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真実を観る眼力 105 「心技体」と「体技心」
心・技・体という武道の心得があります。
“間”を体現する立場から見ると、
体から整うことで、
技が純化し、
心が澄むという理解で、
順番は体・技・心が妥当になります。
しかし、
心・技・体は「順番」ではなく、循環構造と捉えるのが自然です。
🔹 一般的な「心技体」
多くの武道やスポーツでは、
心 → 技 → 体
(精神が整い、技が冴え、身体が動く)
という説明がされます。
例えば、五輪書 では、心の在り方が技の質を決めると説かれます。
これは「意識主導型」の理解です。
🔹 しかし“間”の体現から見ると
“間”とは、
判断や意図が生まれる前の身体状態とも言えます。
この視点に立つと、
① まず体が整う=体
↓
② 技が自然に起こる=技
↓
③ その体験が心を澄ませる=心
という流れになります。
これは
体 → 技 → 心
という「下からの統合」です。
🔹 なぜ体からなのか?
身体は嘘をつきません。
・重心が偏る
・呼吸が浅い
・肩が上がる
この状態で心だけ整えようとしても、深部では緊張が残ります。
しかし、
・足裏が静か
・肩甲帯が沈む
・呼吸が広がる
この状態になると、
心は“降りて”きます。
心を上から操作するのではなく、
体現から心が静まる。
🔹 武道的に言えば
例えば 植芝盛平 は、
「まず身体を清めよ」と語っています。
これは精神論ではなく、身体の整いが心を決めるという体験的理解です。
🔹さらに深く整理すると
心技体は
心=方向性(意図)
技=構造(現れ方)
体=媒体(場)
👉 “間”とは
この三者が分離する前のゼロポジション。
そこにとどまれると、順番という概念自体が消えます。
🔹「体現したものから心に降りていく理解」(体技心)の本質
それは逆順(体・技・心)というより、
体から始まる円環運動と捉えるのがより本質的です。
体が整う
→ 技が純化する
→ 心が澄む
→ さらに体が精妙になる
この循環です。
🔹「間」からの身体操作を習得しても、心・意識の在り方が整ってなければ、心に降りるとは限らない?
武道的な考えの「心技体」とは、意識主導型の考えかたで、
心が整い、初めて技が整い、身体が体現して行くという、心から体に落とします。
つまり心(気)が身体をコントロールして行くという考えです。
しかし、正しく“間”にとどまれているなら、いずれ心は変容せざるを得ない。
この違いが重要です。
🔹 ① ただの「身体操作」と「間」は別物
高度な身体操作は、利己的な動機のままでも習得できます。
実際、どんな武道でも技術は高い、しかし人格は未熟という例はあります。
たとえば、プロ競技の世界でも、技術と人格は必ずしも一致しません。
つまり、
技術習得 ≠ 心の成熟
です。
🔹 ② では「間」はどうか?
本当の“間”とは、
✔ 反応しない
✔ 奪わない
✔ 焦らない
✔ 固執しない
という状態です。
この状態に身体ごと入ると、利己的な緊張は物理的に維持できません。
なぜなら、
利己的意識は
・前のめり
・呼吸が浅い
・肩が上がる
・視野が狭くなる
という身体状態を伴うからです。
🔹 ③ つまり何が起こるか
もし
間からの身体操作をしているのに心が変わらないのであれば、
それは
「間の形」をしているだけで、
「間の状態」には入っていない可能性があります。
🔹 ④ 武道的視点
沢庵宗彭 は
「心をどこにも置くな」と説きました。
これは精神論ではなく、身体がどこにも偏らない状態を指しています。
本当に偏らない身体は、意識の執着を保てません。
🔹 ⑤ 心が利己的なままなら、身体から入っても心に降りないか?
「体技心」には二段階あります。
⑴ 技術としての身体操作なら、心に降りないことはある。
⑵ しかし“間”そのものに入れているなら、必ず心の変容は起こる。
なぜなら、
間は
心・技・体が分離する前の状態だからです。
🔹 ⑥ 重要な見分け方
身体操作後に
✅ 呼吸が深くなるか
✅ 他者への反応が柔らぐか
✅ 判断が遅くなるか(衝動が減るか)
✅ 勝ち負けの執着が薄まるか
これが起きていなければ、まだ「技術領域」です。
🔹 本質的整理
意識主導型
心 → 技 → 体
"間”主導型
体 → 技 → 心
しかし最終段階は「心技体 」同時発生
順番は初学段階の便宜であり、成熟すると区別が消えます。
身体が完全に“間”に入ったとき、利己的な意識は本当に維持できるのか?
体験的な答えが、核心!
自ら体現しなければ、わからない領域です。
「蚊の構え」
