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2026-08-12 19:45:00

真実を観る眼力178 人類意識の進化 ~宇宙秩序に学ぶ認識革命~ 第13話・前編 「私たちは、なぜ同じ方向を向いてしまうのか」 ~社会・情報・共感がつくる集合意識~

【プロローグ】 私たちは、本当に自分の意思で考えているのだろうか

私たちは、

毎日、

自分で考え、

自分で判断し、

自分で行動していると思っています。

何を食べるのか。

何を着るのか。

どんな仕事をするのか。

誰と付き合うのか。

何を信じるのか。

そして、

何を「正しい」と思うのか。

一見すると、

そのすべては、

「自分自身の意思」によって

決めているように見えます。

 

しかし、

少しだけ立ち止まってみましょう。

その「自分の考え」は、

いったい、

どこから生まれたのでしょうか?

家族から教えられたもの。

学校で学んだもの。

社会から与えられた価値観。

テレビや新聞から受け取った情報。

インターネットから流れてくる情報。

友人との会話。

SNSで繰り返し見る言葉。

そして、

周囲の人々の表情や反応。

私たちは、

こうした無数の影響を受けながら、

「自分」という意識を

つくっています。

 

つまり、

私たちの意識は、

完全に孤立した存在ではありません。

他者との関係の中で、

絶えず変化しているのです。

 

そして、

ここに、

人間意識の不思議があります。

一人ひとりが、

「自分で考えている」

にもかかわらず、

なぜか、

社会全体が、

同じ方向を向いていくことがあります。

同じものを欲しがり、

同じものを恐れ、

同じものを批判し、

同じ価値観を共有する。

まるで、

社会全体に、

一つの大きな意識が

存在しているかのように。

 

しかし、

本当に、

「巨大な一つの意識」が

存在しているのでしょうか?

それとも、

私たち一人ひとりの意識が、

互いに影響し合った結果、

そのように見えているのでしょうか。

この問いを考えることは、

「集合意識」という

非常に大きなテーマにつながります。

 

そして、

その入口にあるのが、

もっと身近な、

こんな問いなのです。

「私たちは、本当に一人で考えているのだろうか?」

 

第一章 私たちは、一人で考えているのか

私たちは、

自分の頭の中で考えています。

だから、

当然、

「自分の考えは自分のものだ」

と思います。

 

しかし、

その「考える」という行為を

少し細かく見てみると、

不思議なことに気づきます。

私たちが考えるとき、

必ず、

「言葉」を使います。

そして、

その言葉のほとんどは、

自分でつくったものではありません。

「正しい」

「間違っている」

「普通」

「非常識」

「成功」

「失敗」

「幸せ」

「不幸」

「安全」

「危険」

こうした言葉は、

社会の中ですでに

意味を与えられています。

私たちは、

生まれた瞬間から、

言葉の世界の中に入っていくのです。

そして、

言葉を覚えるということは、

単にコミュニケーションの道具を

覚えることではありません。

同時に、

世界の見方を覚えること

でもあります。

 

例えば、

同じ出来事を見ても、

使う言葉によって、

世界の意味は変わります。

「挑戦」と呼ぶのか。

「無謀」と呼ぶのか。

「自由」と呼ぶのか。

「無責任」と呼ぶのか。

現実そのものが、

言葉によって変化したわけではありません。

しかし、

私たちの「認識」は、

変わります。

 

つまり、

私たちは、

現実をそのまま見ているのではなく、

言葉や価値観というフィルターを通して、

現実を見ている

のです。

 

そして、

もう一つ、

重要なことがあります。

私たちは、

周囲の人々の反応を見ながら、

「何が正しいのか」

を学んでいきます。

親が喜ぶこと。

先生が褒めること。

友達に受け入れられること。

社会から評価されること。

逆に、

怒られること。

笑われること。

仲間外れにされること。

こうした経験が積み重なって、

私たちの中に、

「これは良い」

「これは悪い」

という感覚が形成されていきます。

 

つまり、

「自分」という存在は、

完全に一人でつくられるものではありません。

他者との関係の中で、

「自分」がつくられていく。

ここから、

集合意識への最初の扉が開きます。

 

しかし、

ここでさらに、

恐ろしいほど重要な問いが生まれます。

もし、自分の認識そのものが、

社会との関係の中でつくられているのだとしたら、

「自分の考え」と「社会から受け取った考え」を、

私たちは本当に区別できているのでしょうか?

 

そのままを観る・フィルター越しに観る

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第二章 「みんながそう言っている」は、本当に正しいのか

ここで、

さらに、

一歩深く考えてみましょう。

人間には、

周囲と同じ行動を取ることで、

安心を得ようとする傾向があります。

一人だけ違う意見を言うより、

みんなと同じ意見に合わせたほうが、

人間関係を維持しやすい。

社会生活を営むうえでは、

ある程度の共通認識も必要です。

 

しかし、

ここには、

大きな落とし穴があります。

それは、

「みんながそう言っているから、正しい」

という考えです。

多数派であることと、

真実であることは、

同じではありません。

重要なのは、

人数ではありません。

「何人が言っているのか」ではなく、

「何を根拠に、それを言っているのか」

です。

 

新型コロナワクチンをめぐって見えたもの

この問題を考えるうえで、

私たちは近年、

非常に大きな社会的経験をしました。

新型コロナウイルス感染症です。

 

未知の感染症が世界中に広がり、

社会は大きな不安に包まれました。

その中で、

mRNAワクチンを含む

新しいタイプのワクチンが、

緊急的な対応の中で

世界規模で使用されることになりました。

日本でも、

非常に多くの人が接種を受け、

その後、

複数回の接種が行われました。

 

政府や医療機関、

そしてメディアからは、

ワクチン接種の重要性が

繰り返し伝えられました。

「自分を守るために」

「大切な人を守るために」

「社会全体を守るために」

というメッセージです。

 

その背景には、

未知の感染症から

できるだけ多くの生命を守ろうとする、

社会全体の願いがありました。

 

しかし、

ここで、

一度立ち止まる必要があります。

「社会全体が一つの方向に動くとき、個人が疑問を持つ権利まで失われてはいないだろうか?」

 

「接種後」と「接種が原因」は同じではない

ここで、

極めて重要なのが、

「事実」と「解釈」を分けることです。

 

ワクチンを接種した後に、

ある人が死亡した。

これは、

「接種後に死亡した」という

一つの事実です。

しかし、

そこから、

「ワクチンが原因で死亡した」

という結論を導くには、

医学的な検証が必要になります。

 

厚生労働省が公表している数字

厚生労働省によれば、

2026年2月4日の審議会までに、

新型コロナワクチンについて、

「接種後に死亡したとして報告された事例」は2,302件

でした。

 

製造販売業者別では、

ファイザー2,013件、

モデルナ269件、

第一三共9件、

Meiji Seika ファルマ5件、

武田薬品6件です。(厚生労働省)

 

そして、

この2,302件について、

厚労省が示している因果関係評価は、

次のようになっています。

 

2026年7月時点で、比較するうえで重要なのは

「①接種後死亡として報告された件数」と、

「②健康被害救済制度で死亡に関して認定された件数」を分けることです。

両者は意味がまったく違います。

 

(2026年7月時点で確認できる数字)

指標 件数 意味
接種後死亡として報告された事例 2,302件

接種後に死亡したとして報告された事例。

ワクチンとの因果関係が認定された人数ではない

└ 因果関係 α 2件 ワクチンと症状との因果関係が否定できない
└ 因果関係 β 12件 因果関係は認められるが、他の要因も考えられる
└ 因果関係 γ 2,288件 情報不足等により評価できない

健康被害救済制度

「死亡一時金・葬祭料」進達受理

 2,004件

 2026年7月16日時点で、死亡に関する救済申請として受理された件数

同・認定 1,077件 予防接種との因果関係を否定できないとして救済対象になった件数
同・否認 764件 救済対象と認められなかった件数
同・保留 1件 まだ審査中

 

「接種後死亡報告2,302件」は、2026年2月4日の第110回審議会までの集計で、厚労省が2026年2月20日に改めて説明した数字です。

内訳は α 2件、β 12件、γ 2,288件 でした。

① 接種後に死亡したとして報告された
→ 2,302件

② そのうち、因果関係を評価した結果
→ α 2件、β 12件、γ 2,288件

 

一方、

健康被害救済制度による「死亡一時金または葬祭料」は2,004件の進達受理、

1,077件の認定

③ 健康被害救済制度で、死亡一時金・葬祭料の対象として認定された
→ 1,077件

 2026年7月16日現在として公表 (厚生労働省

 

この3つを区別することで、

「2,302人がワクチンで死亡した」

という短絡にも、

 

「因果関係が認められた死亡はほとんどないから問題はない」

という短絡にも陥らず、

 

「では、なぜ2,302件もの死亡が報告され、

その一方で1,077件が救済制度で認定されているのか?」

という、より本質的な問いが残ります。

 

「数字そのものを見たとき、私たちは何を事実として認識し、何を解釈として付け加えているのか?」

という疑問を持つことが、「真実を観る眼力」につながります。

 

「健康被害救済制度」とは何なのか

もう一つ、

重要な数字があります。

それが、

予防接種健康被害救済制度(前掲表)認定数1,077名

です。

 

これは、

予防接種を受けたことによって、

疾病、

障害、

死亡などの健康被害が生じ、

国の審査によって

救済対象と認定された場合に、

医療費、

障害年金、

死亡一時金、

遺族年金、

葬祭料などを給付する制度です。(厚生労働省)

 

そして、

ここで大切なのは、

副反応疑い報告制度と

健康被害救済制度は、

同じものではない

ということです。

 

副反応疑い報告は、

広く情報を集めるための制度。

健康被害救済制度は、

個別の申請について

救済の対象となるかを審査する制度です。

 

厚労省は、

救済制度について、

厳密な医学的因果関係の証明まで必要とせず、

「接種後の症状が予防接種によって起こることを否定できない場合も対象」

としています。(厚生労働省)

 

2026年7月16日時点では、健康被害救済制度全体で、

  • 進達受理:15,491件

  • 認定:9,491件

  • 否認:4,773件

  • 保留:19件

となっています。

 

そのうち死亡一時金・葬祭料については、

  • 受理:2,004件

  • 認定:1,077件

  • 否認:764件

  • 保留:1件

 です。

したがって、

ここでも、

数字の意味を正確に理解する必要があります。

 

ここで、非常に大きな数字の違いが見えてくる

2024年2月、

厚生労働大臣は記者会見で、

非常に重要な比較について説明しています。

 

新型コロナワクチンを除く、

それまで約47年間の

予防接種健康被害認定数は、

3,636件。

そのうち、

死亡認定は、

158件。

 

これに対して、

新型コロナワクチンについては、

2026年7月16日時点で、

健康被害認定が

9,491件

そのうち、

死亡認定が

1,077件

となっています。(厚生労働省)

 

これは、

非常に大きな違いです。

ただし、

ここでも、

単純に、

「新型コロナワクチンは従来のワクチンより危険だった」

と結論づけることはできません。

 

なぜなら、

接種人数、

接種回数、

対象となった年齢層、

接種期間、

制度、

申請状況などが、

大きく異なるからです。

 

しかし、

だからといって、

この数字を無視してよいわけはありません。

むしろ、

この数字を見たときに、

私たちは、

次の問いを持つべきなのです。

「なぜ、従来までのワクチンに比べ、

新型コロナウイルスワクチンの健康被害、死亡認定は

これほど大きな差が生じたのだろうか?」

 

日本の主なワクチンによる「死亡認定」の比較

ワクチン 対象期間・集計 健康被害認定者数 うち死亡認定 備考
新型コロナワクチン 2026年7月時点 1,077件 特例臨時接種等に係る健康被害救済制度
インフルエンザ(定期接種) 1977年~2021年末 56人 5人 約44年間の累計
インフルエンザ(臨時接種) 1977年~2021年末 135人 20人 新型インフルエンザ等
日本脳炎 1977年~2021年末 239人 11人 約44年間の累計
肺炎球菌(高齢者) 2014年~2021年末 72人 2人 定期接種
肺炎球菌(小児) 2013年~2021年末 34人 2人 定期接種
BCG 1977年~2021年末 755人 2人 約44年間の累計
麻しん 1977年~2021年末 143人 14人 約44年間の累計
風しん 1977年~2021年末 71人 3人 約44年間の累計
DPT(旧三種混合) 1977年~2021年末 240人 20人 約44年間の累計

 

「分からない」という答えを恐れない

ここに、

科学的に考えるうえで

非常に大切な姿勢があります。

それは、

「まだ分からない」

という答えを認めることです。

 

実際、

mRNAワクチンについては、

心筋炎や心膜炎という副反応が確認され、

特に若い男性では報告頻度が高いことが、

厚生労働省によって示されています。(厚生労働省)

WHOも、mRNAワクチン接種後の心筋炎・心膜炎について、

ワクチンとの関連性が示されているとしています。(世界保健機関)

 

つまり、

ここで重要なのは、

「何が事実として確認されているのか」

そして、

「何がまだ分かっていないのか」

を分けて考えることです。

 

人間は、

分からない状態を

とても不安に感じます。

だから、

すぐに答えを求めます。

「安全だ」

「危険だ」

「正しい」

「間違っている」

「味方だ」

「敵だ」

 

しかし、

本当の科学は、

いつも、

白か黒かだけで

世界を説明しているわけではありません。

分かっていること。

分かっていないこと。

可能性があること。

可能性が低いこと。

まだ検証中のこと。

それらを、

一つずつ分けていきます。

 

「分からない」と言えることは、

無知なのではありません。

むしろ、

自分の認識の限界を知っている

ということなのです。

 

超過死亡という問い

同じことは、

「超過死亡」をめぐる問題にも言えます。

超過死亡とは、

通常予測される死亡数を上回った死亡を指します。

新型コロナ禍以降、

日本でも超過死亡が注目されるようになりました。

 

しかし、

超過死亡という数字だけを見て、

その原因を一つに決めることはできません。

感染症そのもの。

医療体制への影響。

受診控え。

高齢化。

他の疾病。

生活環境の変化。

そして、

ワクチン接種。

さまざまな要因が考えられるからです。

 

そのため、

「超過死亡が増えた」

という事実だけから、

「その原因はワクチンである」

と結論づけることはできませんが、

しかし、

逆に、

「ワクチンとの因果関係が証明されていないのだから、調べる必要はない」

ということにもなりません。

 

重要なのは、

「なぜ、この数字が生まれたのか?」

と問い続けることです。

疑問を持つ。

調べる。

比較する。

反対の意見も見る。

 

「肯定すること」と

「否定すること」の間に、

『調べる』という第三の道が、

科学を大切にする姿勢です。

 

そして、

分からなければ、

「まだ分からない」

と認める。

それは、

科学を否定することではありません。

ここに、

科学的に考える上で非常に重要な姿勢があります。

 

「反ワク」という言葉が生んだ分断(レッテルが思考を止める)

そして、

もう一つ、

私たちが考えなければならない問題があります。

それが、

「レッテル」です。

 

新型コロナワクチンをめぐっては、

接種に疑問を持つ人や、

接種しないという選択をした人に対して、

「反ワク」

という言葉が使われることがありました。

もちろん、

科学的根拠のない情報や、

明らかに誤った情報まで、

すべて正しいと認める必要はありません。

 

しかし、

「疑問を持つ」

という行為そのものを、

一つのレッテルによって

否定してしまうことには、

危険があります。

 

なぜなら、

その瞬間から、

私たちは、

「その人は何を言っているのか」

ではなく、

「その人は何者なのか」

によって、

相手を判断するようになるからです。

 

これは、

ワクチンだけの問題ではありません。

政治でも、

宗教でも、

科学でも、

社会問題でも、

同じことが起こります。

 

人を分類する。

そして、

「味方」と「敵」に分ける。

すると、

相手の言葉を

聞く必要がなくなります。

その瞬間、

対話が終わります。

 

集合意識の怖さ

ここに、

「集合意識」の

非常に興味深い性質があります。

一人ひとりが、

自分で考えているつもりでも、

同じ情報を受け取り、

同じ言葉を使い、

同じ価値観を共有していると、

その共通認識は、

いつの間にか、

「社会の現実そのもの」

のように感じられてきます。

 

そして、

そこから外れた人を見ると、

「間違っている」

「おかしい」

「危険だ」

と感じる。

 

しかし、

そこで、

一度だけ、

自分自身に問いかけてみるのです。

 

「その判断は、本当に私自身の判断なのだろうか?」

 

私たちは「世界」を見ているのか

SNSの時代になると、

この問題は、

さらに複雑になりました。

私たちの画面には、

自分が興味を持つ情報、

自分が反応した情報、

自分と似た考えを持つ人々の情報が、

次々と現れます。

 

すると、

「世の中は、みんなこう考えている」

という感覚が、

生まれやすくなります。

しかし、

自分の画面に見えている世界が、

社会全体の世界とは限りません。

自分の画面に表示されている世界は、

世界そのものを見ているのではなく、

「自分に届くように選ばれた世界」

を見ている可能性があります。

 

真実を観る眼力とは?

だからこそ、

必要なのは、

「すべてを疑うこと」ではありません。

必要なのは、

観察することです。

 

情報を見る。

出典を見る。

数字を見る。

反対の意見を見る。

そして、

問いかける。

「これは事実なのか?」

 

さらに、

もう一つ、

自分自身に問いかける。

「私は、なぜそう思ったのだろう?」

 

この二つの問いを持つこと。

それが、

認識革命の

最初の一歩なのです。

 

【前編のエピローグ】 「私の考え」は、どこから生まれたのか

ここまで、

私たちは、

一つの問いを追いかけてきました。

「私は、本当に自分で考えているのだろうか?」

 

私たちの認識は、

家族から、

社会から、

教育から、

メディアから、

SNSから、

そして、

周囲の人々との関係から、

影響を受けています。

だから、

自分の考えを持つことと、

社会から影響を受けないことは、

同じではありません。

重要なのは、

影響を受けないことではなく、

「自分が何から影響を受けているのかを観察できること」

なのです。

 

そして、

ここで、

さらに深い問題が見えてきます。

情報は、

私たちの「頭」に入ります。

しかし、

情報だけで、

人間は動くのでしょうか?

なぜ、

同じ情報を見ても、

ある人は安心し、

ある人は恐怖を感じるのでしょうか。

なぜ、

一人の不安が、

集団全体の不安へと

広がっていくのでしょうか。

なぜ、

一人の怒りが、

何万人もの怒りへと

膨らむことがあるのでしょうか。

 

その鍵を握っているのが、

「感情」と「共感」

です。