脳・身体・環境の相互作用の中から生じる複雑な現象

として考えるほうが、

現在の科学にはなじみます。

 

第32章「本当の自分」を探す必要はあるのか?

「本当の自分を見つけたい」

そう思うことがあります。

でも、

もし「本当の自分」が、

どこかに完成された状態で存在していると考えたら、

少し苦しくなるかもしれません。

20歳の自分。

40歳の自分。

60歳の自分。

同じ人間でも、

身体も、

経験も、

価値観も違います。

だから、

本当の自分とは、

どこかに隠れている「完成品」ではなく、

生きながら変化し、発見し続けるもの

なのかもしれません。

 

第33章 哲学は「自分」をどう考えてきたのか?

この問いは、

現代科学だけが考えているものではありません。

何千年も前から、

人間は、

「自分とは何か」

を考えてきました。

インド思想には、

『アートマン(Atman)』

という考えがあります。

私たちが、

「これが自分だ」

と思っている身体や感情、

考えや役割の奥に、

もっと深い自己があるのではないか、

という探究です。

一方、

仏教には、

『無我』

という考えがあります。

これは、

「自分なんて存在しない」

という単純な意味ではありません。

むしろ、

「これこそが永遠に変わらない自分だ」

と固定してしまうことを、

問い直す考え方です。

たとえば、

「私はこういう性格だから」

「私は昔からこういう人間だから」

「私は失敗した人間だから」

と思っていても、

感情も、

考え方も、

身体も、

環境も、

少しずつ変化しています。

すると、

「変化しているものを、本当の自分だと決めつけてよいのだろうか?」

という問いが生まれます。

方向は違っても、

どちらも、

私たちに一つの問いを投げかけます。

「今、自分だと思っているものは、本当に自分のすべてなのだろうか?」

 

第34章 昨日までの自分を今日も演じ続けなくていい

昨日、

こう考えていた。

昨日、

こう感じていた。

昨日、

こういう失敗をした。

だから、

今日も、

「私はこういう人間だ」

と思う。

でも、

昨日と今日では、

状況が違います。

経験も増えています。

そして、

認識も変化しています。

だから、

昨日までの自分を否定する必要はありません。

ただ、

昨日までの認識を、今日もそのまま持ち続ける必要もありません。

必要なものは、

持っていけばいい。

もう必要なくなったものは、

静かに置いていけばいい。

 

第35章「今に生きる」とは認識をゼロにすることではない

完全に無になる。

思考をなくす。

過去を忘れる。

未来を考えない。

それが、

「今に生きる」

ということではありません。

むしろ、

「過去や未来が意識に現れていることに気づきながら、今へ戻ってくる」

ことです。

過去を、

過去として見る。

未来を、

未来として見る。

そして、

現在を、

現在として生きる。

大切なのは、

これらを混同しないことです。

 

第36章「自分を変える」のではなく「自分の認識を見る」

ここまで来ると、

「自分を変えなければ」

という考え方そのものも、

少し違って見えてきます。

「私はこう思う」

   ↓

なぜ、そう思うのだろう?

「私はこれが欲しい」

   ↓

なぜ、欲しいのだろう?

「私はこういう人間だ」

   ↓

なぜ、そう思っているのだろう?

「私はこれが幸せだ」

   ↓

その価値観は、どこから来たのだろう?

こうして、

自分の認識を、

一つずつ観察していく。

すると、

「自分を変える」

前に、

「自分をつくっている認識を見る」

ことができるようになります。

 

第37章「自由」とは好き勝手に生きることではない

認識から自由になる。

これは、

何でも好きなようにすることではありません。

むしろ、

自分を動かしているものを知る

ことです。

恐怖なのか。

比較なのか。

承認欲求なのか。

社会の「普通」なのか。

過去の記憶なのか。

SNSなのか。

アルゴリズムなのか。

それとも、

自分自身の本当の価値観なのか。

それを

知ることで、

初めて、

「反応する」のではなく、

「選ぶ」

ことができます。

そこに、

自由の入り口があります。

 

第38章「自分」という認識を超えて

私たちは、

「自分」というフィルターを通して、

世界を見ています。

完全にフィルターを取り除くことは、

簡単ではありません。

でも、

「自分にはフィルターがある」と気づく

ことはできます。

自分の感情を見る。

自分の記憶を見る。

自分の欲求を見る。

自分の思考を見る。

自分の価値観を見る。

そして、

それらを、

「これが絶対的な自分だ」

決めつけない。

そこに、

認識の自由

が生まれてきます。

 

フィルターを通して世界を観る

ayaka43.png

 

 

第39章 真実を観る眼力とは「自分の認識」さえ観る力

ここで、

このシリーズの本当のテーマに戻ります。

「真実を観る眼力」。

それは、

誰かの嘘を見抜くことだけではありません。

社会の矛盾を見つけることだけでもありません。

AIを疑うことでも、

SNSを否定することでもありません。

もっと深いところにあります。

それは、

「自分が真実だと思っているものさえ、もう一度観察できる力」

です。

「私は正しい」

と思ったとき。

「みんながそう言っている」

と思ったとき。

「私はこういう人間だ」

と思ったとき。

「これが幸せだ」

と思ったとき。

一度、

立ち止まる。

そして、

問いかける。

「本当にそうなのだろうか?」

 

最終章「自分」とはいったい何なのでしょうか?

ここまで、

「自分」とは何なのかを、

さまざまな角度から見てきました。

社会から与えられた価値観。

これまでの記憶や経験。

感情や欲求。

身体。

意識。

そして、

それらに意味を与えている認識。

私たちが「自分」と呼んでいるものは、

その一つだけでできているわけではありません。

それらが重なり合い、

変化し続けながら、

その時々の「私」をつくっています。

だから、

「これが本当の自分だ」

と、一つの形に固定することはできないのかもしれません。

 

「自分」は、固定されたものではない

昨日の自分と、

今日の自分は同じではありません。

考え方も、

感じ方も、

身体も、

置かれている環境も変わります。

それでも私たちは、

「私は私だ」

と感じています。

そこには、

一つの大切なことが見えてきます。

「自分」とは、固定された存在というより、

変化の中でつねに形を変えているプロセスなのではないか。

そして、

私たちはそのプロセスを、

「私はこういう人間だ」

と認識しています。

 

では、その「認識」は誰が見ているのか?

ここで、

もう一つの問いが生まれます。

怒っている自分に、

「今、怒っている」

と気づくことができます。

不安になっている自分に、

「今、不安を感じている」

と気づくこともできます。

「私はこういう人間だ」

と思っている自分についても、

「今、自分をそう認識している」

と見ることができます。

つまり、

私たちは、

自分の感情だけでなく、

自分の思考や認識そのものを、

観察することができる。

ここに、

「自分」をめぐる問いの、

もう一段深いところがあります。

 

「本当の自分」を決めなくてもいい

では、

その「観察しているもの」は何なのでしょうか?

脳の働きなのでしょうか。

意識なのでしょうか。

それとも、

もっと別の何かなのでしょうか。

科学は、

意識がどのように生まれるのかについて、

まだ完全な答えを出していません。

哲学も、

「自分とは何か」という問いに、

一つの答えを定めてはいません。

東洋思想にも、

自己を深い本質として捉える考え方と、

固定した自己そのものを問い直す考え方があります。

だからこそ、

ここで無理に

「これが本当の自分だ」

と結論づける必要はないのかもしれません。

大切なのは、

答えを決めることより、

自分を見ている自分に気づくこと。

そして、

その問いを持ち続けることです。

 

過去の自分に、今の自分を縛らせない

だからといって、

過去を捨てる必要はありません。

過去の経験は、

今の自分をつくってきた大切な記憶です。

ただ、

過去の自分を、

そのまま「今の自分」だと思い込む必要もありません。

「私は昔からこういう人間だから」

「私はこういう性格だから」

「自分には無理だから」

そうした認識も、

一度、

静かに観察してみる。

それは本当に今も必要なのか。

それとも、

過去の経験からつくられた、

一つの認識にすぎないのか。

昨日までの自分を否定する必要はない。

けれど、

昨日までの認識を、今日の自分に絶対視させる必要もない。

 

「真実を観る眼力」とは何か

ここで、

189全編を通して見てきた

「認識革命」というテーマにつながります。

私たちは、

世界をそのまま見ているつもりでも、

実際には、

社会から受け取った価値観、

過去の経験、

感情、

欲求、

記憶、

思い込み、

そして、

自分自身の認識を通して、

世界を見ています。

だから、

真実を観るためには、

世界だけを観察していても十分ではありません。

世界を観ている「自分」の認識も、同時に観る

必要がある。

これが、

189でたどり着いた

「真実を観る眼力」の一つの核心です。

 

「これは本当にそうなのか?」

誰かの言葉を聞いたとき。

ニュースを見たとき。

SNSで情報に触れたとき。

誰かと比較したとき。

自分自身を評価したとき。

その瞬間に、

少しだけ立ち止まってみる。

「これは本当にそうなのか?」

「自分は、なぜそう感じたのだろう?」

「この考えは、どこから生まれたのだろう?」

そして、

必要なら、

自分の認識さえ修正する。

それは、

何も信じないことではありません。

誰かを疑い続けることでもありません。

まして、

「自分だけが正しい」

と思うことでもありません。

自分の認識を絶対視しないこと。

そこに、

「真実を観る眼力」があります。

 

189から見えてきた「認識革命」

これまでの流れを、

一つにまとめるなら、

こうなります。

現実を見る。

  ↓

自分の感情や思考を見る。

  ↓

比較している自分を見る。

  ↓

社会から影響を受けている自分を見る。

  ↓

時間の中で変化する自分を見る。

  ↓

「自分」という認識そのものを見る。

そして、

最後に残るのは、

一つの答えではありません。

「自分とは何なのか?」

という問いです。

 

「分からない」から始まる認識革命

もしかすると、

認識革命とは、

「本当の答えを見つけること」

ではないのかもしれません。

これまで、

当然だと思っていたことを、

もう一度、

自分の眼で観てみる。

自分自身についてさえ、

「本当にそうなのだろうか?」

と問い直してみる。

そして、

分からないものを、

無理に分かったことにしない。

「分からない」

という場所に、

静かに立ってみる。

そこには、

まだ決めつけられていない、新しい可能性

があります。

 

最後に

「自分」とはいったい何なのでしょうか?

その答えを、

今ここで決める必要はありません。

むしろ、

これから生きていく中で、

自分自身を観察し続けること。

変化する自分を受け入れること。

そして、

自分の認識さえも、

必要に応じて問い直していくこと。

その積み重ねの中で、

「自分」というものの見え方は、

少しずつ変わっていくのかもしれません。

自分を知るとは、

「私はこういう人間だ」と決めることではない。

「私は今、こう認識している」と気づくこと。

そして、

その認識を、

もう一度、

自分自身の眼で観てみること。

それが、

189全編を通してたどってきた、

「認識革命」の核心です。

そして、

その先には、

まだ一つの問いが残されています。

「自分」という認識を超えたとき、

世界は、いったいどのように見えてくるのでしょうか?

その問いは、

ここで終わるのではありません。

次の認識へ向かう、

新しい入口なのです。