asa insight

2026-09-13 14:00:00

真実を観る眼力189【前編】 「自分」とはいったい何なのでしょうか? ― 社会につくられた「私」から、時間の中で変化する「私」へ ―

はじめに

「自分」とはいったい何なのでしょうか?

突然そう聞かれて、

すぐに答えられる人は、

それほど多くないかもしれません。

名前。

年齢。

仕事。

家族。

性格。

好きなもの。

嫌いなもの。

これまでの経験。

大切にしている価値観。

そうしたものを並べれば、

「自分」の説明はできそうです。

でも、

それらは本当に、

「自分そのもの」なのでしょうか?

例えば、

仕事を辞めたら、

自分ではなくなるのでしょうか。

結婚したら、

以前の自分とは別の人になるのでしょうか。

子どもが成長したら、

「母親」という役割が変わることで、

自分自身も変わるのでしょうか。

若いころとは、

考え方も、

身体も、

価値観も、

ずいぶん変わった。

それでも、

「私は私だ」

と感じています。

では、

その「私」という感覚は、

いったいどこから生まれているのでしょうか?

そして、

もう一つ、

見逃せないものがあります。

それが、

「時間」です。

 

第1章「私」は、ずっと同じではない

昨日の自分。

今日の自分。

10年前の自分。

そして、

10年後の自分。

どれも、

「自分」です。

でも、

同じではありません。

身体は変化します。

考え方も変わります。

好きなものも変わります。

人間関係も変わります。

人生の優先順位も変わります。

以前なら許せなかったことが、

今なら理解できる。

以前は怖かったことが、

今では平気になっている。

反対に、

昔は何とも思わなかったことが、

今では気になることもあります。

それでも、

私たちは、

「昨日の私」と「今日の私」は、

同じ人間だと感じています。

これは、

とても不思議なことではないでしょうか。

変化しているのに、同じだと感じている。

そこに、

「自分」という存在の謎があります。

 

第2章「自分」は、名前ではない

「私は○○です」

まず、

名前があります。

しかし、

名前は、

生まれた瞬間から自分の中に存在していたわけではありません。

誰かが名前をつけ、

何度も呼ばれ、

その音が、

「自分を指すもの」

として認識されるようになります。

名前は、

社会の中で自分を識別するために、

とても大切なものです。

でも、

名前そのものが、

「自分」ではありません。

名前を変えても、

その人の存在が消えるわけではないからです。

 

第3章  肩書きがなくなったら、「私」もなくなる?

会社員。

経営者。

主婦。

母親。

父親。

学生。

教師。

医師。

登山者。

ブロガー。

人には、

さまざまな役割があります。

そして、

社会の中では、

その役割によって、

「自分」を説明することができます。

でも、

仕事を辞めたら、

自分ではなくなるでしょうか?

子どもが独立したら、

「母親」という自分は消えてしまうでしょうか?

もちろん、

そんなことはありません。

つまり、

社会的な役割は「自分」の一部ではあっても、「自分のすべて」ではない

のです。

 

第4章  記憶が「私」をつくっている

では、

記憶はどうでしょうか?

「あのとき、こんなことがあった」

「だから、自分はこうなった」

「昔から私はこういう人間だった」

私たちは、

過去の出来事をつなぎ合わせて、

自分の人生を一つの物語として理解しています。

その意味で、

記憶は「自分」をつなぐ重要な役割を持っています。

しかし、

ここにも不思議なことがあります。

記憶は、

ビデオカメラのように、

過去をそのまま保存しているわけではありません。

思い出すときには、

そのときの感情や、

現在の状況などの影響を受けることがあります。

つまり、

「過去の自分」は、

現在の自分の中で、

もう一度、

意味づけされている

のです。

すると、

こんな問いが生まれます。

「私」という存在は、過去の記憶をつなぎ合わせてつくられた物語でもあるのではないでしょうか?

 

第5章「私はこういう性格です」という思い込み

「私は人見知りです」

「私は心配性です」

「私は飽きっぽいです」

「私は負けず嫌いです」

自分の性格を知ることは、

もちろん大切です。

でも、

それを「固定された自分」と考えてしまうと、

少し問題が起こります。

同じ人でも、

家族といるとき。

職場にいるとき。

友人といるとき。

一人でいるとき。

少しずつ違う顔を見せます。

環境が変われば、

行動も変わります。

経験によっても、

人は変わります。

だから、

「私はこういう人間だ」

という言葉も、

実は一つの「自己認識」にすぎないのかもしれません。

その認識が、

未来の可能性を狭くしてしまうことさえあります。

 

第6章  感情は「私」そのものなのか?

怒っている。

悲しい。

嬉しい。

怖い。

不安。

楽しい。

私たちは、

「私は怒っている」

と言います。

でも、

怒りは永遠には続きません。

時間が経てば、

弱くなることがあります。

悲しみも変化します。

不安も、

状況が変われば、

軽くなることがあります。

では、

感情が変わるたびに、

「自分」そのものが変わっているのでしょうか?

ここで、

少しだけ言葉を変えてみます。

「私は怒っている」

ではなく、

「今、怒りという感情が生じている」

と見る。

「私は不安な人間だ」

ではなく、

「今、不安という感情が起きている」

と見る。

すると、

「自分」と「自分の中で起きていること」の間に、

ほんの少し、

距離が生まれます。

この小さな「間」が、

非常に大切なポイントになります。

 

第7章「欲しい」と思ったものは本当に自分が欲しいもの?

「もっとお金が欲しい」

「もっときれいになりたい」

「認められたい」

「成功したい」

「人より優れたい」

こうした欲求は、

私たちを動かします。

でも、

その「欲しい」は、

どこから来たのでしょうか?

身体から生まれた欲求でしょうか。

自分自身の価値観でしょうか。

家族から受け取った価値観でしょうか。

社会から学んだ価値観でしょうか。

広告から刺激されたものでしょうか。

SNSで誰かと比較した結果でしょうか。

アルゴリズムによって、

何度も同じ情報を見せられた結果でしょうか。

ここで、

⑤なぜ人間は比較することをやれられないのか?

真実を観る眼力187 なぜ「自分で考えている」と思い込むのか?

真実を観る眼力188 社会が私たちの認識をどのようにつくるのか、の話がつながってきます。

比較。

情報。

アルゴリズム。

社会。

それらが、

「自分はこう思う」

という認識に入り込んでいる可能性があります。

 

第8章「自分」は社会の中でつくられている

私たちは、

生まれた瞬間から、

社会の中で生きています。

言葉を覚える。

善悪を学ぶ。

「普通」を学ぶ。

人との接し方を学ぶ。

成功とは何かを学ぶ。

幸せとは何かを学ぶ。

そして、

「こういう人間になるべき」

というイメージも、

少しずつ学んでいきます。

家族。

学校。

友人。

文化。

テレビ。

広告。

SNS。

そして、

現在では、

アルゴリズムやAI。

それらは、

「自分」という認識を、

少しずつ形づくっています。

だから、

「これは私自身の考えだ」

と思っているものの中にも、

実は、

多くの「外から受け取ったもの」が含まれているかもしれません。

 

第9章「私は私だ」という感覚は、どこから来るのか?

朝、

目が覚めます。

昨日の自分と、

今日の自分。

身体は少し変化しています。

感情も違います。

考えていることも違います。

それでも、

「私は私だ」

と感じます。

なぜでしょうか?

記憶。

身体の連続性。

人間関係。

そして、

「私は昨日も私だった」

という自己認識。

こうしたものが、

「自分が同じ自分であり続けている」

という感覚を支えていると考えられます。

つまり、

「同じ自分が続いている」という感覚そのものが、

私たちの認識によって支えられている

とも考えられるのです。

 

第10章  そして、「時間」という不思議なものが現れる

ここから、

「自分」という問いは、

さらに深くなります。

なぜなら、

「自分」は、

時間の中に存在しているからです。

昨日。

今日。

明日。

過去。

現在。

未来。

私たちは、

時間の流れの中で、

自分を認識しています。

しかし、

時間とは、

本当に私たちが日常で感じているように、

「過去から未来へ流れているもの」

なのでしょうか?

物理学は、

この当たり前の感覚に、

大きな問いを投げかけました。

 

第11章  アインシュタインが変えた「時間」のイメージ

相対性理論では、

空間と時間は、

完全に独立したものではありません。

「時空」

として扱われます。

そして、

観測する人の運動状態などによって、

時間や空間の測定が変わることが示されています。

これは、

「時間は誰にとっても同じ速さで流れる」

という、

私たちの日常的な感覚とは異なります。

ここで大切なのは、

「相対性理論によって4次元を超える世界が証明された」

ということではありません。

そこまで言うことはできません。

むしろ重要なのは、

「私たちが当たり前だと思っている「時間」そのものが、思っていたほど単純ではなかった」

ということです。

 

時間という認識

ayaka37.png

 

 

第12章「今」は、本当に一瞬なのか?

時計を見ると、

10時00分01秒。

その次は、

10時00分02秒。

時間は、

流れているように感じます。

でも、

不思議なことがあります。

私たちが実際に経験できるのは、

いつも、

「今」

だけです。

昨日のことを思い出しているときも、

「今」。

明日のことを心配しているときも、

「今」。

10年後の自分を想像しているときも、

「今」です。

つまり、

過去も未来も、

私たちの意識の中では、

現在に現れています。

 

第13章  過去は、今の中に「記憶」として現れる

昨日、

誰かから言われた言葉を思い出したとします。

その人は、

今ここにはいません。

出来事も、

昨日に戻ったわけではありません。

でも、

思い出した瞬間、

胸が苦しくなることがあります。

なぜでしょうか?

過去そのものが、

現在に戻ってきたからではありません。

「過去についての記憶と意味づけが、現在の意識の中に現れている」

からです。

だから、

過去は、

現在の自分の中で、

「記憶」として経験されます。

 

第14章  未来も、「今」の中で想像されている

未来も同じです。

明日の予定。

来月の計画。

将来の夢。

老後の不安。

未来への期待。

まだ起きていない出来事なのに、

私たちは、

それについて考えることができます。

人間には、

過去の経験をもとに、

未来を予測し、

現在の行動を決める能力があります。

つまり、

私たちは、

過去を背負い、

未来を予測しながら、

現在を生きているのです。

 

第15章  では「今」に過去と未来が全部入っているのか?

ここで、

一つ注意が必要です。

哲学では、

「現在だけが実在するのか」

「過去・現在・未来は、何らかの意味ですべて存在するのか」

という議論があります。

現在主義。

永遠主義。

時間の哲学では、

さまざまな立場があります。

しかし、

相対性理論から、

「過去も未来も、この瞬間の一点に凝縮されている」

と科学的に証明されたわけではありません。

ここは、

科学と哲学を混同しないことが大切です。

ただし、

私たちの経験については、

一つの確かなことがあります。

「過去を思い出すのも、未来を想像するのも、「今」という意識の中で起きている。」

この事実は、

「今」を考えるうえで、

とても重要なヒントになります。

 

第16章「昨日までの自分」を、今日まで連れてくる

ここで、

最初の問いに戻ってみましょう。

「自分」とは何でしょうか?

私たちは、

昨日までの経験を持って、

今日を生きています。

昨日失敗した。

だから今日も、

「自分は失敗する人間だ」

と思う。

昨日、誰かに否定された。

だから、

「自分には価値がない」

と思う。

昔、

「あなたはこういう人だ」

と言われた。

だから、

今も、

「私はこういう人間だ」

と思っている。

しかし、

よく考えてみると、

それは、

「過去に起きた出来事そのものではなく、過去について現在の自分が持っている認識」

なのかもしれません。

 

第17章  昨日の認識は、今日も正しいとは限らない

昨日、

必要だった考え方が、

今日には必要なくなっていることがあります。

昔、

自分を守るために必要だった思い込みが、

今では、

自分を苦しめていることもあります。

「私は人付き合いが苦手」

「私は何をやっても続かない」

「もう年だから無理」

「私は人より劣っている」

そんな言葉も、

よく考えてみれば、

過去の経験からつくられた、

一つの自己認識です。

それは、

永遠に変わらない真実なのでしょうか?

 

第18章「自分」は、固定されたものではないのかもしれない

身体は変わります。

感情も変わります。

記憶の意味も変わります。

考え方も変わります。

人間関係も変わります。

価値観も変わります。

それでも、

「私は私だ」

という感覚があります。

だから、

「自分」というものを、

固定された一つの物体として考えるより、

「自分とは、変化し続けながら連続しているプロセスなのではないか」

と考えてみることができます。

川の水は、

ずっと入れ替わっています。

それでも、

私たちは、

そこに「川」という存在を感じます。

「自分」も、

それに少し似ているのかもしれません。

 

前編の終わりに

ここまで来ると、

「自分」というものが、

少し違って見えてきます。

自分は、

名前だけではない。

肩書きだけでもない。

記憶だけでもない。

性格だけでもない。

感情だけでもない。

欲求だけでもない。

そして、

社会によってつくられたものだけでもない。

それらが複雑に重なり合い、

時間の中で変化しながら、

「私」という感覚をつくっている。

では、

もしそうだとしたら....

その「私」を認識しているのは、いったい誰なのでしょうか?

怒りを、

「今、怒っている」

と観察している自分。

不安を、

「今、不安を感じている」

気づいている自分。

自分の考えを、

「私は今、こう考えている」

見ている自分。

では、

その「見ている自分」は、何なのでしょうか?

そして、

さらに大きな問いがあります。

 昨日までの記憶や経験、

 社会の価値観、

 思い込みを静かに手放し、

 意識を「今ここ」に置いたとき...

 そこには、いったい何が残るのでしょうか?

その問いから、

後編へ続きます。