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真実を観る眼力 85 「意識が現実を創る」という考えの構造 16 中心・中庸(ゼロポジション)を整える...横隔膜調整法
『身体のコヒーレンス』が整うと、
『意識の中心・中庸(ゼロポジション)』に自然にもどり、
『心の静寂』が結果として生まれる、
この三つは別々の概念ではなく、一つの現象が、この三つの流れと異なる層でつながっていることを示しています。
以下、段階的に整理します。
1.「整(統合・肉体コヒーレンス)」・「中(中心・中庸・ゼロポジション)」・「静」の関係性
● 本質的な関係
『整』:(統合・コヒーレンス)は👉「身体的基盤」
『中』:中庸・ゼロポジションは👉「状態」
『静』:静寂は👉「結果」
という関係です。
● 身体側から見ると....『整』
姿勢・筋緊張・呼吸・重心が無理なく整う
拮抗筋が争わず、最小限の出力で立てる
感覚入力(足裏・内臓感覚・深部感覚)が均等化している
この状態が 👉 身体的コヒーレンス(整)
● 意識側から見ると....『中』
身体のどこかに「引っ張られない」
前後・上下・左右に偏らない
意図や感情が先走らない
この状態が 👉 中庸・中心・ゼロポジション(中)
そして結果として
思考が勝手に立ち上がらない
判断前の静けさが保たれる
「何も足さなくてよい」感覚が生まれる
これが
● 静寂....『静』
よって、
姿勢のコヒーレンスが「整」うほど、
意識は自然に「ゼロ」へ戻り、
「静寂」は、"起こそうとしなくても起こる”。
2.身体的コヒーレンス(整)と意識の中心・中庸(ゼロポジション)との関係
🔶 みぞおち奥(マニプーラチャクラ)を意識すると中心に戻りやすい
👉ここは、「中庸・中心」に戻るための非常に有効な入口」です。
チャクラ
🔹理由
マニプーラ(みぞおち奥)は、
- 身体の前後バランスの要
- 横隔膜・自律神経叢・内臓感覚の集約点
- 「私が動く」という意志が生まれる場所
でも、力みが入ると「我・支配・緊張」に傾く場所でもあります。
🔹正しい使い方のポイント
「力を入れる」ではなく
奥に“沈める・預ける・溶かす”
この感覚で意識すると、
身体が前にも後ろにも行かない
呼吸が深く自然になる
意識が上下に浮遊しにくい
👉 結果として「中(中庸)」に戻りやすい
3. 丹田に意識を置く場合との違い
- 丹田(下丹田)
- 重心の安定
- 地に足がつく
- エネルギーが漏れにくい
- 行為・動作に強い
👉「動の安定」「持続性」「現実的な強さ」
🔶 マニプーラ(みぞおち奥)
- 意志と自律神経の調整
- 判断前の静けさ
- バランス感覚
- 中庸への復帰点
👉「静への復帰」「中心調整」「ゼロ化」
<使い分けの整理>
| 状況 | 適した意識 |
| 動く・歩く・作業する | 丹田 |
| 迷い・感情が揺れる | マニプラ |
| 統合を深める | 丹田+マニプラを縦につなぐ |
| 静寂に戻る | マニプラ奥 |
🔑丹田は「安定」、マニプラは「中庸」
両者が縦に通ると、姿勢と意識が同時に整います。
4. 俯瞰する意識とゼロポジションの関係
俯瞰する意識とゼロポジションは、明確に「つながっています」。
ただし重要な違いがあります
❌ 俯瞰=頭で見る → 不安定
- 意識が上に浮く
- 身体感覚から離れる
- 中心が抜ける
⭕ 俯瞰=中心に留まりながら見る
- 判断せず、巻き込まれない
- 内と外が同時に感じられる
- 観察者が動かない
これは、 👉 ゼロポジションに居続けている状態
✅ 本質的な定義
ゼロポジション
=「どこにも偏らない位置」
俯瞰意識
=「その位置から世界を見る在り方」
🔑 中心に居るから俯瞰できるのであって、俯瞰しようとして中心に戻るのではない
5.ゼロポジションを整える...横隔膜調整法
👯意識の中心・中庸(ゼロポジション)を肉体で体現する
⑴ 横隔膜調整セルフセラピーⅠ
①横隔膜に沿って手を当てる
②手を当てたまま、息を吸うとき横隔膜が下方に下がるのをイメージ
③息を吐くとき横隔膜が上方に上がるのをイメージ
*10~20回繰り返し
(2) 横隔膜調整セルフセラピーⅡ
① 自分の手(2指から5指)を肋骨下縁に沿わせる
② 息を吐くとき、手(2指から5指)を肋骨下縁から上に引き上げるようにして横隔膜を上方に上げる
③ 息を吸うとき、肋骨下縁に沿わせた手(2指から5指)を緩め、横隔膜が下方に下がるのに追従させる
*10回繰り返し
🟥 まとめ(統合)
整:(身体のコヒーレンス)が整う
→ 中:(ゼロポジション)に自然に戻る
→ 静:(静寂)が結果として立ち現れる
マニプラ奥は「中庸への復帰点」
丹田は「安定と行為の基盤」
俯瞰意識は、中心に留まることで自然に成立する
そして
ゼロポジションで生きるとは
静寂・中心・中庸を
「思考・想い・意識で理解する」のではなく
肉体の使い方として日常に現し続けること





